争う気を失う悪徒
もふもふ自警団が街の巡回を始めてから、温泉都市『やわらぎ』の治安は以前にも増して安定していた。
もともと還らずの谷そのものに敵意や緊張を和らげる性質があり、さらに街の至るところから立ち上る温泉の湯気には、精神を落ち着かせるやわらぎの湯の魔力が含まれている。
そのため、旅の途中で気が立っていた冒険者でさえ、街へ入ってしばらく歩けば肩の力が抜け、最初は険しい顔をしていた者が気づけば温泉まんじゅうを片手に足湯へ浸かっていることも珍しくなかった。
そこへ今では、ミナとグーちゃんを中心とする治安維持隊まで巡回している。
「これ、悪いことする方が難しくない?」
朝の広場でユウがそう言うと、ダンが腕を組んだ。
「だからって油断はするなよ。街が有名になれば、変な奴だって来る」
「変な奴?」
「黄金湯を狙う奴とか、金持ちの観光客を狙う奴とか、他にもいくらでもいるだろ」
カヤも露店の売上帳を抱えながら頷く。
「最近、お金持ってる人もいっぱい来るからね。元英雄とか各国の偉い人とか」
「そういう情報を大声で言うな」
「ここにいる人みんな知ってるよ」
そんな話をしていた、その日の午後だった。
街の入口を担当していたヘルウルフの一頭が、少し離れた場所から低い唸り声を上げた。
普段、治安維持隊のヘルウルフたちは非常に大人しい。
子供に耳を触られてもじっとしているし、観光客が記念に並んで写真代わりの絵を描いていても気にしない。
その一頭が明らかな警戒を見せたことで、近くにいたミナの耳がすぐに動いた。
「変なの来た」
グーちゃんも地面から身体を起こす。
街道の向こうから、五人の男たちが歩いてきていた。
旅人らしい服装をしているが、装備の隠し方が妙だった。
外から見える武器は小さな短剣程度なのに、衣服の内側から金属の匂いがする。
さらに荷物もほとんどなく、温泉客にしては身軽すぎた。
ミナが男たちを見る。
「武器、多い」
ダンも後からやって来て目を細めた。
「なるほどな」
「悪い人?」
ユウが尋ねる。
「まだ決めつけるな。ただ、温泉入りに来た感じじゃないのは確かだ」
男たちは普通の旅行者を装いながら街へ入った。
入口で名前を書き、宿泊予定を聞かれても「まだ決めていない」と答える。
そして案内所を離れた途端、小声で話し始めた。
「本当に警備が狼だけなのか?」
「騎士団が常駐しているという話は嘘だったらしいな」
「黄金湯の源泉さえ確認できればいい。夜になったら地下へ入る」
どうやら狙いは黄金湯だった。
奇跡の湯として世界中へ噂が広がったことで、黄金湯そのものを持ち出して売ろうと考える者や、その秘密を盗もうとする者まで現れ始めていた。
五人の男たちも、その類だった。
ただし、彼らには一つ大きな誤算があった。
「……暑くないか?」
街へ入ってしばらく歩いたところで、一人が言った。
「温泉街だからだろ」
「いや、そうじゃなくて……なんか眠い」
別の男が欠伸をする。
周囲では源泉から流れる湯気が風に乗り、街路へ漂っていた。
黄金湯ほど強力ではないものの、やわらぎの湯が持つ精神安定の魔力は都市全体へ自然に広がっている。
最初は周囲を鋭く睨みながら歩いていた男たちだったが、十分ほど経つ頃には歩調まで緩くなっていた。
「なんか……どうでもよくなってきたな」
「何がだ」
「いや、だから仕事」
「馬鹿言うな。報酬が出るんだぞ!」
「そうなんだけどさ……」
男は道端の足湯を見る。
老人たちが湯へ足を浸しながら楽しそうに話している。
反対側では子供が温泉まんじゅうを食べている。
食堂からは肉を焼く匂いまで漂ってきた。
「……先に飯食わない?」
仲間が振り返る。
「俺たち何しに来たか覚えてるか?」
「覚えてるよ。でも腹減っただろ」
「確かに」
「いや待て!」
リーダーらしい男が慌てて止めた。
「仕事が先だ! 源泉の場所を調べる!」
ところが、その声にも最初ほどの迫力がない。
