21 広がる噂
“やわらぎの湯”が完成してから数日。
還らずの谷には、以前よりもさらに穏やかな空気が流れるようになっていた。
朝になれば白い湯気が谷を包み、水路を流れる湯の音が宿全体へ静かに響く。
食堂からはレインの料理の香りが漂い、建物の周囲ではヘルウルフたちが思い思いにくつろいでいる。
その光景にも、ダンたちはすっかり慣れてしまっていた。
「……慣れって怖ぇな」
ダンが温泉へ浸かるグーちゃんを見ながら呟く。
巨大なグレートヘルウルフは、今日も気持ちよさそうに湯へ顎を乗せていた。
完全に常連である。
ミナはその横へ静かに座り込み、モフモフの背中へ寄りかかっている。
「暖かい」
「お前も馴染みすぎだろ」
「最初からいる」
「それはそう」
ダンが苦笑する。
その時だった。
ミナの耳がぴくりと動く。
「……来る」
全員の視線が森へ向く。
迷いの森の奥から、微かな足音が近づいてきていた。
しかも複数。
かなり慎重な足取りだ。
ユウは静かに立ち上がる。
「客かな」
数分後。
迷いの森を抜け、二人組の若い冒険者が姿を現した。
男と女の冒険者だった。
装備は土埃だらけで、顔には疲労が色濃く浮かんでいる。ここへ辿り着くまで、かなり神経を削られてきたのだろう。
だが二人は、谷の景色を見た瞬間、その場で完全に固まった。
「……え」
男の口から間抜けな声が漏れる。
視界の先には、白い湯気を立ち上らせる温泉宿。
暖かな木造建築。
整えられた水路。
そして。
温泉へ浸かる巨大なヘルウルフ。
「…………」
空気が止まる。
さらに奥で、グーちゃんがゆっくり顔を上げた。
黄金色の瞳が二人を見つめる。
次の瞬間。
「ひっ……!?」
二人の顔色が一瞬で青くなった。
当然だった。
グレートヘルウルフなど、本来なら遭遇した瞬間に逃走を考える相手だ。
しかも周囲には普通のヘルウルフまで居る。
だが。
グーちゃんは大きく欠伸をした後、再び温泉へ顎を乗せただけだった。
やる気がまるでない。
「……あれ?」
女冒険者が混乱した声を漏らす。
するとミナが静かに言った。
「グーちゃん、平気」
「グ、グーちゃん?」
名前の軽さに、二人はさらに混乱した。
ダンが苦笑しながら前へ出る。
「安心しろ。襲わねぇよ」
「ダンさん!?」
男冒険者が目を見開く。
どうやら顔見知りらしい。
ダンは肩を竦めた。
「噂聞いて来たんだろ?」
「え、えぇ……。“還らずの谷に温泉宿がある”って……」
「半信半疑だったんですけど……」
二人は呆然と宿を見上げる。
無理もない。
普通なら、こんな場所へ宿など存在しない。
だが。
漂う湯気。
暖かな木の匂い。
静かな水音。
その全部が、“休める場所”だと自然に感じさせていた。
ユウは穏やかに笑いながら二人へ近づく。
「いらっしゃい。"やわらぎの湯”へようこそ。疲れたでしょ?」
その声を聞いた瞬間。
二人の肩から、少しだけ力が抜ける。
迷いの森を抜けるまで、ずっと緊張し続けていたのだろう。
女冒険者は小さく息を吐いた。
「……本当に宿なんですね」
「うん。温泉もあるよ」
「温泉……」
男冒険者が白い湯気を見る。
その表情には、警戒より疲労の方が強く浮かんでいた。
ちょうどその時。
グゥゥゥゥ……。
男の腹が盛大に鳴る。
数秒の沈黙。
そしてカヤが吹き出した。
「お腹空いてる!」
男は顔を真っ赤にする。
だがユウは笑った。
「ちょうどご飯できるところだから、よかったら食べていく?」
その瞬間。
二人の表情が、少しだけ緩む。
それが、“やわらぎの湯”へ訪れた最初の客だった。
その二人は、結局そのまま一泊していった。
温泉へ浸かり。
レインの料理を食べ。
久しぶりに深く眠れたらしい。
翌朝、帰る頃には二人とも最初よりかなり表情が柔らかくなっていた。
「……また来ます」
帰り際、女冒険者が少し笑いながら言う。
ユウは少し驚いた。
還らずの谷。
本来なら、“また来たい”と思う場所ではない。
だが今、この宿は少しずつ変わり始めている。
そして、その変化は思った以上に早かった。
数日後。
「……また来た」
ミナが森を見る。
今度は三人組の冒険者だった。
さらに数日後には、薬草採取人の男が一人。
その次は行商人。
また別の日には、“噂を聞いただけ”という若い冒険者たちまで現れた。
最初は全員、同じ反応をする。
温泉宿を見て固まり。
ヘルウルフを見て青ざめ。
グーちゃんを見て絶望する。
だが。
温泉へ入り。
料理を食べ。
一晩休む。
それだけで、帰る頃には少し表情が変わっていた。
「……なんなんだろうな、ここ」
ある夜。
食堂で客の一人がぼんやり呟く。
レインの料理を食べ終えた後の、静かな時間だった。
「危険地帯のはずなのに、妙に落ち着く」
「身体も軽いし……」
「なんか、頭まで静かになる」
その会話を聞きながら、リーフェは静かに湯気を見る。
やはり温泉の影響は大きい。
この場所は、人の心を穏やかにしている。
だからこそ、疲れた者たちが自然とここへ集まり始めているのだ。
その頃。
グーちゃんは食堂入口で丸くなっていた。
完全に看板狼である。
しかも最近では、客たちも少し慣れてきていた。
「……近くで見ると、意外と可愛いな」
若い冒険者が恐る恐る呟く。
するとグーちゃんは満足そうに鼻を鳴らした。
「順応早ぇな人類……」
ダンが遠い目をする。
だが、それもこの谷らしかった。
人も。
魔物も。
ここへ来ると、少しずつ肩の力が抜けていく。
ユウは食堂からそんな光景を見つめる。
笑い声。
料理の匂い。
白い湯気。
以前の自分では想像もできなかった光景だった。
追放され、一人で流れ着いた谷の奥。
そこで今、“誰かが休める場所”が本当に生まれ始めている。
白い湯気が夜空へ静かに揺れていく。
還らずの谷。
人が恐れた危険地帯。
その奥では今、少しずつ優しい灯りが増え始めていた。




