24 ”王都アストリア”の噂
アルディオン王国――王都アストリア。
王国最大の都市であり、政治、商業、冒険者文化、その全ての中心地。
巨大な白亜の城を囲むように街が広がり、貴族街、商業区、職人街、冒険者街が整然と並んでいる。
昼夜を問わず人の流れは絶えず、王都には常に無数の情報が飛び交っていた。
そんなアストリアで最近、ある奇妙な噂が静かに広がり始めていた。
――還らずの谷に、“温泉宿”がある。
最初にその話が出た時、誰も本気にはしなかった。
当然だ。
還らずの谷は、王国でも特に危険視されている場所の一つである。
迷いの森を越えた先には凶悪な魔物が棲みつき、生還率は極端に低い。冒険者ですら、よほどの実力者でなければ近づかない。
そんな場所に“宿”があるなど、酔っ払いの冗談にしか聞こえなかった。
だが。
「……またその話か」
冒険者街の酒場で、一人の戦士が呆れたように酒を置く。
すると隣席の男が身を乗り出した。
「いや、でも最近やたら聞くだろ。“やわらぎの湯”」
「身体が軽くなる温泉だっけ?」
「それだけじゃないらしいぞ。なんか、頭まで落ち着くらしい」
酒場の空気が少しざわつく。
冒険者たちは常に疲れている。
怪我だけではない。
死と隣り合わせの依頼を繰り返すことで、神経も精神も擦り減っていく。
だからこそ、“休める場所”という噂は妙に心へ残った。
「しかも飯が美味いらしい」
「重要だな」
「あとヘルウルフが温泉入ってる」
「意味分かんねぇよ」
即座にツッコミが飛ぶ。
だが最近では、その“意味分からなさ”込みで噂が定着し始めていた。
還らずの谷の奥。
人と魔物が共存する温泉宿。
普通なら笑い飛ばす話だ。
だが実際に行った冒険者たちが、揃って“また行きたい”と言う。
その事実だけが、噂へ妙な現実味を与えていた。
さらに最近では、商人たちの間でも話題になっている。
王都商業区の一角。
香辛料と薬草の匂いが漂う茶店で、一人の行商人が熱心に語っていた。
「本当に不思議な場所なんですよ。“やわらぎの湯”」
向かいの商人仲間が半信半疑の顔をする。
「還らずの谷だろ? 普通、近づきたくもないぞ」
「最初は私もそう思いました。でも、一度行くとまた行きたくなるんです」
商人は静かに紅茶を飲む。
そして少し遠くを見るように続けた。
「空気が違うんですよ。肩の力が抜けるというか……ずっと張ってた神経が緩む感じで」
その場にいた別の商人も頷いた。
「分かる。“休んでいい”って思えるんだよな」
その言葉に、周囲が少し静かになる。
王都で生きる者たちは、常に何かへ追われている。
利益。
競争。
地位。
責任。
誰もが疲れている。
だからこそ、“争わなくていい場所”という噂が、人々の心へ少しずつ引っ掛かり始めていた。
そして数日後。
その噂は、ついに王城内部へまで届く。
アルディオン王城。
重厚な執務室の中で、一人の男が書類から顔を上げた。
国王――エルグラン・ヴァルディス。
威厳ある王として知られる男だが、その表情には最近かなりの疲労が滲んでいる。
山積みの書類。
貴族間の調整。
魔物被害。
国境問題。
王という立場に、休息などほとんど存在しない。
そのエルグランへ、側近が困ったように報告していた。
「最近、“やわらぎの湯”という温泉宿の噂が急速に広がっております」
「……還らずの谷の話か」
エルグランは小さく息を吐く。
既に何度か耳へ入っていた。
最初は荒唐無稽な噂だと思っていたが、妙に報告数が多い。
しかも、情報源が冒険者だけではない。
商人。
薬師。
行商人。
立場の違う者たちが、似た証言を繰り返している。
「実際に訪れた者たちは、“身体だけでなく精神まで安定する”と証言しております」
その言葉に、王の手が僅かに止まる。
精神安定。
その単語が、妙に引っ掛かった。
エルグラン自身、最近まともに休めていない。
眠っても疲労が抜けず、頭痛も増えていた。
王という立場は、常に気を張り続ける必要がある。
だからこそ、“休める場所”という話が少し気になってしまう。
側近はさらに続ける。
「加えて、人と魔物が争わず共存しているとの報告も」
「……随分と夢物語だな」
エルグランが苦笑する。
だが完全には否定できなかった。
もし本当にそんな場所が存在するなら。
それは王国にとって、あまりにも特異だった。
その時。
コンコン。
執務室の扉が叩かれる。
「失礼します」
入ってきたのは、王国所属の薬師だった。
彼女は緊張した顔のまま、真っ直ぐ王を見る。
「陛下。“やわらぎの湯”の湯質分析ですが……失敗しました」
空気が止まる。
エルグランが静かに目を細めた。
「失敗?」
「はい。解析不能です」
薬師は困惑したまま続ける。
「普通の温泉ではありません。魔力循環が異常なほど安定しています」
その報告に、王の視線がゆっくり窓の外へ向く。
還らずの谷。
その奥で、一体何が起きているのか。
白い湯気の向こう側へ、王都アストリアの視線が少しずつ向き始めていた。




