氷華の美容講座
やわらぎ調理師学校が開校してから、温泉都市『やわらぎ』には料理を学びに来る若者がさらに増え、食堂や露店街も今まで以上に賑わうようになっていた。
人間と魔族が同じ厨房に立ち、互いの料理を教え合う光景も珍しくなくなり、最近では料理を楽しむために、予定より数日長く滞在する旅人もいる。
そんな中、今度は女性客を中心に新しい噂が広がり始めていた。
「最近、美肌湯のところだけ、やたら混んでない?」
朝の見回りをしていたユウが首を傾げると、隣を歩いていたミナが頷いた。
「増えた。朝から並んでる」
「前から人気はあったけど、ここまでじゃなかったよね」
実際、美肌効果に特化した浴槽の近くには、朝早くから多くの女性客が集まっていた。
若い冒険者や王都の商人、獣人や魔族の女性に交じり、貴族らしい服装の客までいる。
しかも、ただ入浴を待っているようには見えなかった。皆、小さな手帳や紙を持ち、休憩所の入口に掲げられた案内を確かめている。
ユウが不思議そうに眺めていると、後ろからダンがやって来た。
「何を見てるんだ?」
「美肌湯の近くに人が集まってるんだけど、何を待ってるのか分からなくて」
「また何か始まったのか?」
「たぶん」
そこへカヤが、ものすごい勢いで走ってきた。
「ユウ! 大変! 美容講座が満席になった!」
ダンが目を細める。
「美容講座? そんなの、聞いてないぞ」
「知らないの? セレディアが始めたんだよ!」
その名前を聞いて、ユウも少し驚いた。
魔王軍四天王の一人、『氷華』のセレディアは、冷静沈着な参謀役であり、戦場では氷魔法を用いて広範囲を制圧する。
その彼女が美容講座を開いていると聞いても、すぐには姿が思い浮かばなかった。
「セレディアって、そういうことにも詳しいの?」
「すごく詳しかった!」
カヤが即答すると、ダンが尋ねた。
「どうして分かったんだ?」
「前に美肌湯で一緒になったとき、肌の乾燥とか、湯上がりの手入れとかについて話してたの」
「四天王って、もっと戦争や作戦の話をするものじゃないのか?」
「休みの日まで戦争の話をする必要はないでしょ」
「それはそうだけどな」
事情を聞けば、始まりは本当に些細なことだったらしい。
セレディアが美肌湯へ入っていた際、隣の女性客から、湯上がりに肌が乾燥することがあると相談された。
そこで彼女は入浴の仕方を尋ね、長く入りすぎていないか、上がったあとにどんな手入れをしているかを確かめたという。
その説明を聞いていた別の客が質問し、さらに近くの客まで加わって、気づけばセレディアの周囲に人が集まっていた。
「それで、講座になったの?」
ユウが尋ねると、カヤは笑った。
「そう! 私が提案したの。湯船の中でずっと話すより、休憩所で教えてもらった方がいいと思って」
ダンが額を押さえた。
「やっぱりお前か」
「だって、聞きたい人がたくさんいたんだもん!」
「また商売にするつもりじゃないだろうな」
「講座は無料だよ。今のところ!」
「最後の一言が気になるんだが」
その日の昼過ぎ、ユウたちは講座の様子を見に行った。
美肌湯の近くにある休憩所には、すでに数十人の女性客が集まっていた。
中央に立つセレディアは、普段の戦装束ではなく、温泉街でよく見かける軽い服装をしている。
それでも背筋は真っ直ぐで、参加者を見渡す表情も落ち着いていた。
「最初に言っておくわ。美肌湯へ長く入れば入るほど、効果が高くなるわけではないの」
客たちが一斉に手元の紙へ書き込み始めた。
ダンが小声で呟く。
「思っていたより、本格的だな」
リーフェも頷いた。
「ええ。ちゃんと準備しているみたいね」
セレディアは参加者の様子を見ながら、説明を続けた。
「ここの湯には肌を整える働きがあるけれど、長く入りすぎれば疲れるし、湯上がりに乾燥を感じる人もいるわ。熱い湯が好きな人も、無理をせず、途中で上がって身体の状態を確かめて」
