遠くの戦火での約束
温泉都市『やわらぎ』で夏祭りが終わり、ユウとミナが宿の屋根の上から静かな夜景を眺めていた頃、その穏やかな空気とは遠く離れた場所で、別の国の兵士たちは重苦しい夜を迎えていた。
還らずの谷から何日も馬を走らせ、さらにいくつもの国境を越えた先にある異国では、長年くすぶっていた二国間の対立が再び大きくなっていた。
原因は複雑だった。
国境を流れる川の利用権、交易路の通行税、数十年前に結ばれた条約の解釈、そして互いに「先に譲れば弱みを見せることになる」と考える貴族たちの意地が絡み合い、話し合いだけでは収まらないところまで来ていた。
国境近くには双方の軍が集まり、丘陵地を挟んで陣を構えている。
まだ大規模な戦闘は起きていないものの、斥候同士が小競り合いを起こしたという報告もあり、兵士たちの間には「明日には開戦するらしい」という噂が広がっていた。
片方の陣営では、若い兵士が焚き火の前で剣を磨いていた。
手は動いているが、何度も同じ場所を布で擦っているだけで、剣身はとっくに十分なほど綺麗になっている。
隣に座っていた年上の兵士が、その様子を見ながら苦笑した。
「磨きすぎると剣がなくなるぞ」
「そんなわけないでしょう」
「だったら少し落ち着け。さっきから同じところしか磨いてない」
若い兵士は自分の手元を見て、ようやく気づいたらしい。
小さく息を吐くと、剣を鞘へ戻した。
「……先輩は怖くないんですか?」
「怖いに決まってるだろ」
若い兵士が顔を上げる。
「でも、全然そんなふうに見えません」
「見せても仕方ないだけだ」
年上の兵士は焚き火へ小枝を投げ入れながら、暗い丘の向こうを眺めた。
そこには敵軍の明かりがいくつも見えている。
あの火の周りにも、自分たちと同じように明日のことを考えて眠れない者がいるのだろう。
「俺は死にたくないぞ」
年上の兵士が言った。
「俺もです」
「だったら、生きて帰ることだけ考えろ」
若い兵士は少し笑った。
「勝つことじゃなくて?」
「勝って死んだら意味ないだろ」
少し離れたところで話を聞いていた別の兵士が、焚き火のそばへ寄ってきた。
「だったら帰ったあと何するか決めとこうぜ」
「何するんだ?」
「温泉」
その一言で、周囲にいた兵士たちが顔を上げた。
「温泉?」
「やわらぎだよ。知らないのか?」
「温泉都市やわらぎ?」
「そう、それ」
噂なら誰もが聞いたことがあった。
人間も魔族も同じ湯へ入り、国王と魔王まで並んで足湯へ浸かるという、遠い還らずの谷の温泉都市。
長年の古傷や呪いを癒やす黄金湯があり、各国の揉め事を話し合う国際平和議事堂まである。
最近では大きな夏祭りが開かれ、人間、魔族、獣人、天使、古竜まで同じ夜空の花火を眺めたという話が、旅商人や冒険者たちによって各地へ伝わっていた。
「俺の兄貴が行ったことあるんだよ」
兵士が続ける。
「去年、魔物討伐で肩をやってな。それがずっと痛かったらしいんだけど、黄金湯へ入ったらかなり良くなったって」
「本当に効くのか?」
「効いたらしい。それより飯がすげぇってずっと自慢された」
「温泉の話じゃないのかよ」
「食堂の鍋がうまいとか、露店の串焼きがどうとか、温泉まんじゅうは帰りに買えとか、延々聞かされた」
周囲から小さな笑いがおこり緊張していた若い兵士も、少しだけ肩の力を抜く。
「俺、まだ温泉って入ったことないです」
「なら行こうぜ」
「え?」
「ここにいる奴らで、生きて帰ったらやわらぎへ行くんだよ」
「いいな、それ」
「戦争帰りなら温泉ちょうどいいだろ」
「俺は黄金湯じゃなくて普通のでいいぞ。怪我する予定ないからな」
「その予定で行け」
笑い声が少し大きくなった。
先ほどまで明日の戦いについて話していた者たちが、今度は帰ったあとの予定を話し始める。
「俺はサウナってやつに入ってみたい」
「水風呂もあるらしいぞ」
「冷たい水にわざわざ入るのか?」
「王様と魔王がそれで仲良くなったらしい」
「何だその話」
「俺に聞くな。本当にそう聞いたんだ」
誰かがさらに笑う。
若い兵士も焚き火を見ながら、少しだけ明日の先を想像できるようになっていた。
戦場ではなく、剣も鎧も必要ない場所。
湯へ肩まで浸かり、何も考えず息を吐ける時間。
その光景を思い浮かべると、不思議と今までより死にたくないという気持ちが強くなった。
「じゃあ約束ですよ」
若い兵士が言う。
「何が?」
