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異世界温泉宿 ~使えないスキルと言われた俺、秘境の谷で温泉を作ったら人も魔物も通う場所になった~  作者: 堺久遠


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18 変わっていく 還らずの谷

夜の還らずの谷は、不思議なほど静かだった。


昼間まで宿の周囲へ響いていた建築音も止み、今は源泉から流れる湯の音だけが静かに谷へ広がっている。白い湯気は月明かりを受けながらゆっくり揺れ、温泉全体が淡く発光しているようにも見えた。


その景色を、リーフェは一人で見つめていた。


温泉の縁へ腰を下ろし、長い金髪を夜風へ揺らしながら静かに湯へ触れる。


指先へ伝わる温かさは心地良い。


だが、それ以上に気になるものがあった。


「……やっぱり、おかしい」


小さく漏れた呟きは、夜の湯気へ静かに溶けていく。


この場所へ来た時から、ずっと違和感があった。


還らずの谷は、本来なら人間が長く居られる場所ではない。


迷いの森は方向感覚を狂わせ、谷には強力な魔物が棲みつき、空気そのものが冒険者へ緊張を強いる危険地帯として知られている。


だが、この谷の奥だけは違った。


空気が柔らかい。


呼吸が楽だ。


張り詰めた感覚が長続きしない。


しかも、それは人間だけではなかった。


ヘルウルフ。


本来なら縄張りへ侵入した者を即座に襲う危険な上位魔物。


その群れが今では温泉へ浸かり、宿の周囲で昼寝をしている。


グーちゃんに至っては、レインの料理を待つようになっていた。


あり得ない。


だが、その“あり得ない”が、この谷では自然に成立している。


リーフェは再び温泉へ触れる。


すると、湯の中を巡る微かな魔力の流れが指先へ伝わってきた。


「……循環してる」


それは普通の温泉ではあり得ない流れだった。


温泉から溢れた魔力が、水路を通して谷全体へ巡っている。


しかも、その流れは驚くほど安定していた。


自然発生したものではない。


誰かが意図的に整え続けているような滑らかさだった。


その時。


「眠れない?」


後ろから穏やかな声が聞こえる。


振り向くと、ユウが湯気の向こうへ立っていた。


リーフェは少しだけ視線を向ける。


「考え事をしていただけよ」


「温泉のこと?」


「ええ」


ユウは苦笑しながら温泉の縁へ座る。


その横顔を見ながら、リーフェは改めて思う。


この青年は、自分のしていることを正確に理解していない。


いや、理解しようとしていないのかもしれない。


「あなた、自分が何をしてるか分かってる?」


「ん?」


ユウが首を傾げる。


リーフェは静かに湯を見る。


「この温泉、普通じゃないわ」


「それはまぁ、なんとなく」


「なんとなくで済ませる規模じゃない」


リーフェの声は静かだったが、その瞳は真剣だった。


「回復効果だけなら珍しくない。でもこの場所は、それ以上に周囲へ影響を与えてる」


怒り。


緊張。


不安。


敵意。


そういった感情そのものが、この谷へ居ると少しずつ薄れていく。


だからこそ。


人と魔物が争わない。


ヘルウルフですら穏やかになる。


リーフェは静かに続けた。


「あなたが水路を整える度に、谷全体の魔力循環が安定してる」


ユウは少し驚いたように目を瞬かせる。


だがリーフェは確信していた。


ユウは無意識に、この谷全体を“整えて”いる。


それは単なる水質調整ではない。


空気も。


魔力も。


そこへ居る者たちの精神状態まで。


温泉を中心に、全てが穏やかに巡るよう変化している。


「……人の心にまで作用してるのかもね」


リーフェが小さく呟く。


その言葉に、ユウは少し黙った。


普通なら恐れるだろう。


未知の力だ。


国なら利用しようとする。


魔法研究者なら執着する。


だが,ユウはしばらく温泉を見つめた後、小さく笑った。


「だとしても、みんな落ち着けてるならいいかな」


その返答に、リーフェは少しだけ目を見開く。


力そのものより、“誰かが休める場所であること”を優先している。


その考え方が、リーフェには少し不思議だった。


戦いが当たり前の世界で、こんな風に“争わないこと”を自然に選ぶ人間は珍しい。


「変わってるわね、あなた」


「よく言われる」


ユウが苦笑する。


その時だった。


「おーい」


後ろからダンの声が響いた。


振り向くと、ダンが片手を上げながら歩いてくる。その表情はいつも通りだったが、どこか少し考え込んでいるようにも見えた。


「こんな時間にどうしたの?」


ユウが聞く。


ダンは温泉の縁へ腰を下ろし、大きく息を吐いた。


「……ちょっと話があってな」


その空気に、リーフェは静かに視線を向ける。


ダンは少しだけ言葉を選ぶように黙った後、頭を掻きながら言った。


「俺、一回街戻るわ」


空気が静かになる。


ちょうどその時、宿の方からカヤとミナも歩いてきていた。


「帰るの?」


カヤが少し驚いたように聞く。


ダンは頷く。


「ずっと依頼放置してるわけにもいかねぇからな。還らずの谷の調査報告もしなきゃならねぇし」


それは当然だった。


本来、生きて帰るだけでも大事件なのだ。


しかも今は、“温泉宿が存在している”という普通ではあり得ない状況まである。


ギルドへ報告しなければ、逆に問題になる。


ダンは苦笑しながら肩を竦めた。


「まぁ、ついでに工具とか食材も持って帰る」


「戻ってくるんだ」


リーフェが少し笑う。


するとダンは当然のように言った。


「そりゃな。こんな場所、他にねぇし」


その声には、以前ほどの警戒心が無かった。


むしろ少しだけ、“帰ってくる場所”として認識し始めている響きすらある。


カヤがじっとダンを見る。


「ちゃんと戻ってくる?」


「なんだその確認」


「ダンいないとツッコミ役減る」


「理由それかよ」


ダンが呆れたように笑う。


だが、その空気はどこか温かかった。


ユウはそんなやり取りを見ながら、小さく息を吐く。


最初は一人だった。


追放され、居場所を失い、ただ静かに暮らせればいいと思っていた。


それなのに今は違う。


人が居る。


笑い声がある。


誰かが“戻ってくる”と言ってくれる。


その事実が、不思議なくらい胸を温かくしていた。


その時。


ざぶん、と大きな水音が響く。


振り向くと、グーちゃんが温泉から顔を出していた。


どうやら話を聞いていたらしい。


巨大な身体を揺らしながらダンを見る。


ダンは思わず苦笑した。


「……なんだよその顔」


グーちゃんは静かに鼻を鳴らす。


まるで、“ちゃんと戻れ”とでも言っているようだった。


「災害級魔物に見送られる人生、想像してなかったわ……」


ダンが呆れたように笑う。


白い湯気が夜空へ静かに揺れていく。


還らずの谷。


その奥では今、“争わずに帰って来られる場所”が少しずつ形になり始めていた。

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