市長ではなく総支配人として
温泉都市『やわらぎ』の初代市長に決まった翌日、ユウは早くも自分が市長という仕事に向いていないことを痛感していた。
朝食を終えて源泉の様子を見に行こうとしたところまでは、いつもと変わらなかった。
しかし宿を出る前に王国から派遣された文官に呼び止められ、用意された部屋へ案内されると、そこには朝から見るにはあまりにも多すぎる書類が積み上げられていた。
「こちらが住民登録の確認書類です。こちらは新規出店の申請、こちらが道路整備に伴う土地利用の承認、さらに王国側との物流協定について――」
「ちょっと待ってください」
ユウは机の上を見る。
そこには紙の山。
その横にも紙。
さらに奥にも紙がある。
昨日までなら、朝一番に確認するものといえば源泉の温度や浴槽の状態だった。
それが一日でどうしてこうなったのか、本人にはまったく理解できない。
「これ、全部僕が見るんですか?」
「市長ですので」
文官は当然のように答えた。
ユウはしばらく黙ったあと、一枚目を手に取った。
そこには細かい文字で、温泉都市やわらぎにおける商業施設建設に関する土地使用区分が書かれていた。
三行読んだところで手を止める。
「……ドグランに聞いた方が早くないですか?」
「建築面についてはそうですが、最終承認は市長に必要です」
「じゃあこれは?」
「居住登録です」
「カヤの帳簿に全部ありますよ」
「正式な行政記録へ転記する必要があります」
ユウは次の紙を見る。
「これは?」
「王国から輸送される小麦に対する関税の扱いについてです」
「レインに聞いた方が詳しいと思います」
文官は黙った。
ユウも黙った。
その状態で数秒が過ぎたところへ、部屋の扉が開いた。
「やっぱりこうなってた」
ダンだった。
その後ろからリーフェとカヤ、ミナまで顔を出す。
ユウが助けを求めるように振り返った。
「ダン」
「何だ、市長」
「代わって」
「嫌だよ!」
即答だった。
カヤが机の書類を見て笑う。
「すごーい。昨日より増えてる」
「増えてるんだよ」
「市長っぽいね」
「嬉しくない」
ダンは書類の山とユウを見比べてから、さすがに少し同情したらしい。
「まあ、これは無理だな」
「でしょう?」
「お前、三日後には全部『よく分からないから任せる』って書き始めそうだし」
「三日もかからないと思う」
「そこ自信持つなよ」
そんな会話をしていると、再び扉が開いた。
入ってきたのはエルメリアだった。
防衛戦のあとも谷に残り、地下遺跡や黄金湯の状態を調査していた彼女は、机の上に積まれた書類を見るなり眉を寄せた。
「何これ」
「僕の仕事らしい」
「全部?」
「うん」
エルメリアは一番上の書類を取り、ざっと目を通した。
次の一枚。
さらにその次。
読む速度が妙に速い。
「住民登録、商業区画、物流、公共設備予算……」
ユウが期待するように見る。
「分かる?」
「普通に読める」
「やってくれる?」
「どうしてそうなるの」
ダンが吹き出した。
だがエルメリアは書類をさらに確認しながら、やがて少し考えるような表情になった。
「でも、確かにユウが全部処理する必要はないわね」
王国の文官が反応する。
「と申しますと?」
「都市の代表と行政実務の責任者を同じ人間にする必要がないでしょう。特にこの都市は王国の普通の都市とは成立過程が違う」
リーフェも頷く。
「人間だけの街ではないものね」
「そう。王国の制度をそのまま持ち込めば魔族側との調整が増えるし、魔族側の制度へ合わせても同じことになる」
エルメリアは一枚の申請書を机へ戻した。
「だったら最初から、実務専門の組織を作った方がいい」
カヤの耳が立つ。
「市役所?」
「名前は何でもいいけど、役割としてはそうなる」
そこから話は思いのほか早く進んだ。
国王から派遣された文官たちは住民登録、税務、物流、法務などを担当し、魔族側からも実務経験のある者を加える。
どちらか一方の方式に偏らないよう共同で制度を整え、建築関係はドグラン、商業や観光はカヤ、警備関係はダンたちと連携する。
そして全体の調整役として、エルメリアが実務部門を見ることになった。
その話を聞いたユウは、明らかに安心した顔をした。
「じゃあ僕、市長じゃなくてもいい?」
ダンが呆れる。
「逃げることしか考えてねぇな」
「だってエルメリアの方が絶対向いてるよ」
エルメリアは少し嫌そうな顔をした。
「私は市長をやるとは言ってない」
「でも書類読めるよね?」
「読めるけど、それと市長は別」
「じゃあ文官のまとめ役」
「それならまあ……」
カヤが笑う。
「決まった!」
