閑話 古竜たちへの温泉自慢
竜眠山脈の奥深く、人間はもちろん、並の魔族ですら近づこうとはしない高峰の一つに、フェルザードは久しぶりに足を運んでいた。
そこは遥か昔から古竜たちが時折集まる場所だったが、時折といっても古竜の時間感覚での話である。
人間からすれば数十年、下手をすれば百年以上も顔を合わせないことは珍しくなかった。
「遅いぞ、フェルザード!」
山頂へ降り立つなり、岩場に身体を横たえた炎天竜ヴァルガスの大声が響き渡った。
深紅の鱗を持つ巨大な古竜は、金色の瞳をフェルザードへ向けている。
「別に待ち合わせをしていたわけではないだろう」
フェルザードが人型へ変わりながら答えると、少し離れた場所から涼しげな声がした。
「あなたの場合、何百年も顔を出さなくなることがあるもの」
そう言ったのは氷海竜セレナだった。その近くでは冥星竜アステルが古い石板を眺めており、岩壁の前には地殻竜ガルヴァーンが巨大な身体を横たえている。
四大古竜が揃っている光景に、フェルザードは周囲を見回しながら目を細めた。
「珍しいな。全員いるとは」
「偶然だ」
ガルヴァーンが低い声で答えると、ヴァルガスはフェルザードを眺めて鼻を鳴らした。
「お前こそ妙に機嫌がいいではないか」
「そう見えるか?」
「見えるわね」
セレナまで即答したので、フェルザードは少し考えてから口元に笑みを浮かべた。
「まあ、最近面白い場所を見つけたからな」
「面白い場所ですか?」
アステルが石板から目を上げると、ほかの古竜たちも興味を引かれたようにフェルザードへ視線を向けた。フェルザードは、ほんの少し得意そうに腕を組む。
「温泉だ」
思いがけない答えに誰もすぐには反応できず、やがてヴァルガスが首を傾げた。
「何だと?」
「温泉だと言っている」
「それは分かった。なぜそんな顔をしている」
「入れば分かる」
フェルザードはますます楽しそうに、竜眠山脈の麓にある還らずの谷の話を始めた。
そこには人間の青年が整えた、やわらぎの湯という場所があり、人間だけでなく獣人や魔族、精霊に魔物まで訪れて、同じ場所で湯に浸かっているのだという。
それだけでも珍しい話だったが、フェルザードが何より力を込めたのは別のことだった。
「とにかく湯加減がいい」
「それだけか?」
ヴァルガスが眉を寄せると、フェルザードは不満そうに顔を向けた。
「それだけとは何だ」
「もっとあるだろう。伝説の秘湯だとか、飲めば千年若返るとか」
「別に若返らん」
「では、何がそんなに良い?」
フェルザードは少し考え、どう説明すれば伝わるのかを探るように口を開いた。
「入るとな、いろいろなことがどうでもよくなる」
ヴァルガスは返事に困って黙り込み、セレナも訝しげにフェルザードを見つめた。アステルまで珍しく困ったような顔をする中、ガルヴァーンが率直に言った。
「分かりにくい」
「では説明してやろう。まず湯へ入ると、身体が温まる」
「そこまでは普通ね」
セレナに指摘されても、フェルザードは構わず続けた。
「そのあと、自然と肩の力が抜けるのだ」
「古竜に肩こりでもあるのか?」
ヴァルガスが笑うと、フェルザードはその顔を見上げた。
「お前は一度入れば黙る。それから、飯もうまい」
「飯もあるのか?」
今度はガルヴァーンが顔を上げた。
「食堂があってな。料理人の腕がいい」
「肉はあるか」
「もちろんある」
「では、酒はどうだ?」
ヴァルガスも身を乗り出すように尋ねた。
「酒もある。我が何度も通っている程度には、満足できるものだ」
その答えにヴァルガスの目つきが変わったのを見て、セレナは呆れたようにため息を吐いた。
「結局、あなたが気に入って通っているという話でしょう」
「その通りだ」
「随分素直ね」
二体のやり取りを聞いていたアステルが、静かに問いかけた。
「その温泉には、何か特殊な魔力的性質があるのですか?」
「あるらしいが、詳しくはユウに聞け」
「ユウというのは?」
フェルザードはそこで、やわらぎの湯を整えている青年について話し始めた。
ユウは【水質変化】という、戦闘向きではない技能を持つ人間であること。
しかし、その能力を使って温泉の水質や温度を細かく調整し、それぞれの種族が入りやすい湯へ変えているということ。
