26 黒羽の来訪者
還らずの谷の朝は静かだった。
白い湯気が谷全体を包み、水路を流れる温泉の音が穏やかに響いている。
“やわらぎの湯”には、今日も客が泊まっていた。
昨夜遅くに到着した冒険者たちは、朝食を食べながら心底安心したような顔をしている。
「……久しぶりに熟睡した」
若い冒険者がぼんやり呟く。
隣の仲間も深く頷いた。
「分かる。なんか、頭の重さまで消えてる感じする」
「温泉ってこんなすごかったっけ……」
その会話を聞きながら、レインは静かに追加のスープを置いていく。
以前よりも料理の種類は増えていた。
焼きたての平焼きパン。
温泉水を使ったスープ。
香草焼きの川魚。
最近では、簡単なデザートまで出るようになっている。
「……美味い」
客の一人が思わず漏らす。
レインは少しだけ目を逸らした。
まだ味覚は戻っていない。
だが、“美味しい”と言われることへの恐怖は、以前ほど強くなくなっていた。
その時だった。
ミナの耳がぴくりと動く。
「……飛んでる」
ユウが顔を上げる。
次の瞬間。
バサァッ――!!
巨大な黒い影が空を横切った。
客たちが一斉に身構える。
「なっ……!?」
「魔物か!?」
だがその影は、宿の上空を大きく旋回した後、ゆっくり地面へ降り立った。
黒い羽。
赤い瞳。
大型の鴉のような魔物だった。
だが普通の魔物ではない。
その身体には、淡く魔力紋様が浮かんでいる。
リーフェが目を細めた。
「……使い魔?」
空気が少し張り詰める。
使い魔。
それは高位魔族や上級魔術師が使役する特殊存在だ。
つまり、この鴉には“主”が居る。
客の冒険者たちも緊張した顔になる。
だが。
黒鴉は静かに周囲を見回した後、首を傾げた。
「…………」
そして。
トテトテ。
普通に温泉へ近づいていく。
空気が止まる。
「……え?」
カヤが目を瞬かせる。
黒鴉は温泉の縁まで来ると、湯気をじっと見つめ始めた。
まるで確認しているようだった。
その時。
グゥゥゥゥ……。
低い声が響く。
グーちゃんがゆっくり顔を上げていた。
巨大な黄金の瞳が黒鴉を見つめる。
普通なら、その瞬間に逃げ出してもおかしくない。
だが黒鴉は動かなかった。
むしろ。
「クルル……」
小さく鳴きながら、ぺこりと頭を下げた。
「礼儀正しい!?」
ダンが思わずツッコむ。
グーちゃんはしばらく黒鴉を見つめていたが、やがて静かに鼻を鳴らした。
どうやら敵認定はされなかったらしい。
空気が少し緩む。
リーフェは静かに呟いた。
「かなり高位の使い魔ね……」
「分かるの?」
ユウが聞く。
リーフェは頷く。
「魔力制御が異常に丁寧。下手な魔術師じゃ扱えない」
つまり。
この使い魔の主は、かなり上位の存在だ。
その時だった。
黒鴉が突然、ユウの前へ歩いてきた。
そして。
「クル」
小さく鳴きながら、一枚の黒い封書を差し出した。
全員が固まる。
「……手紙?」
ダンが眉をひそめる。
封書には、見たことのない紋章が刻まれていた。
黒い翼を模したような紋章。
リーフェの表情が僅かに変わる。
「……魔族領の紋章」
空気が一瞬で静まり返る。
客の冒険者たちが青ざめた。
「ま、魔族領!?」
「なんでそんなもんがここに!?」
当然の反応だった。
人族と魔族は、長年対立している。
全面戦争こそ減ったが、今も小競り合いは続いているのだ。
そんな中、魔族領から手紙が届くなど普通ではない。
だがユウは、封書を見ながら少し困った顔をした。
「……開けて大丈夫かな」
「そこ!?」
ダンが即座にツッコむ。
すると黒鴉が再び「クル」と鳴く。
どこか、“読んでほしい”と言っているようだった。
ユウは少し迷った後、ゆっくり封を開く。
中に入っていたのは、短い文だけだった。
『“やわらぎの湯”へ興味を持っている。
敵意は無い。
いずれ、使者を送る。
――魔王軍』
沈黙。
数秒後。
「情報量が多い」
ダンが真顔で呟いた。
客の冒険者たちは完全に固まっている。
リーフェは静かに目を細めた。
「……魔王軍が、本気で興味を持ってる」
その事実は、かなり異常だった。
普通なら、人族領の施設へ魔王軍が接触するなどあり得ない。
だが。
この“やわらぎの湯”だけは、常識の外側に存在している。
その時。
グゥゥゥゥ……。
グーちゃんが黒鴉へ近づく。
黒鴉は少し緊張したように羽を震わせた。
だがグーちゃんは、黒鴉の前へ干し肉を置いた。
「…………」
全員が黙る。
黒鴉はしばらく干し肉を見つめた後、恐る恐る咥えた。
そして。
「クルル」
少し嬉しそうに鳴く。
「交流始まってる……」
カヤが呆然と呟く。
白い湯気が空へ静かに揺れていく。
還らずの谷。
争いの外側にある場所。
その異質な空間へ今、人族だけではなく、魔族までもが静かに引き寄せられ始めていた。