怒鳴った本人ですら、何となく面倒そうだった。
さらに悪いことに、彼らの後ろにはすでにグーちゃんがいた。
巨大なグレートヘルウルフが、音もなく男たちのあとを歩いている。
その左右にはヘルウルフが二頭。
さらに少し離れた屋根の下にはミナが立っていた。
男の一人が気配に気づき、ゆっくり振り返る。
「……なあ」
「何だ?」
「後ろ」
全員が振り返った先にはグーちゃんが座っている。
「…………」
誰も動かなかった。
グーちゃんも何もしない。
黄金色の瞳でじっと見ている。
男の額から冷や汗が流れた。
「こいつ……普通のヘルウルフじゃないよな?」
「どう見ても違うだろ」
「でかすぎる」
「目合わせるな」
「もう合ってる!」
グーちゃんが一歩前へ出た。
五人が同時に一歩下がる。
さらに一歩。
また下がる。
「おい、武器……」
一人が服の下へ手を伸ばしかけた。
「グルル……」
グーちゃんから低い音が漏れた。
それだけだった。
牙を剥いたわけでも飛びかかったわけでもない。
なのに五人全員の手が止まった。
「……やめよう」
「何を?」
「武器出すの」
「そうだな」
あっさり意見が一致した。
少し離れた場所で見ていたダンが呆れる。
「早ぇな」
カヤも横から顔を出す。
「まだ何もしてないよ?」
「だから怖いんだよ」
ミナが男たちの前へ歩いていく。
「何しに来た?」
五人は顔を見合わせた。
「観光だ」
リーダーが答える。
ミナはじっと見る。
グーちゃんも見る。
男は三秒も耐えられなかった。
「……黄金湯の源泉を見に来ました」
仲間たちが一斉に振り返る。
「おい!」
「仕方ないだろ! あの狼が見てるんだぞ!」
「だからって全部言うな!」
「お前らも顔に出てる!」
ミナが続ける。
「見るだけ?」
グーちゃんが少しだけ首を傾ける。
「……できれば湯を盗もうかと」
「言った!」
「もう無理だって!」
ダンはとうとう笑いを堪えられなかった。
「尋問いらねぇじゃねぇか」
ユウも後から到着し、五人の男たちを見る。
「黄金湯が欲しかったの?」
「……はい」
「入るなら普通に受付すればいいのに」
男たちは黙った。
「持って帰って売ろうとしました」
「売れないと思うよ」
ユウが言う。
「え?」
「黄金湯の効能は地下の浄化炉と源泉の循環があって維持されてるから、持ち出したら少しずつ普通の温泉水に戻ると思う」
五人の顔が固まった。
「聞いてないぞ……」
「そりゃ秘密だからな」
ダンが言う。
男の一人がその場へ座り込む。
「じゃあ俺たち、わざわざここまで来た意味ないじゃん」
「最初からないだろ」
「報酬も出ない」
「捕まるしな」
「疲れた……」
悪党らしい緊張感は、もうどこにもなかった。
街へ入った時には黄金湯を盗み出そうと考えていた五人組は、やわらぎの湯の魔力を含んだ空気の中を歩き、グーちゃんに見つめられた結果、すっかり戦う気を失っている。
一人など道端の足湯を見つめていた。
「あれ……入っていい?」
ダンが眉をひそめる。
「お前、今から捕まるんだぞ?」
「捕まる前にちょっとだけ」
「自由だなお前!」
カヤが笑う。
「反省してるなら入れてあげてもいいんじゃない?」
「犯罪者を観光させるな!」
「でも逃げないよ。グーちゃんいるし」
ダンはグーちゃんを見る。
確かに逃げる者がいるとは思えない。
結局、武器をすべて預けさせたうえで、男たちは治安維持隊の詰所へ連れていかれることになった。
ところが移動途中に足湯の前を通ったところでリーダーがまた立ち止まった。
「……本当にちょっとだけ駄目?」
ミナが考える。
「逃げない?」
「逃げません」
「悪いことしない?」
「もうしません」
「本当に?」
グーちゃんが横から男を見る。
「本当にしません!」
即答だった。
ダンが頭を抱える。
「完全に狼の方が取り調べ向いてるじゃねぇか」
結局ミナは数分だけ許可した。
五人は並んで足湯へ入る。
