種族を超える厨房
カヤの『やわらぎ温泉街・食べ歩き完全ガイド』が各地で売れ始めてから、温泉都市『やわらぎ』では、今まで以上に食事を目当てに訪れる客が増えていた。
もちろん、温泉を一番の目的にしている者も多い。
黄金湯で長年の傷を癒やしに来る者もいれば、大浴場やサウナを楽しみに来る者もいる。
そこへ最近では、温泉手形と食べ歩きガイドを握りしめ、朝から露店街を巡る旅行者まで加わっていた。
その結果、レインの食堂は毎日のように大混雑していた。
「特製やわらぎ鍋、二つ!」
「こっちは湯治客向けの煮込み!」
「魔族のお客さんが、香辛料を強めにしてほしいそうです!」
「分かった。三番の鍋は火を落とせ。そっちは煮込みすぎるな」
厨房の中央で、レインが次々と指示を飛ばしている。
味覚が完全に戻って以来、その料理は以前にも増して評判になっていた。
しかし本人は忙しさに浮かれるどころか、日に日に難しい顔をするようになっていた。
昼の営業が終わった頃、ユウが食堂へ入ると、レインは厨房の隅で腕を組んでいた。
「疲れた?」
「疲れてはいるが、それは問題じゃない」
「じゃあ、何かあった?」
レインは調理台の向こうへ目を向けた。
そこでは若い人間の料理人と魔族の料理人が、片付けをしながら話している。
「肉の焼き方が違うんだよな」
「人間は火を弱くしすぎだ。あれでは香りが立たない」
「お前たちは強くしすぎなんだよ。表面が焦げてるぞ」
「焦げではない。香ばしさだ」
「どこからが香ばしさで、どこからが焦げなんだ?」
「それを見極めるのが料理人だろう」
言い合ってはいるが、険悪な雰囲気ではない。
二人とも焼き上がった肉を見比べ、互いのやり方を確かめているようだった。
レインはその様子を見ながら言った。
「最近、料理を教えてほしいと言ってくる奴が増えた」
「いいことじゃない?」
「一人か二人ならな」
レインは厨房の入口に置かれた紙の束を、ユウへ渡した。
めくってみると、料理人や見習い、宿屋の料理担当、元冒険者など、様々な経歴が書かれている。
王都の店で働いていた者もいれば、魔族領の食堂から来た者もおり、獣人やエルフの名前まで並んでいた。
「……ずいぶん多いね」
「昨日までは三十二人だった。今朝また増えて、三十五人になった」
ユウは紙の束を戻した。
「人気だね」
「他人事みたいに言うな。原因の半分は、カヤの本だ」
レインがため息をついたところで、厨房の入口からカヤが顔を出した。
「呼んだ?」
レインは無言でカヤを見た。
「……何?」
「お前の本に、『レイン直伝の料理を学びたい料理人も続々集結中』と書いてあるそうだな」
「うん!」
「俺は料理教室を始めた覚えはない」
「でも、教えてるじゃん」
「店の従業員にな」
カヤは少し考えてから、笑顔になった。
「じゃあ、学校を作れば?」
レインとユウが同時に黙った。遅れて入ってきたダンも、嫌な予感を察したように足を止める。
「何の話だ?」
「料理学校!」
「また施設を増やす話をしてるのか?」
カヤは勢いよく頷いた。
「だって、レイン一人で三十五人に教えるのは無理でしょ。だったら、ちゃんと学べる場所を作ればいいじゃん」
「簡単に言うな」
レインはそう返したものの、すぐには否定しなかった。
その反応に気づいたユウが、顔を覗き込む。
「レイン、少し考えてる?」
「……前から、必要だとは思っていた」
「そうなの?」
「この都市は、客の種族が多いからな」
レインは調理台へ手を置いた。
人間や魔族、獣人、エルフ、ドワーフだけでなく、天使や人の姿を取った古竜まで食堂を訪れる。
食べられるものも、好む味も、必要な量もそれぞれ違っていた。
人間にはちょうどよい香辛料が、獣人には強すぎる場合もある。
魔族に好まれる魔力を含んだ食材が、人間には刺激の強すぎるものになることもあった。
反対に、繊細な味付けを好む者に合わせた料理では、大柄な戦士が物足りないと感じることもある。
「温泉は、ユウが入る相手に合わせて調整してるだろ」
「うん」
「料理も同じだ。ここまで客が増えたなら、一つの料理を全員に出せば済むわけじゃない」
話を聞いていたリーフェも頷いた。
「湯治客には、身体の状態に合わせた食事も必要ね。食欲が戻りきっていない人や、長く寝込んでいた人も来るでしょうから」
「そういうことを考えて作れる料理人が、もっと必要なんだ」
レインの言葉に、カヤがぱっと笑った。
「じゃあ、決まり!」
「まだ決めたとは言ってない」
「でも、作るんでしょ?」
レインはしばらく黙ったあと、諦めたように息を吐いた。
「作るなら、中途半端にはしない」
ダンが笑った。
「完全にやる気じゃねぇか」
そこから話は早かった。
翌日にはドグランが呼ばれ、食堂から少し離れた場所に、新しい施設を建てる計画が始まった。
「厨房はいくつ要る?」
ドグランが尋ねると、レインは即答した。
「最低でも三つだ。強い火力を使う厨房と通常の調理用、それから菓子や繊細な料理を扱う区画は分けたい。食材庫も、食材の性質に合わせて区分する」
「教室は?」
「座学用を一つ。実習が中心になるが、全員が座れる広さは必要だな」
カヤが手を上げた。
「試食室も!」
レインが顔を向ける。
「お前が食べたいだけだろ」