「勝手に決めないで」
そう言いながらも、エルメリアはすでに書類を種類別に分け始めている。
その手際を見たダンが小声で呟いた。
「向いてるな」
リーフェも頷いた。
「向いてるわね」
「聞こえてる」
そこへ、この話を聞きつけた国王と魔王も姿を見せた。
二人は事情を説明されると、特に反対しなかった。
むしろ国王は納得したように頷く。
「確かに、昨日は都市の代表が必要という話を先に進めすぎたな」
魔王もユウを見る。
「こいつに毎日行政文書を読ませる方が無駄だろう」
「そこまで言います?」
「事実だ」
「否定できないけど」
ダンが笑う。
そこで問題になったのが、ユウの立場だった。
都市の象徴として住民から信頼され、人間と魔族の双方からも中立的な存在として認められている以上、完全に役職を外すわけにもいかない。
国王が腕を組む。
「市長という呼び方が行政責任者を連想させるのなら、別の名にすればいい」
カヤが首を傾げた。
「別の名前?」
「この街は普通の都市というより、巨大な温泉地として発展した場所だ」
魔王も周囲を見る。
「宿、浴場、食堂、居住区、商業区、療養施設。その中心にいるのは昔からユウだ」
リーフェが少し考える。
「つまり都市を統治する人ではなく、この場所全体を管理する立場?」
「その方が近い」
国王が答えた。
カヤがぱっと顔を上げる。
「じゃあ総支配人!」
全員がカヤを見る。
「温泉宿って支配人いるでしょ? やわらぎは街全部が大きな温泉宿みたいなものだから、ユウは総支配人!」
ダンが何とも言えない顔になる。
「都市全体を宿扱いするのもどうなんだ」
ミナは少し考えてから言った。
「合ってる」
「ミナまで?」
「みんな、泊まる。住む。温泉入る。ご飯食べる」
「……確かに大体宿だな」
ダンが自分で納得してしまう。
ドグランまで話を聞いて笑った。
「市長よりユウらしいじゃねぇか」
ユウ自身も少しだけ考えた。
市長と言われると、どうしても書類と会議ばかりが思い浮かぶ。
けれど総支配人なら。
温泉を見る。
宿を見る。
食堂を見る。
住民や客が困っていれば話を聞く。
街全体がちゃんと過ごしやすい場所になっているか確認する。
それなら、今までやってきたことと大きく変わらない。
「総支配人なら、温泉見に行ってもいい?」
ダンが笑った。
「むしろそれが仕事になるんじゃねぇか?」
「じゃあそれがいい」
「決め手そこなの?」
カヤが笑う。
こうして、昨日決まったばかりの市長職はわずか一日で制度そのものを見直されることになった。
都市行政については、エルメリアを中心に王国と魔族双方から集まった文官たちが実務を担当する。
ドグランは建築と都市整備。
カヤは商業と観光。
ダンは冒険者や警備関係。
リーフェは精霊や魔法関連の調整。
必要に応じてそれぞれの得意分野を持つ者が仕事を分担し、その上で街全体の方針をまとめるのがユウの役目となった。
役職名は、温泉都市『やわらぎ』総支配人。
正式に決まった直後、ユウは積み上げられていた書類を見る。
「じゃあ、これは?」
エルメリアが椅子へ座りながら答えた。
「こっちで処理する」
ユウの顔が明らかに明るくなる。
「ありがとう」
「ただし重要事項には目を通してもらうから」
「……全部任せるのは?」
「駄目」
「ですよね」
ダンが横で笑う。
「残念だったな、総支配人」
「市長よりはいいよ」
「何が違うんだ?」
「源泉見に行ける」
「結局それかよ!」
部屋を出たユウは、その足で真っ先に黄金湯の源泉へ向かった。
昨日までと変わらず湯温を確認し、湯量を見て、黄金色の輝きに異常がないことを確かめる。
その姿を追いかけてきたミナが、隣から源泉を覗き込んだ。
「総支配人」
ユウが少し嫌そうに見る。
「ミナまでそう呼ぶの?」
「だめ?」
「慣れない」
「じゃあユウ」
「それがいい」
ミナは頷き、そのまま一緒に湯の状態を確認し始めた。
温泉都市になっても、立派な役職がついても、ユウがすることの根っこは何も変わらない。
誰かが気持ちよく湯へ入れるように整え、困っている者がいれば話を聞き、皆が安心して過ごせる場所を保つ。
政治や書類仕事は得意な者へ任せればいい。
一人ですべてを抱え込む必要などない。
こうして温泉都市『やわらぎ』は、エルメリアと文官たちによる実務組織を新たに整えた。
ユウは都市を統治する市長ではなく、街全体を一つの大きな温泉宿として見守る「総支配人」として、新しい仕事を始めることになった。
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