温泉に行きたいから
国境の丘に朝日が昇り、両軍が向かい合った頃になっても、兵士たちの間には前夜に交わした約束が残っていた。
剣を握る手には力が入り、鎧の隙間からは冷たい朝の空気が入り込んでくる。
それでも多くの兵士たちは、目の前にいる敵を倒すことより、その先にある帰る場所を考えていた。
生きて帰って、温泉へ行く。
片方の陣営でも、もう片方の陣営でも、似たような言葉が兵士たちの間を静かに巡っていた。
そして、その空気は指揮官たちにも伝わっていた。
片方の軍を率いる将軍は、丘の上から敵陣を眺めながら眉を寄せていた。
「妙だな」
副官が隣で尋ねる。
「何がです?」
「兵の顔だ。怯えているわけではないが、殺気が薄い」
「こちらも同じです」
副官は少し困ったように答えた。
「昨夜から、兵の間で妙な話が流行っているようで」
「妙な話?」
「戦争が終わったら温泉都市『やわらぎ』へ行こう、と」
将軍はしばらく黙った。
「……温泉?」
「はい」
「今から戦争を始めようという軍で?」
「はい」
将軍は額を押さえた。
「何を考えているんだ、あいつらは」
とは言ったものの、実のところ将軍自身もやわらぎの噂は知っていた。
人間と魔族が同じ湯へ入り、長年争っていた者たちが足湯で話し合い、百年以上続いた領土争いすら短時間で和解したというどこまで本当なのか分からない話まで伝わっている。
少し前には大規模な夏祭りまで開かれ、各種族が同じ夜空に上がる花火を眺めたらしい。
副官が小さく笑った。
「将軍も、一度行ってみたいとは思いませんか?」
「今その話をするか?」
「戦が終わったあとなら」
将軍はまた敵陣を見た。
正直に言えば、行ってみたい。
最近は昔の傷が寒い日に痛むようになり、夜も眠りが浅い。
部下には言っていないが、長い遠征と続く交渉で身体はかなり疲れている。
温泉へ入って何も考えずに一晩眠れたら、どれほど楽だろう。
「……戦争が終わればな」
そう呟いた時。
反対側の陣営でも、ほとんど同じ会話が起きていた。
敵軍を率いる将軍は、出撃準備の報告を聞きながら露骨に機嫌を悪くしていた。
「兵が戦いたがらない?」
「正確には、命令には従うつもりですが、積極的に戦いたい者が少ないようです」
「昨日までと違うではないか」
「昨夜から温泉の話で盛り上がっておりまして」
「温泉?」
「やわらぎです」
将軍は目を閉じた。
「……お前たちまでか」
副官が驚く。
「ご存じで?」
「妻が一度行っている」
「そうなのですか?」
「美肌湯とやらが素晴らしかったらしく、帰ってから一月くらいその話しかしていなかった」
笑いをこらえる副官を無視して将軍は続ける。
「しかも食事までうまいらしい」
「それは聞きました」
「黄金湯もある」
「ありますね」
「足湯も」
「あります」
二人は少し黙った。
「……行きたいな」
将軍が言った。
副官は即座に頷く。
「行きたいですね」
その頃、両軍の間では緊張が高まりつつあった。
前線の兵士たちは互いの姿が見える距離まで進み、弓兵も配置につく。
誰か一人が矢を放てば、その瞬間に戦いが始まる。
それでも、兵士たちはどこか落ち着かなかった。
若い兵士が隣の仲間へ小声で言う。
「これ、本当にやるのかな」
「命令が出ればな」
「俺、昨日温泉の話聞いたせいで、もうそっちしか考えられない」
「分かる」
「このまま戦って怪我したら黄金湯だな」
「最初から怪我する予定で話すな」
「じゃあ普通の湯?」
「生きて帰れたら何でもいい」
敵陣側でも似たような会話が交わされているとは、彼らは知らない。
やがて両軍の中央から伝令が走ってきた。
開戦直前の最終確認。
本来なら、そのまま攻撃命令が下るはずだった。
しかし。
片方の将軍が突然言った。
「待て」
伝令が止まる。
「相手方へ使者を出す」
副官が驚く。
「今からですか?」
「ああ」
「条件は?」
将軍は少し考えた。
「……話をしたい、とだけ伝えろ」
「講和交渉ですか?」
「まだそこまで言っていない」
副官は将軍を見る。
将軍は小さく咳払いした。
「ただ、まあ……戦う前に一度くらい話してもいいだろう」
「足湯の影響ですか?」
「余計なことを言うな」
ところが使者が中間地点へ向かうと、反対側からも白旗を持った騎馬が出てきた。
双方の使者が出会う。
「そちらも?」
「そちらも?」
奇妙な沈黙が生まれた。
結果、開戦予定時刻から一時間も経たないうちに、両軍の中央に簡易会談所が作られた。
長机。
椅子。
地図。
護衛。
本来なら険悪な空気になって当然の場だった。
両軍の将軍が向かい合う。
しばらく黙ったあと、片方が口を開いた。
「正直に言おう」
「何だ」
「俺はこの戦いを長引かせたくない」
向かい側の将軍も眉を上げる。
「奇遇だな。俺もだ」
「兵も疲れている」
「こちらも同じだ」
「国境の川については譲れんが、全面戦争をするほどの問題かと言われると……」
「交易税についても調整の余地はある」
会談に同席していた文官たちが驚いて顔を見合わせる。
昨日まであれほど強硬だった両軍の指揮官が、まるで最初から妥協点を探すために来たかのように話している。