一人の女性が手を上げた。
「何回くらい入ればいいんですか?」
「回数だけで決めない方がいいわ。その日の体調も違うでしょう。疲れたり、肌に違和感が出たりしたら休むこと。水分を取るのも忘れないで」
「湯上がりに、顔を冷やしてもいいですか?」
「心地よい程度なら構わないけれど、無理に冷やす必要はないわ。自分が気持ちよいと感じる手入れを、負担のない範囲で続けて」
質問が途切れるのを待ってから、別の客が尋ねた。
「湯上がりに使える化粧水のようなものはありますか?」
セレディアは少し考え、入口にいたユウへ目を向けた。
「ちょうど来たわね。美肌湯のことで聞きたいことがあるの」
「僕に?」
「肌の手入れに使うために、成分を弱くした水を作れる?」
ユウは頷きながら答えた。
「調整はできると思う。美肌湯とは使い方が違うから、肌に合うかは確かめないといけないけど」
「ええ。それを試したいの」
カヤの耳が勢いよく立った。
「商品になる?」
ダンが即座に振り返る。
「今、その話をするな!」
「だって、湯上がり用の手入れ水なんて、欲しい人がたくさんいそうじゃん!」
「まだ試してもいないだろ!」
セレディアが冷たい視線を向けた。
「安全性を確認する前に売ったら、凍らせるわよ」
カヤはすぐに姿勢を正した。
「確認してからにします!」
「売ること自体は諦めないんだな」
ダンが呆れる横で、セレディアは講座を再開した。
人間と魔族では肌の性質が異なる場合があり、獣人は毛のある部分と肌が露出している部分で手入れを分けた方がよいという。
香油が合う者もいれば、香りや成分が刺激になる者もいるため、同じ種族だからといって、同じものが使えるとは限らないらしい。
魔力が肌の表面へ出やすい魔族については、入浴後に魔力を落ち着かせる時間を取ることにも触れていた。
説明を聞いていたミナが、自分の腕を見てから尋ねた。
「毛並みは?」
セレディアが顔を向ける。
「毛の手入れは、肌とは少し違うわ。湯上がりに強く擦らず、水気を取ってから毛の流れに沿って整えるの」
「ブラッシング?」
「そう。絡まったところを無理に引っ張らないようにね」
ミナの耳がぴくりと動き、表情が少し明るくなった。
「大事」
「ええ。丁寧に手入れすれば、違いが出るわ」
近くで寝そべっていたグーちゃんも、毛並みの話が気になったのか、顔を上げた。
ダンはその様子を見てカヤを振り返る。
「まさか次は、魔獣向けの美容講座なんて言わないよな?」
「グーちゃんの毛並み講座……」
「今、考えるな!」
講座が終わる頃には、参加者たちの手元の紙が文字で埋まっていた。
一人の女性冒険者が、感心したように言った。
「四天王って、もっと怖い人だと思ってました」
セレディアの眉が少し動く。
「どういう意味かしら?」
「い、いえ! 説明がすごく分かりやすくて、質問もしやすかったです!」
隣の客が笑いながら続けた。
「次も参加したいです。今度は髪の手入れも教えてもらえませんか?」
「魔族向けの話も、もう少し聞きたいです」
「獣人の毛並みについても!」
次々と要望が届き、セレナは少し困ったように目を閉じた。
「……一度、内容を整理する必要があるわね」
カヤがすぐに隣へ来る。
「じゃあ、次回の予定を決めよう! 宣伝も手伝うよ」
「宣伝しなくても、これだけ人が来ているでしょう」
「もっと来ると思う!」
「増やしすぎないで。質問に答えきれなくなるわ」
その日のうちに次回講座の予約が始まり、夕方には席が埋まった。
やがて王都から、美容講座を受けるために来たという女性客も現れた。
噂は貴族の女性たちにも広まり、魔族側からの問い合わせも増えていく。
天界分館を利用していた天使たちの間でも話題になっていると聞いて、ユウが首を傾げた。
「天使も、手入れの仕方が気になるのかな」
ダンが答える。
「そりゃ、気にする者もいるだろう」