話を聞くうちに、アステルの目には明らかな興味が浮かんでいた。
「水質そのものへ干渉するのですか? それは興味深いですね」
「あなたは研究の話ばかりね」
セレナが呆れると、アステルは穏やかに問い返した。
「あなたは興味がないのですか?」
「あるわよ。ただ、私は熱すぎる湯は嫌いなの」
「それも言えば調整してくれるぞ」
フェルザードが笑って答えると、セレナの眉が僅かに動いた。
「私向けの湯にしてくれるということ?」
「おそらくな」
「それなら、少し入ってみたいわね」
ヴァルガスはその会話に割って入るように、豪快な笑い声を上げた。
「なら俺は熱い湯だ! 岩が割れるくらいでいい!」
「風呂を何だと思っているの。そんな湯に誰が入れるというのよ」
「俺は熱ければ熱いほどいい!」
「お前の基準にほかの者を巻き込むな」
フェルザードが言うと、ガルヴァーンも頷いた。
「俺も熱すぎるのは好かん。普通の湯でいい」
「お前までセレナ側か! 古竜が普通を語るな!」
まだ温泉を見たことすらない四体が、早くも湯加減について言い合い始めていた。
フェルザードはその様子を眺めながら、楽しそうに笑った。
「だから、行けば分かると言っただろう」
「なら案内しろ!」
「今度な」
「その今度とは、いつだ?」
「そのうちだ」
セレナは冷たい目をフェルザードへ向けた。
「あなたの『そのうち』は百年単位なのだけれど」
「そうだったか?」
「前回もそうだったわ」
そのやり取りを聞いていたアステルが、何か思いついたように口を開いた。
「では、ちょうどいいのではありませんか?」
四体の視線が集まると、アステルは周囲を見回しながら続けた。
「我々がこうして全員揃うのは久しぶりです。次に自然と集まるのが何百年後になるかも分かりません。それなら、次はその温泉で集まるというのはどうでしょう」
フェルザードは少し意外そうに目を細めた。
「温泉で集まるのか?」
「ええ。せっかくあなたがそこまで自慢するのですから」
セレナも少し考えてから頷いた。
「悪くないわね。山頂で昔話をするだけよりは楽しそう」
「飯があるなら、俺も構わん」
ガルヴァーンが賛成すると、ヴァルガスは勢いよく立ち上がった。
「決まりだ! 温泉と酒と飯が揃っているなら、これ以上何がいる!」
「静けさも欲しいわね」
「宴で静かにしてどうする!」
「あなたと行くのが、急に嫌になってきたわ」
呆れるセレナと笑い続けるヴァルガスを眺めながら、フェルザードは仲間たちの顔を順番に見た。
全員がまともに同じ場所へ集まったのは、三百年前だっただろうか。
いや、もっと前だったかもしれない。
それぞれが自分の領域を持ち、好き勝手に生きている古竜にとって、こうして顔を合わせる機会は思いのほか少なかった。
だからこそ、たまには昔の仲間で集まるのも悪くない。
しかも場所があの谷なら、きっと退屈せずに過ごせるだろう。
「分かった。ユウに話しておこう」
フェルザードが笑うと、ヴァルガスは満足そうに頷いた。
「頼んだぞ!」
「日程はいつにしますか?」
アステルに尋ねられ、フェルザードは気軽に答えた。
「それは後で決める」
「あなたに任せると忘れそうね」
セレナが不安そうに言うと、フェルザードは胸を張った。
「忘れん。たぶんな」
「今、たぶんって言ったでしょう!」
ヴァルガスがまた笑い始める傍らで、ガルヴァーンはフェルザードへ念を押した。
「早めにしろ」
「分かっている」
そう答えながら、フェルザードはすでにやわらぎの谷の光景を思い浮かべていた。
湯気の立つ大浴場に、料理と酒を楽しむ客たちで賑わう食堂。
そして、どんな客が来てもいつもと変わらない顔で迎えてくれるユウがいる。
四大古竜をまとめて連れていったら、ダンはきっとまた頭を抱えるだろう。
その様子まで想像すると、フェルザードの口元には自然と笑みが浮かんだ。
こうして、後にやわらぎの谷を大騒ぎへ巻き込む四大古竜の同窓会は、フェルザードの温泉自慢に興味を引かれた仲間たちの一言から始まることになったのである。
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