22 行商人
還らずの谷へ吹く風は、少しずつ春の匂いを帯び始めていた。
白い湯気を立ち上らせる“やわらぎの湯”には、今日も静かな時間が流れている。
食堂からはレインの料理の香り。
水路を流れる湯の音。
時折聞こえるカヤの笑い声。
そして温泉では、相変わらずヘルウルフたちがくつろいでいた。
もはや誰もツッコまない。
「……平和だなぁ」
ダンが温泉の縁へ腰掛けながら呟く。
その隣では、グーちゃんが完全に脱力していた。
巨大な身体を湯へ沈め、気持ちよさそうに目を細めている。
どう見ても危険生物ではない。
ミナはその背中へ寄りかかりながら静かに頷く。
「平和」
「お前ら見てると感覚狂うんだよ」
ダンが苦笑する。
その時だった。
ミナの耳がぴくりと動く。
「……荷物」
「ん?」
「いっぱい」
その言葉に、全員の視線が森へ向く。
やがて迷いの森の奥から、ガラガラと木車の音が聞こえ始めた。
「……馬車?」
ダンが眉をひそめる。
こんな危険地帯へ馬車で来る人間など普通はいない。
数分後。
森を抜けて現れたのは、一台の小さな荷車だった。
荷物が山積みになっている。
布。
木箱。
樽。
乾燥食材。
さらに先頭には、小柄な男が一人立っていた。
年齢は三十代半ばほど。
細い目と商人らしい愛想笑いが特徴的だ。
だが今は、その笑顔が完全に引きつっていた。
「…………」
男の視線は温泉へ固定されている。
正確には。
温泉へ浸かるグーちゃんへ。
「ひぇっ」
情けない声が漏れた。
当然だった。
グレートヘルウルフが温泉へ浸かっている光景など、この世の誰も想定していない。
しかもその周囲にはヘルウルフまで居る。
男は荷車を押したまま完全に固まった。
「……どうしよう帰りたい」
本音が漏れていた。
カヤが吹き出す。
「気持ちは分かる!」
ダンも苦笑した。
するとユウが前へ出る。
「いらっしゃい。大丈夫ですよ」
「いや全然大丈夫に見えないんですが!?」
商人が即座にツッコむ。
視線はずっとグーちゃんへ固定されたままだ。
だが。
グーちゃんはちらりと商人を見た後、興味なさそうに再び湯へ沈んだ。
やる気がない。
商人は逆に困惑した。
「……襲わない?」
「温泉中だから」
ミナが真顔で答える。
「基準そこなんです!?」
ツッコミが響く。
その空気に、少しだけ緊張が和らいだ。
商人は慎重に荷車を進めながら宿を見る。
白い湯気。
暖かな木造建築。
穏やかな空気。
そして漂う料理の香り。
還らずの谷とは思えない光景だった。
「……本当に宿なんですねぇ」
「うん。“やわらぎの湯”っていうんだ」
ユウが看板を見る。
商人もつられて看板を見上げた。
そして小さく感心したように呟く。
「噂以上だ……」
「噂?」
ダンが聞き返す。
商人は頷いた。
「最近、街の冒険者たちの間で話題なんですよ。“還らずの谷に、疲れが消える温泉宿がある”って」
「もうそこまで広がってんのか」
ダンが呆れる。
商人は苦笑した。
「最初は誰も信じませんでした。でも実際に来た冒険者たちが皆、“また行きたい”って言うんです」
それは異常なことだった。
還らずの谷は、恐れられる場所のはずだ。
なのに今、“また行きたい”という噂が広がっている。
商人は周囲を見回す。
「で、興味が湧いて来てみたんですが……」
視線がグーちゃんへ向く。
「想像以上でした」
「分かる」
ダンが真顔で頷く。
その後、商人は荷車の中身を広げ始めた。
乾燥肉。
小麦粉。
調味料。
布類。
簡単な食器。
さらに保存用の酒まである。
「色々持ってきましたよ。こういう宿なら、物資必要でしょう?」
ドグランの目が光る。
「工具はあるか!?」
「ありますよぉ」
「よし買う!」
職人が即反応した。
レインも調味料へ興味を示し始める。
カヤは甘い干し果物を見つけて目を輝かせていた。
宿へ、初めて“外の流れ”が入ってきた瞬間だった。
ユウはその光景を少し不思議な気持ちで見つめる。
最初は閉ざされた谷だった。
だが今は違う。
人が訪れ。
噂が広がり。
物が運ばれてくる。
少しずつ、この場所が“世界と繋がり始めている”。
その時。
グゥゥゥゥ……。
低い声が響く。
振り向くと、グーちゃんがじっと荷車を見ていた。
正確には。
積まれている干し肉を。
「……欲しいのか?」
商人が恐る恐る聞く。
グーちゃんは静かに鼻を鳴らした。
完全に肯定だった。
数秒後。
「……はい」
商人が震える手で干し肉を差し出す。
グーちゃんは巨大な口で器用に受け取り、ゆっくり咀嚼した。
そして。
ふぅ……。
満足そうに鼻を鳴らす。
商人は呆然とその光景を見ていた。
「……俺、今、災害級魔物に商品売った?」
「ようこそ、やわらぎの湯へ」
ダンが遠い目で言った。
白い湯気が空へ静かに揺れていく。
還らずの谷。
人が恐れた危険地帯。
その奥では今、人と魔物と世界が少しずつ繋がり始めていた。