「羽の手入れを教え合うこともできそうだね」
その言葉に、カヤが振り返った。
「それ、いい!」
「すぐ企画にしようとするな!」
数日後には、美肌湯周辺の利用者が明らかに増えていた。
宿泊する女性客も多くなり、商業区では香油や石鹸、髪を整える櫛などを扱う店の売上が伸びている。
エルメリアは宿泊の記録を確認しながら、感心したように呟いた。
「講座に参加する客は、滞在も長めになっているわね。次の講座まで泊まる人もいるみたい」
カヤが得意そうに胸を張る。
「温泉に入って、美容講座を受けて、美味しいものを食べて、また温泉! 三泊くらいしても、楽しめると思う!」
ダンが苦笑した。
「すっかり観光の予定まで考えてるな」
しかし、講座が人気になるにつれて、別の問題も起き始めていた。
セレディアが道を歩けば声をかけられ、食堂へ入れば肌や髪の相談をされる。
温泉で休んでいるときまで「先生」と呼ばれ、質問に答えることが増えていた。
ある日の夕方、セレディアがユウたちのところへやって来た。
いつもと変わらない冷静な顔だったが、歩く様子には少し疲れが見えた。
「ユウ。静かに入れる温泉はある?」
ダンが笑いを堪え、カヤは明るい声で迎えた。
「先生、今日も大人気だね!」
セレディアの周囲に、わずかな冷気が漂った。
「カヤ」
「はい!」
「明日の講座は、人数を半分にするわ。それから、私が温泉へ入っているときの質問は受けつけない」
「ええ!?」
「質問の時間は、講座の中に作るから。休んでいる間まで話しかけられたら、私が湯に入れないでしょう」
カヤはセレディアの顔を見て、ようやく真面目に頷いた。
「分かった。案内にも書いておくね」
リーフェが小さく笑った。
「教える側にも、休む時間が必要だものね」
セレディアは深く息を吐いた。
「次から次へと質問されるから、答え終わる頃には湯が冷めているのよ」
ダンがとうとう笑った。
「氷華が湯の冷めるのを心配してるのか」
セレディアに睨まれ、ダンはすぐに口を閉じた。
その後、ユウは美肌湯の一角にある小さな浴槽を調整し、セレディアが講座のあとにゆっくり休めるようにした。
湯温は少しぬるめにし、疲労を癒やして気持ちを落ち着かせる働きを中心に整える。
湯の具合を確かめたセレナは、安堵したように頷いた。
「どう?」
ユウが尋ねると、彼女は湯面へ目を向けたまま答えた。
「……悪くないわ」
その言い方がどこかフェルザードに似ていて、ユウは少し笑った。
「何かおかしい?」
「何でもないよ。あとは、ゆっくり休んでね」
こうして『氷華』のセレディアが始めた美容講座は、やわらぎでも人気の企画になった。
美肌湯を楽しみ、自分に合った手入れを学び、食堂や露店で食事をする。
そんな過ごし方が広まり、温泉都市を訪れる客には、新たな楽しみが加わっていた。
そしてカヤは、早くも次の企画書を書いていた。
そこに記されていたのは、『セレディア監修・やわらぎ温泉美容読本』という題名だった。
偶然それを見つけたダンが、遠くから声を上げる。
「お前、今度は本にする気か!」
「前の本が売れたから! 講座で聞いたことを、家でも確かめられたら便利でしょ?」
「だからって、本人に話す前から監修って書くな!」
休憩所にいたセレディアの冷たい声が返ってきた。
「内容を勝手に決めたら、凍らせるわよ」
「ちゃんと確認を取ります!」
「まず、引き受けるかどうかを聞きなさい」
カヤが慌てて企画書を抱えていくと、ダンは呆れながらも笑った。
料理や足湯、黄金湯に加え、美容講座まで始まった温泉都市『やわらぎ』には、今日も様々な目的を持つ客が訪れていた。
迎える者たちも驚いたり、忙しさにため息をついたりしながら、この街ならではの楽しみを少しずつ増やしていた。
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