04.静かな同居人
翌朝、還らずの谷には薄い朝霧が静かに漂っていた。
白い湯気を立ち上らせる温泉の周囲では、朝日を受けた木々がゆっくり揺れている。
源泉から流れる湯の音だけが穏やかに響いている。
危険地帯と恐れられる場所とは思えないほど静かな景色だった。
ユウは温泉の縁へ腰を下ろしながら、小さく息を吐く。
昨夜助けた獣人の少女は、すぐ近くで静かな寝息を立てていた。
肩の傷はまだ完全には塞がっていない。
それでも、昨日と比べれば明らかに良くなっている。
普通なら数日は動けなくてもおかしくない傷だ。
やはり、この温泉には強い回復効果があるらしい。
しかも、自分が湯へ触れて水質を整えると、その効果がさらに安定する感覚があった。
ユウは静かに温泉を見る。
湯気の向こうで、澄み切った湯がゆっくり揺れている。
「……本当に不思議な場所だな」
ぽつりと呟いた時だった。
隣で銀色の耳がぴくりと動く。
少女の瞼がゆっくり開き、ぼんやりとした銀色の瞳がユウを映した。
だが昨日ほど強い警戒はない。
代わりに、少し戸惑ったような表情をしている。
ユウはできるだけ穏やかな声で話しかけた。
「おはよう。傷、どう?」
少女は肩へ触れ、小さく目を見開く。
かなり痛みが引いているのだろう。
「……軽い」
「よかった」
少女はしばらく黙ったまま周囲を見回す。
温泉。
古びた建物。
水路。
そしてユウ。
その視線は、まるで安全かどうか確認している獣のようだった。
やがて少女は小さく口を開く。
「……ミナ」
「え?」
「名前」
どうやら自分の名前を教えてくれたらしい。
ユウは少し驚きながら笑う。
「そっか。俺はユウ」
「……ユウ」
ミナは確かめるようにその名前を呟く。
その後、再び静かな時間が流れた。
気まずさはない。
ただ、水音だけが穏やかに響いている。
しばらくして、ミナはふと壊れかけた建物を見上げた。
柱は傾き、壁も一部崩れている。
屋根も完全ではない。
今すぐ倒れるほどではないが、このまま暮らすにはかなり危険だった。
「……住むの?」
ミナが小さく聞く。
ユウは少し考えた後、頷いた。
「そのつもり。人も来ないし、静かだから」
するとミナは温泉を見る。
白い湯気。
静かな湯。
その光景を見つめた後、ぽつりと言った。
「……ここ、落ち着く」
「うん。俺もそう思う」
ミナは少し黙り込む。
耳が小さく揺れ、何かを考えているようだった。
やがて、小さな声で呟く。
「……いる」
「え?」
「ここ、いる」
ユウは一瞬目を瞬かせる。
どうやら、“ここへ残る”と言っているらしい。
ミナは視線を逸らしたまま、ぽつりと続けた。
「森、疲れる」
その言葉には、少しだけ本音が混ざっていた。
ユウは無理に聞き返さない。
ミナにも色々事情があるのだろう。
それでも、この場所を“落ち着く”と思ったのは本当らしい。
ユウは少し笑う。
「じゃあ、一緒に暮らす?」
ミナは小さく頷いた。
「ん」
短い返事だった。
だがその瞬間、不思議なくらい自然に感じた。
昨日まで一人だった場所へ、もう一人増える。
それだけなのに、この谷の景色が少し違って見える。
ユウは立ち上がり、壊れた建物へ向かう。
「まずは修理かな」
「手伝う」
即答だった。
「まだ怪我人なんだけど」
「動ける」
ミナはそう言いながら立ち上がる。
すると次の瞬間、彼女は森の方へ走り出した。
「え?」
あまりに突然だった。
ユウが止める間もなく、ミナの姿は木々の奥へ消えていく。
速い。
気配まで薄い。
獣人特有の身体能力なのだろう。
ユウが呆然としていると、数分後。
バキバキバキッ!!
森の奥から盛大に木が折れる音が響いた。
「なに!?」
思わず身構えた次の瞬間、ミナが大木を抱えて戻ってくる。
「取れた」
「いや大きすぎるでしょ!?」
細身の少女が巨大な木材を軽々運んでいる光景はかなり異様だった。
だがミナ本人は真顔である。
「使う」
「いや、使うけど……」
ユウは額を押さえながら苦笑する。
どうやら獣人の基準と人間の基準はかなり違うらしい。
その後、二人で廃屋の修理が始まった。
ユウは崩れた壁を直し、水路の流れを整える。
ミナは木材を運び、壊れた柱を支える。
作業は決して順調ではない。
それでも、不思議と悪くなかった。
誰かと一緒に何かを作る。
そんな当たり前のことが、ユウには少し新鮮だった。
夕方になる頃には、入口周辺だけなんとか形になっていた。
ミナは縁側へ座りながら、小さく息を吐く。
「疲れた」
「ちゃんと疲れるんだね」
「……失礼」
耳が少し垂れていた。
どうやら本当に疲れているらしい。
ユウは思わず笑ってしまう。
そして温泉を指差した。
「入る?」
その瞬間、ミナの耳がぴんと立つ。
分かりやすかった。
しばらくして。
ミナは温泉へ肩まで浸かりながら、幸せそうに目を細めていた。
銀色の髪は湯気で少し湿り、モフモフの耳も力が抜けている。
「……落ち着く」
「気に入ったみたいだね」
「好き」
即答だった。
ユウは小さく笑いながら、白い湯気を見上げる。
還らずの谷。
人が恐れる危険地帯。
だが今この場所には、静かな湯気と穏やかな空気が流れていた。
そしてその隣には、銀髪の獣人少女がいる。
“やわらぎの湯”での暮らしは、こうして少しずつ形になり始めていた。