「生きて帰って温泉に行くって」
年上の兵士は少し驚いたあと、笑った。
「ああ。約束だ」
周囲の兵士たちも次々と頷く。
「俺も行く」
「なら俺も」
「お前ら、勝手に置いてくなよ」
「全員帰ればいいだろ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
勝って帰る。
敵を倒して帰る。
武勲を立てて帰る。
そうではなく。
ただ、生きて帰り温泉に行く。
その約束が、不思議なくらい全員の心へ残った。
同じ頃、丘の向こう側にある敵軍の陣地でも、よく似た会話が交わされていた。
こちらでは、壮年の兵士が小さな紙を広げている。
「何だそれ?」
隣の兵士が覗き込む。
「やわらぎの食べ歩きガイド」
「なんで戦場に持ってきてるんだよ」
「弟から借りたまま返すの忘れた」
表紙には『やわらぎ温泉街・食べ歩き完全ガイド』と書かれている。
カヤの本はすでにこの遠い国にまで届いていた。
兵士は焚き火の明かりでページをめくる。
「見ろ。温泉まんじゅう、種類がこんなにあるぞ」
「今読む本か?」
「眠れないんだからいいだろ」
別の男が横から覗く。
「この鍋うまそうだな」
「だろ?」
「戦争終わったら行きたいな」
「終わったらじゃなくて、生きて帰ったらだろ」
一瞬だけ静かになった。
誰もが明日を意識したからだ。
やがて、年若い兵士が小さく言う。
「俺たち、本当に戦うんですかね」
「命令が出ればな」
「向こうの兵士と、俺たち何かあったんですか?」
誰もすぐには答えなかった。
個人的な恨みがある者など、ほとんどいない。
川の利用権や税金、昔の条約について詳しく知っている兵士も少ない。
ただ国から呼ばれ、武器を渡されここにいる。
壮年の兵士は食べ歩きガイドを閉じた。
「だからって逃げるわけにもいかん」
「分かってます」
「だが、死に急ぐ必要もない」
兵士は本を自分の荷物へ戻す。
「生きて帰れ。終わったらみんなでやわらぎに行くぞ」
「本当に?」
「本当にだ。温泉入って、飯食って、酒飲んで、この馬鹿みたいな野営のことを笑い話にしてやる」
「俺、酒飲めません」
「なら温泉まんじゅう食ってろ」
再び小さな笑いが広がった。
不思議なことに、二つの陣営ではほとんど同じ約束が交わされていた。
敵軍の事情など、まして同じ温泉都市の話をしていることなど知るはずもない。
それでも両陣営の兵士たちは、戦いが終わったあとの目的地として同じ場所を思い浮かべていた。
遠い還らずの谷にある温泉都市『やわらぎ』へ行けば、鎧を脱いで武器を置ける。
誰がどちらの軍だったかを気にせず、同じ湯へ入ることだってできる。
少なくとも、そういう場所がこの世界のどこかに本当に存在している。
その事実は、これから戦場へ出ようとしている兵士たちにとって、思っていた以上に大きな意味を持っていた。
翌朝、まだ薄暗いうちから両軍の陣地では兵士たちが起こされ、鎧を身につけ、武器を受け取っていった。
昨日までなら、ただ命令通りに前へ出ることだけを考えていたかもしれない。
けれど、その日は少し違った。
若い兵士が兜を被りながら、隣に立つ先輩へ言う。
「約束、忘れないでくださいよ」
「何の?」
「温泉です」
「ああ」
年上の兵士は笑い、若者の肩を軽く叩いた。
「生きて帰って、みんなで行こう」
敵軍側でも同じ頃、一人の兵士が仲間へ声をかけていた。
「死ぬなよ」
「お前もな」
「帰ったらやわらぎだからな」
「まず温泉、そのあと飯だ」
「俺は飯が先だ」
「そこは現地で決めろ」
張り詰めていた空気の中に、ほんの少しだけ笑いが混じった。
戦争が始まるかもしれない状況は変わらない。
国同士の問題が消えたわけでもなく、兵士たちの意思だけで軍を引き返すこともできない。
それでも、彼らの中には一つだけ共通する思いが生まれていた。
こんな場所で死なず生きて帰る。
帰った先で鎧を脱ぎ、温かい湯へ浸かりたい。
やがて国境の丘に朝日が昇り、二つの軍勢が互いを見つめる。
けれど、その中に立つ兵士たちの多くは、敵を倒した先ではなく、戦争が終わったさらにその先を考えていた。
――生きて帰って、温泉に行こう。
まだ互いに知らないまま交わされたその約束は、やがて戦場そのものを変える小さなきっかけになろうとしていた。
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