03.銀色の少女
還らずの谷へ昼の光が差し込み始めた頃、ユウは温泉から伸びる水路の確認をしていた。
源泉から流れ出した湯は、古びた石組みの水路をゆっくり通りながら岩場へ流れ込んでいる。だが長い年月放置されていたせいか、ところどころ崩れている場所も多く、湯の流れは完全には安定していなかった。
ユウはしゃがみ込み、水路へそっと手を触れる。
すると、水の感覚が指先へ伝わってくる。
流れの強さ。
湯温。
水質。
それらが自然に頭へ浮かび上がり、乱れている場所までなんとなく分かるようになっていた。
「……ここか」
ユウはずれていた石を少し動かす。
すると滞っていた湯が滑らかに流れ始め、水音がわずかに穏やかになる。
不思議だった。
昨日まで役立たずと言われていたスキルが、この場所では驚くほど自然に使える。
戦う力ではない。
だが、この温泉を整えるためなら確かに役立っていた。
「もう少し直せば、ちゃんと使えそうだな」
ユウは小さく笑いながら立ち上がる。
その時だった。
ガサッ――。
森の奥で何かが揺れる音がした。
ユウの表情が僅かに引き締まる。
還らずの谷だ。
何が現れてもおかしくない。
ゆっくり視線を向けると、霧の向こうで何かがふらつくように動いていた。
小柄な人影だった。
銀色の髪。
軽装。
そして頭には、狼の耳。
「……獣人?」
その少女は数歩進んだところで大きく身体を揺らし、そのまま地面へ崩れ落ちた。
ユウは反射的に駆け出す。
近づいてすぐ、普通ではない状態だと分かった。
肩から血が流れている。
服は泥と裂傷だらけで、かなり長い距離を逃げ続けてきたのだろう。灰銀色の尻尾は汚れ、モフモフだったはずの毛並みも乱れてしまっていた。
呼吸は荒く、熱も高い。
このまま放置すれば危険なのは明らかだった。
「大丈夫!?」
ユウが声をかけると、少女はうっすら目を開く。
銀色の瞳。
だが焦点は定まっていない。
警戒しているのは分かる。
それでも、身体が限界に近かった。
「……人間」
かすれた声だった。
ユウは一瞬だけ迷う。
獣人と人間の関係は決して良くない。
冒険者の中には獣人を嫌う者も多かった。
だから少女も、自分が助けられるとは思っていないのだろう。
だが、そんなことを考えている余裕はなかった。
「話は後でいいから、まず傷を見せて」
ユウは慎重に少女を抱え上げる。
驚くほど軽かった。
少女は一瞬だけ身体を強張らせたが、抵抗する力すら残っていないらしい。
ユウは急いで温泉の縁まで運び、そのまま岩場へ座らせる。
「少し染みるかも」
そう言いながら、肩の傷へそっと湯をかけた。
少女の身体がびくりと震える。
だが次第に、荒れていた呼吸が少しずつ落ち着き始めた。
「……え?」
ユウは思わず目を見開く。
傷口へ触れた温泉の湯が、微かに光った気がした。
しかも、血の流れが少し止まり始めている。
ユウは慌てて湯へ触れ、意識を集中する。
すると温泉の流れが手の感覚へ伝わってきた。
湯温。
魔力。
回復を促すような不思議な流れ。
ユウはその感覚を崩さないよう、水質を整えていく。
乱れていた流れが安定する。
すると少女の表情がさらに和らいだ。
苦しそうだった眉間の皺が少し消え、肩の力が抜けていく。
「……回復してる?」
信じられない光景だった。
完全に治っているわけではない。
だが普通では考えられない速度で傷の治りが早くなっている。
少女はぼんやりした表情のまま、温泉を見つめる。
その銀色の耳が小さく揺れた。
「……あったかい」
か細い声だった。
だがその声には、さっきまでの強い警戒が少しだけ薄れていた。
ユウは静かに息を吐く。
やはり、この温泉は普通じゃない。
しかも、自分のスキルでその効果を安定させられる。
戦えない力。
役立たずと言われたスキル。
だが今、自分は確かに誰かを助けていた。
その事実が、不思議なくらい胸へ残る。
少女は再びゆっくり目を閉じる。
今度は気絶ではなく、安心して眠るような静かな呼吸だった。
ユウはその様子を見ながら、そっと温泉を見つめる。
聞こえるのは穏やかな水音だけ。
昨日まで一人だった谷に、もう一人分の呼吸が増えていた。
それが少しだけ、嬉しかった。