「違うよ! 味を評価する場所は必要でしょ!」
「それ自体は必要だ」
「ほら!」
「ただし、お前専用ではない」
「分かってるって!」
ダンが小声でユウへ言った。
「絶対、入り浸るぞ」
「うん」
やがて完成した建物には、『やわらぎ調理師学校』という名前がつけられた。
最初の生徒は四十人近くになっていた。
王都の料理店で働いていた若者や魔族領の料理人、獣人の宿屋で厨房を担当していた者、森の食材に詳しいエルフなどが集まり、冒険者として野営料理ばかり作ってきた者も加わっている。
初日の厨房は、早くも賑やかだった。
「人間の煮込みは、時間をかけすぎだ!」
「魔族の炎が強すぎるんだよ!」
「この香草、入れすぎじゃない?」
「エルフは香りに細かすぎる!」
「獣人向けなら、もう少し肉を増やした方がいいって!」
あちこちで意見が飛び交う様子を見て、ダンが入口から顔を覗かせた。
「これ、大丈夫か?」
レインは平然としていた。
「料理人が味について意見をぶつけるのは普通だ」
「喧嘩にならないか?」
「包丁を持ったまま喧嘩するような馬鹿は、厨房に置かん」
その一言で、生徒たちの声が少し小さくなった。ダンは苦笑しながら頷く。
「効いてるな」
最初の授業でレインが教えたのは、特別な料理ではなかった。
出汁の取り方や火加減、包丁の扱い、食材の状態を確かめる方法といった基礎を教えたあと、食べる相手を見ることの大切さを伝えた。
「自分が美味いと思う料理を作るだけなら、家でやれ」
生徒たちの前で、レインは静かに言った。
「ここで覚えるのは、客に合わせた料理だ。人間だからこの味、魔族だからこの味と決めつけるな。同じ種族でも好みは違うし、体調によっても変わる。温泉に入った直後なのか、長旅のあとか、怪我から回復したばかりなのか。相手の様子を見て、必要なら話を聞いてから作れ」
ユウはその言葉を聞きながら、少し笑った。
湯の性質を整えるときも、相手によって心地よい温度や効能は違う。
全員を一つの基準に合わせるのではなく、その人に合うところを探している。レインも料理を通して、同じように客を見ていたのだ。
数日もすると、生徒たちにも変化が出始めた。
人間の料理人が魔族の強い火力を利用した肉料理を学び、魔族の料理人は人間の煮込み料理から、火を弱めて味を染み込ませる方法を覚えた。
エルフは獣人から肉の扱いを学び、獣人の料理人はエルフから香草の使い方を教わっている。
「これ、意外と合うな」
魔族の料理人が、人間の作った出汁を味見した。
「だろ? そこへ、お前の香辛料を少し入れてみろよ」
「少し?」
「少しだぞ。お前が思ってる量の半分くらいだ」
「細かいな」
「昨日、鍋一つを辛くしすぎたのはお前だろ」
二人は顔を見合わせて笑い、今度は慎重に量を確かめながら香辛料を加えた。
その光景を見ていたリーフェが、ユウへ言った。
「厨房も、この街らしくなってきたわね」
「うん」
「最初は、それぞれ自分たちの料理が一番だと思っていたのに」
「食べてみると、気づくこともあるんだろうね」
そこへ、カヤが皿を抱えてやって来た。
「試作品ができたよ!」
ダンが警戒するように皿を見る。
「何だ?」
「人間の出汁と魔族の香辛料、エルフの香草、獣人の燻製肉を合わせた温泉蒸し料理!」
「全部入れたのか?」
「ちゃんとレインが調整したから、大丈夫!」
ユウたちは皿を受け取り、一口ずつ食べた。
最初に出汁の柔らかな味が広がり、そのあとに香草の香りと燻製肉の旨味が重なる。
香辛料は強すぎず、最後にほんの少し舌へ残る程度だった。
ダンが驚いたように皿を見た。
「……美味いな。全部入れたって聞いたから、どうなるかと思ったけど」
カヤが胸を張る。
「でしょ!」
「お前が作ったわけじゃないだろ」
「試食した!」
「食べただけかよ!」
離れた厨房から、レインの声が飛んできた。
「カヤ! 試食は一皿までだ!」
「もう二皿食べた!」
「ほかの奴の分まで食うな!」
カヤが慌てて空の皿を隠すと、厨房いっぱいに笑い声が広がった。
こうして温泉都市『やわらぎ』には、様々な種族が共に学ぶ調理師学校が生まれた。
生徒たちは、それぞれが持つ技術を持ち寄り、互いの料理を食べ、失敗した理由を確かめながら、この街を訪れる客に合う料理を考えていく。
やがて学んだ者が故郷へ戻れば、ここで覚えた技術や味も、遠くの街へ伝わっていくだろう。
レインは賑やかになった厨房を見ながら、ほんの少し満足そうに笑った。
しかし、試作品をもう一口食べると、すぐに考え込む。
「まだまだだな」
ユウが顔を向けた。
「そう? 美味しかったよ」
「ああ。だが、もっとよくできる。最高の温泉料理を名乗るなら、湯上がりに食べた客が、次の日にも思い出すくらいじゃないと駄目だ」
ダンが苦笑する。
「基準が高くないか?」
「料理人なら当然だ」
その言葉に、生徒たちはもう一度鍋へ向き直った。
香りを確かめ、味を見直し、隣の者へ意見を求める。
人間と魔族が同じ厨房に立ち、エルフや獣人も加わって、一つの料理について真剣に考えていた。
かつてなら珍しかった光景が、今のやわらぎでは、日々の営みとして馴染み始めていた。
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