25 ”魔族領”へ届く噂
アルディオン王国から遥か北西。
黒い山脈と深い霧に覆われた広大な土地――魔族領。
人族からは“恐怖の地”として語られているが、実際にはそこにも都市があり、文化があり、人々の暮らしが存在していた。
ただ一つ違うのは、“力”が絶対的な価値として根付いていることだった。
強者が上へ立つ。
弱者は淘汰される。
長い戦乱の歴史の中で、魔族たちはそうして生き残ってきた。
その中心。
巨大な黒城の最上階。
重苦しい静寂に包まれた玉座の間で、一人の男が静かに書類へ目を通していた。
漆黒の髪。
鋭い紅い瞳。
魔王――ゼルヴァディス。
圧倒的な力を持ちながらも、感情を荒げることの少ない冷静な支配者だった。
その彼へ、一人の配下が恭しく頭を下げる。
「報告です。“還らずの谷”に関する噂が、人族領で急速に拡散しています」
ゼルヴァディスの視線がゆっくり上がる。
「……還らずの谷?」
低く落ち着いた声が響く。
配下は続けた。
「アルディオン王国側の危険区域です。現在、“やわらぎの湯”と呼ばれる温泉宿が存在しているとの情報があります」
部屋の空気がわずかに変わる。
周囲へ控えていた四天王たちも静かに視線を向けた。
「温泉宿?」
くすり、と小さな笑い声が響く。
長い銀紫色の髪を揺らしながら、妖艶な女魔族が脚を組み直した。
四天王の一人――セレディア。
情報収集と諜報を得意とする魔族だった。
「危険地帯に宿だなんて、随分と面白い話ですこと」
艶のある声で、楽しそうに微笑む。
「しかも、“人と魔物が共存している”だなんて」
その瞬間、部屋が静かになる。
人と魔物の共存。
普通なら成立しない。
特に上位魔物ほど縄張り意識が強く、人族と同じ空間で過ごすなどあり得ない。
だが報告はさらに続く。
「加えて、“精神が安定する温泉”という噂も広がっています」
「精神安定……」
ゼルヴァディスが静かに呟く。
その単語へ、わずかに興味を示した。
魔族領でも、長い戦いによる疲弊は深刻だった。
特に前線へ立つ者ほど、常に殺気と緊張へ晒され続けている。
争いが当たり前の世界では、“休む”こと自体が難しい。
だからこそ、“争う気が薄れる場所”という話は妙に耳へ残った。
その時だった。
別の四天王が低い声で言う。
「……罠の可能性は?」
重厚な黒鎧を纏った巨大な魔族。
武闘派四天王――バルグレイだった。
彼は腕を組みながら険しい表情を浮かべる。
「人族側の情報をそのまま信用するのは危険だ。特に“争わない空間”など都合が良すぎる」
当然の警戒だった。
だがセレディアは余裕の笑みを崩さない。
「可能性はありますわ。でも、妙なんですのよ」
「妙?」
「噂に“敵意”が薄いんです」
その言葉に、空気が少し静かになる。
普通、人族側から流れる情報には必ず恐怖や敵対感情が混ざる。
だが“やわらぎの湯”の噂は違った。
“身体が軽くなった”。
“久しぶりによく眠れた”。
“また行きたい”。
そんな感想ばかりが広がっている。
危険地帯の噂とは思えないほど、“穏やか”なのだ。
セレディアは頬杖をつきながら、楽しそうに笑った。
「だからこそ気になるんですの。本当にそんな場所が存在するのか」
その時だった。
部屋の隅から、小さな声が聞こえる。
「温泉……?」
全員の視線が向く。
そこへ座っていたのは、小柄な少年型の魔族だった。
淡い灰銀色の髪。
眠たそうな瞳。
四天王の一人――ヴァルト。
普段は会議にもあまり興味を示さない彼が、珍しく反応していた。
ヴァルトはぼんやりした顔のまま聞く。
「温泉、あたたかい?」
「多分そうですわねぇ」
セレディアがくすくす笑いながら答える。
するとヴァルトは少し考え込み、ぽつりと呟いた。
「……行ってみたい」
部屋が静まり返る。
バルグレイが頭を押さえた。
「お前はすぐそう言う……」
だがゼルヴァディスは怒らなかった。
むしろ静かに考え込んでいる。
還らずの谷。
その奥に存在する、“争わない場所”。
もし本当にそんな空間が存在するなら。
それは、この世界で最も異質な存在かもしれない。
ゼルヴァディスは静かに玉座へ背を預ける。
長い戦いの中で、彼は数え切れないほどの争いを見てきた。
人族も。
魔族も。
結局は疲弊し続けている。
だからこそ、“争わなくていい場所”という話が少しだけ気になった。
その時、配下がさらに報告を続ける。
「加えて、王国所属の薬師による湯質分析も失敗したとの情報があります」
ゼルヴァディスの目が静かに細くなる。
「……解析不能か」
ただの温泉ではない。
その確信が少しずつ強まっていく。
白い湯気は今、人族領だけではなく、魔族領へまで静かに広がり始めていた。




