閑話 天界分館の一日
やわらぎの湯・天界分館。
地上と天界を空中温泉パイプラインで繋ぎ、前代未聞の形で完成したその施設は、開業からそれほど日が経っていないにもかかわらず、すでに天界でも有数の人気施設になっていた。
もっとも最初からそうだったわけではない。
「本当に、ここへ入るのですか?」
ある日の朝、白い翼を持つ二人の天使が天界分館の入口で立ち止まっていた。
一人は地上監視を担当する天使。
もう一人は、長年にわたり天界各地の結界維持を担当している天使だった。
二人とも表情は真面目で、背筋もぴんと伸びている。
ただし、よく見れば片方は首を動かすたびに顔をしかめ。
もう片方は、翼の付け根を何度も気にしていた。
「私は別に疲れていません」
「私もです」
「では、なぜ来たのです?」
「セラフィエル様から、一度は利用するようにと」
「私も同じです」
二人はしばらく互いを見る。
そして、同時にため息を吐いた。
「……入りますか」
「そうしましょう」
暖簾をくぐる。
そこには地上のやわらぎの湯を参考にして作られた、天使専用の大浴場が広がっていた。
白い石造りの浴槽。
天井は高く翼を広げてもぶつからないよう、洗い場も通常よりかなり広い。
さらに壁際には『翼は十分に畳んでからご利用ください』
『濡れた翼は乾燥室へ』
『長時間の入浴はお控えください』
という案内板まで設置されている。
セラフィエルが地上で散々経験した結果である。
二人の天使は身体を洗い、恐る恐る湯へ入った。
「……」
「……」
数秒間、何も言わない。
さらに十秒……。
「……これは」
結界担当の天使が小さく呟いた。
肩まで沈む。
翼の付け根へ温かさがじんわりと広がり、長年張り詰めていた筋肉が少しずつ緩んでいく。
「何ですか、この感覚は……」
隣の天使も同じように目を閉じていた。
「身体が……軽い」
「あなた、疲れていないと言っていましたよね」
「あなたもでしょう」
「……」
「……」
二人とも何も言えなくなった。
しばらくすると結界担当の天使の翼が『ばさり』と浴槽の縁から落ちた。
先端が湯へ浸かる。
「翼が」
慌てて持ち上げようとするが、
「……もういいです」
そのまま湯へ浮かべた。
隣の天使も少し迷ったあと自分の翼を湯へ入れる。
「これ、やっていいのでしょうか」
「案内板には禁止と書いてありません」
「ならいいのでしょう」
その頃、休憩所でも天界ではあまり見られない光景が広がっていた。
長椅子に座り何もしない天使たち。
本当に何もしていない。
書類も持っていない。
神託の記録も。
結界の点検表も。
地上監視の報告書も。
ただ、湯上がりの飲み物を手にぼんやりしている。
最初はこれが苦手だった。
何もしないという状態に慣れていないからだ。
「……何かしなくてもよいのでしょうか」
一人の天使が聞く。
隣にいた天使も困った顔をする。
「休憩所なのですから、休むのでは?」
「具体的には?」
「……座る?」
「それだけ?」
「たぶん」
二人は座る。
一分。
二分。
三分。
そのうち、片方が背もたれへ身体を預けた。
「……楽ですね」
「はい」
もう片方も翼から力を抜いた。
「こういう時間、いつ以来でしょう」
「覚えていません」
その会話を聞いていた天界技師長エルディオが、少し離れた席で笑った。
「最初は皆そう言う!」
彼自身も仕事着のまま湯上がりの飲み物を飲んでいる。
「技師長は仕事しなくていいのですか?」
「今日は休みだ!」
「珍しいですね」
「ドグランに言われた!」
「地上の技師に?」
「『作った奴が休めねぇ設備なんて駄目だ』とな!」
エルディオは笑う。
「腹が立ったが、正論だった!」
そこへセラフィエルが入ってきた。
すでに天界分館では珍しくない姿だった。
六枚の翼を畳み、手には温泉手形ならぬ、天界分館専用の利用札。
受付の天使が少し驚く。
「セラフィエル様。本日も?」
「視察です」
周囲が静かになる。
何人かの天使が。
ちらりと見る。
セラフィエルが眉を寄せる。
「何です?」
一人が小さく答えた。
「先週も視察と」
「必要な確認です」
「三日前も」
「継続的な確認です」
「昨日も」
「……」
しばらく沈黙しセラフィエルが咳払いする。
「天界分館の運営状況を把握するのは、天使長として当然の職務です」
その時、休憩所の奥から声がした。
「極楽の湯、空きましたよ」
セラフィエルの翼がぴくりと動く。
周囲の天使たちが一斉に見る。
「……何です?」
誰も何も言わない。
セラフィエルは少しだけ早足で大浴場へ向かった。
その後ろ姿を見送り。
エルディオが小さく笑う。
「完全に気に入っているな」
もちろん天界分館の人気は温泉だけではなかった。
大宴会以降、地上から試験的に持ち込まれた温泉まんじゅうも天使たちの間で静かな人気を集めていた。
「一つください」
「本日は一人二つまでです」
「二つ?」
「地上から届く数に限りがありますので」
「では二つ」
「迷いがありませんね」
さらにある日。
食堂の片隅で一人の天使が妙なものを食べていた。
白い氷、その上に赤い蜜。
別の天使が目を止める。
「それは?」
「地上のかき氷という食べ物だそうです」
「なぜ天界に?」
「試作品らしいです」
宴会で人気になったコルの極上氷そのものではなかったが、天界側でも再現できないか試験しているらしい。
一口。
「……冷たい」
当然だった。
もう一口。
「でも、おいしい」
三口目。
「どこで配っています?」
翌日、かき氷試験販売所の前には小さな列ができていた。
一日の終わりには、天界分館の大浴場では何人もの天使が静かに湯へ浸かっていた。
地上監視を終えた者。
結界修復から戻った者。
神託を伝え続けて声を枯らした者。
翼が重い者。
肩が凝った者。
ただ何となく疲れた者。
以前なら仕事を続けていたかもしれない。
けれど、今は
「今日はもう休みます」
そう言える場所がある。
一人の天使が湯の中で目を閉じた。
「明日の仕事は?」
隣の天使が聞く。
「明日考えます」
「珍しいですね」
「温泉に入っている時くらいはいいでしょう」
「……そうですね」
二人はそのまま肩まで沈んだ。
白い翼が湯面へ静かに浮かぶ。
天界分館は天使たちを強くする場所ではなかった。
使命を与える場所でも、より正しく働かせる場所でもない。
ただ、疲れた時に『休んでもいい』と思い出させてくれる場所。
地上のやわらぎの湯から届いた温かな湯は、今日も天界の片隅で疲れた天使たちの翼を静かに休ませていた。
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