一人の文官が恐る恐る尋ねた。
「では、停戦案をまとめますか?」
二人の将軍は同時に答えた。
「まとめろ」
あまりにも早かった。
川の利用権は共同管理。
交易路の通行税は双方が同率まで引き下げる。
国境付近の兵力は段階的に削減。
境界確認については第三者を交えた再調査を行う。
これまで何か月も進まなかった話が、次々とまとまっていく。
文官たちが必死で内容を書き留めている間、片方の将軍が小声で尋ねた。
「ところで」
「何だ」
「やわらぎ、行ったことあるか?」
相手の将軍が動きを止めた。
「……ない」
「俺もない」
「妻は行った」
「どうだった?」
「かなりいいらしい」
「そうか」
少し間が空いた。
「講和が成立したら行かないか?」
「二人で?」
「軍を連れていくわけにはいかんだろう。休暇を分けて取らせればいい」
相手の将軍は真顔で考える。
「……悪くない」
文官の一人が思わず顔を上げた。
「今、何の話を?」
二人は同時に答えた。
「温泉だ」
「講和会議中ですよ!?」
「だから講和を急いでる」
片方の将軍が当然のように答える。
もう一人も頷く。
「戦争なんぞ始めたら温泉どころではなくなるからな」
文官たちはしばらく言葉を失った。
やがて片方が額を押さえる。
「……国の歴史に何と記録すればいいんです?」
「国境問題の平和的解決でいい」
「理由は?」
「双方の賢明な判断」
「本当は?」
二人の将軍が少し黙る。
「早く温泉に行きたいから」
文官は天を仰いだ。
それでも、理由が何であれ戦争を回避できるなら悪いことではない。
むしろ何百、何千という兵士の命が失われるより、遥かにいい。
会談開始から数時間後、正式な停戦合意が成立した。
さらにその日の夕方には暫定講和文書まで作成され、双方の代表が署名する。
戦闘は一度も起こらなかった。
両軍へ知らせが届くと、一瞬の静寂のあと大きなどよめきが起きた。
若い兵士が隣の先輩を見る。
「……終わったんですか?」
「ああ」
「戦わずに?」
「ああ」
「じゃあ……」
少し間を置き若者の顔が明るくなった。
「温泉行けますね!」
周囲から笑い声が上がった。
「お前そればっかりだな!」
「でも約束したでしょう!」
「したな」
「俺はサウナ」
「俺は黄金湯」
「怪我してない奴が黄金湯に入ろうとすんな!」
「じゃあ普通の大浴場でいい!」
反対側の陣営でも同じ知らせが届いていた。
「講和成立!」
「帰れるぞ!」
「本当に?」
「本当だ!」
歓声が上がる。
誰かが叫んだ。
「やわらぎ行くぞ!」
すると、あちこちから声が返ってきた。
「おう!」
「飯も食うぞ!」
「温泉まんじゅう忘れるな!」
「食べ歩きガイド持ってる奴いたよな!」
一人の兵士が荷物から例の本を掲げる。
「持ってるぞ!」
さらに大きな歓声が上がった。
不思議なことに戦場になるはずだった丘には、その日一度も剣戟の音が響かなかった。
代わりに聞こえていたのは、帰れることを喜ぶ兵士たちの声だった。
後日、この異例のスピード講和の知らせは、周辺諸国を驚かせることになる。
数か月も揉めていた問題が、両軍が向かい合ったその日に解決。
死者なし、負傷者なし。
戦闘そのものが行われなかった。
国際平和議事堂へ持ち込む前に、当事者たちだけで講和が成立してしまったのである。
その報告が温泉都市『やわらぎ』へ届いた時、ユウはちょうど大浴場の湯温を確認していた。
「戦争、なくなったんだ」
ユウが報告書を読みながら言う。
エルメリアが頷いた。
「なくなったというより、始まる前に終わったのよ」
「よかったね」
「理由がちょっと変なのよね」
「何で?」
エルメリアは報告書の最後を見る。
「両軍指揮官の非公式発言として、『長引かせると温泉へ行く暇がなくなるため、早期講和を優先した』」
ダンがちょうど通りかかり、足を止めた。
「……それ本当?」
「双方の記録に残ってる」
カヤが顔を出す。
「じゃあお客さん増える?」
「そこ!?」
「だって軍人さんいっぱい来るんでしょ?」
ユウは少し笑った。
「怪我せずに来てくれるなら、その方がいいよ」
その言葉に、ダンも少しだけ表情を緩めた。
確かに傷だらけになってから黄金湯へ来るより、誰も傷つかないまま普通の湯へ入りに来る方がずっといい。
遠い国境で戦うはずだった兵士たちは、その数日後から順番に休暇へ入ることになった。
そして彼らの多くは、本当に約束を果たすため、遠い還らずの谷を目指して旅を始める。
戦勝祝いでも凱旋でもない。
ただ生きて帰れたことを祝い、鎧を脱ぎ、温かい湯へ浸かるために。
戦争が始まりそうになった時、彼らを止めたのは恐怖でも武力でもなかった。
この先に温泉が待っている。
せっかくなら、生きてそこへ行きたい。
そんな、少しばかり力の抜けた理由だった。
けれどその理由によって誰も死なずに済んだのなら、温泉都市『やわらぎ』にとっては、それで十分な成果だった。
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