最初は何とも言えない顔をしていたが、しばらくすると。
「……気持ちいい」
「疲れ取れるな」
「俺、この仕事受けなきゃよかった」
「俺も」
「普通に温泉入りに来ればよかった」
「報酬よりこっちの方がよかったな」
ダンが少し離れた場所から聞いていた。
「反省会が足湯で始まってる……」
ユウも隣で見ている。
「落ち着いて話せていいんじゃない?」
「犯罪者まで足湯で解決する気か、この街は」
「ちゃんとこのあと処分はするよ?」
「そこはするんだな」
もちろん、温泉へ入れば罪が消えるわけではない。
五人はその後、エルメリアや治安担当の者たちから事情を聞かれ、黄金湯の情報を盗み出そうとした経緯について、正式に処分を受けることになった。
ただ、武器を取り上げられたときも事情聴取を受けたときも、暴れたり逃げようとしたりする者はいなかった。
全員が妙に素直で、聞かれたことにも大人しく答えている。
最後には、一人が文官へ遠慮がちに尋ねた。
「処分が終わったら、普通の客として来てもいいですか?」
エルメリアはしばらく男を見たあと、答えた。
「二度と盗もうとしないならね」
「しません」
「即答ね」
「グーちゃん……でしたっけ。あいつにもう一回睨まれるのは嫌なんで」
その話は、すぐに街へ広がった。
黄金湯を狙って入り込んだ悪党たちが、何も盗まず、誰とも戦うことなく、グーちゃんに睨まれただけで降参したという。
しかも、詰所へ連れていかれる途中で足湯に入り、そこで反省していたと聞いて、カヤは腹を抱えて笑った。
「すっごくやわらぎらしい!」
ダンは呆れた顔で腕を組む。
「悪党まで脱力させる街って、どうなんだよ」
リーフェは少し真面目に考え込んでいた。
「でも、黄金湯が生まれて源泉の魔力が強くなった影響はありそうね。都市全体を巡る湯や湯気にも、以前より敵意を和らげる働きが広がっているのかもしれない」
「危なくない?」
ユウが尋ねると、リーフェは首を振った。
「今のところ、普通の判断力まで奪われている様子はないわ。怒りや敵意に魔力が過剰に絡みつくのを抑えている程度だと思う」
「じゃあ、悪いことをしようと思っている人は?」
「実行することはできるでしょうね。考えることまで止められるわけではないもの。ただ、感情の勢いだけで突っ走ることは、少なくなるかもしれない」
ダンが納得したように頷いた。
「そこで一度落ち着いたところへ、グーちゃんが出てくるわけか」
少し離れた通りでは、今日もグーちゃんがミナと一緒に巡回していた。
首には治安維持隊の印がついた布を巻き、その後ろにはヘルウルフたちが続いている。
観光客は大きな身体が通れるように道を開け、子供たちは笑顔で手を振っていた。
グーちゃんも慣れた様子で歩いているが、その体格と鋭い目つきを見れば、悪事を企んでいる者がためらうのも無理はない。
ミナはユウたちの前まで来ると、足を止めた。
「異常なし」
「お疲れさま」
ユウが声をかけると、グーちゃんも一声鳴いた。
ミナはその首元を軽く撫で、再び通りの向こうへ歩いていく。
ダンは大きな背中を見送りながら、苦笑した。
「ある意味、この街で一番平和的な戦力かもしれねぇな」
少なくとも今回は、襲うことも噛みつくこともなく、悪事を止めてしまった。
男たちのそばへ行き、武器を抜こうとしたところで低く唸っただけで、全員が大人しく手を下ろしたのだ。
ユウも巡回を続けるミナたちを眺め、穏やかに笑った。
「誰も怪我をしなくてよかったね」
「ああ。毎回こう簡単に済むとは限らねぇが、今回は上出来だ」
通りの先では、グーちゃんに気づいた子供たちが駆け寄っていた。
ミナが立ち止まって声をかけると、ヘルウルフたちも大人しく腰を下ろす。
温泉都市『やわらぎ』の治安は、今日も温かな湯気ともふもふした自警団によって、穏やかに守られていた。
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