押し付けられた市長職
温泉都市『やわらぎ』の誕生が宣言された翌朝、還らずの谷はいつも以上に騒がしかった。
広場ではすでにドグランが新しい都市名を刻んだ看板の寸法を測り、カヤは「都市昇格記念」と書かれた札を抱えて露店街を走り回っている。
食堂ではレインが記念料理をどうするか悩み、元英雄たちは「都市になったところで温泉が急に変わるわけでもないだろう」と言いながら、いつも通り朝風呂へ向かっていた。
ユウ自身も、昨日の宣言で何か特別なことが変わるとは思っていなかった。
朝になれば源泉の様子を見て、黄金湯の状態や大浴場の温度を確認し、必要なら【水質変化】で細かく整える。
客が困っていれば話を聞き、何か壊れていればドグランへ相談する。
都市と呼ばれるようになっても、やることは同じでそれで十分だと思っていた。
だから、朝食を終えたユウがいつものように源泉へ向かおうとしたところで、ダンに呼び止められたときも、大した用事ではないと思っていた。
「ユウ、ちょっと来い」
「何?」
「会議だ」
「僕も?」
「お前がいないと始まらないらしい」
ユウは首を傾げた。
「温泉の話?」
「違う」
「じゃあ黄金湯?」
「それも違う」
「配管?」
「お前の頭の中、温泉しかないのか?」
ダンに連れられて広場近くの大きな建物へ向かうと、すでにかなりの人数が集まっていた。
国王エルグランと魔王ゼルヴァディスに加え、ドグラン、リーフェ、カヤ、ミナの姿もある。
さらに温泉街で働く者や、古くから谷に住む者、最近移住してきた元英雄たちの代表までいた。
ユウは入口で足を止めた。
「……何の集まり?」
カヤが妙に楽しそうな顔をする。
「大事な話!」
「昨日の都市の話なら終わったよね?」
「それが、まだ終わってないんだなぁ」
ダンがカヤを見る。
「お前、分かってて楽しんでるだろ」
「ちょっとだけ」
ユウには、ますます事情が分からなくなった。
国王が椅子を勧める。
「まあ、座れ」
ユウが座ると、隣にミナが自然と腰を下ろし、反対側にはダンが立った。
魔王ゼルヴァディスが腕を組みながら話し始める。
「昨日、この街を正式に都市として認めると宣言した」
「はい」
「都市である以上、必要になるものがある」
ユウは少し考えた。
「大きい浴場?」
ダンが額を押さえる。
「違うって!」
国王が笑いを堪えながら続けた。
「行政だ」
「行政?」
「住民登録、建築許可、商業区画の管理、道路整備、治安、税や物資の取り決め。今までは街の規模が小さかったから、それぞれが相談しながら何とか回せた。だが、これだけ人が増えれば、そうはいかん」
ユウはそこでようやく理解した。
最近は、カヤが帳簿を抱えて走り回っていることが増えている。
ドグランも建設の依頼が重なりすぎて、どこから手をつけるか悩むことがあった。
宿泊者と移住者の区別や、商人の出店場所、道路の整備、黄金湯の利用順など決めておかなければならないことも増えていた。
「大変そうですね」
ユウが感想を述べると、ダンがじっと顔を見る。
「なんで他人事なんだよ」
「だって僕、そういうのは詳しくないし」
国王と魔王が顔を見合わせた。その反応を見た瞬間、ユウは少し嫌な予感がした。
「……何ですか?」
国王が咳払いする。
「そこで、この都市をまとめる者が必要になる」
「そうですね」
「住民の意見を聞き、各種族との調整を行い、都市としての最終的な判断を下す者だ」
「大事ですね」
「お前だ」
ユウは頷きかけて止まった。
「……はい?」
カヤが吹き出した。ダンは最初から分かっていたらしく、肩を震わせている。
国王は真面目な顔のまま繰り返した。
「ユウ。お前に温泉都市やわらぎの長を任せたい」
ユウは何度か瞬きをしてから、自分を指差した。
「僕?」
「他に誰がいる」
魔王が当然のように答える。
「いや、いっぱいいますよ」
ユウは周囲を見回した。
「ドグランとか」
「断る」
即答だった。
「早いですね」
ドグランは腕を組む。
「俺は建物を作る。書類仕事なんぞやってられるか」
「リーフェは?」
「嫌よ。魔法や精霊関係なら手伝うけど、一日中会議をする役なんて御免だわ」
こちらも返事が早かった。
「ダン」
「絶対嫌だ」
「まだ何も言ってないよ」
「言われる前に断った」
ユウがカヤを見ると、カヤは笑顔で首を振った。
「私はお店と宣伝がいい!」
「ミナは?」
ミナは少し考えてから答えた。
「ユウを手伝う」
「僕がやる前提になってる」
ダンがとうとう笑った。
「諦めろ。もう逃げ道はねぇぞ」
「でも僕、本当にそういうことはできないよ」
ユウは困ったように国王を見た。
「僕、ただの湯守なんですけど……」
部屋が静かになり、ダンが大きく息を吐いた。
「まだ自分をただの湯守だと思ってたのか」
「違うの?」
「違うだろ!」
ダンは指を折りながら数え始めた。
「温泉街を作った。人間と魔族の会談をここで成立させた。古竜を集めた。天使長まで常連にした。天界まで温泉を通した。世界中の瘴気を浄化して、黄金湯まで作った。それで昨日、この場所が都市になったんだぞ!」
「最後の方は成り行きだよ」
「成り行きで世界規模のことをするな!」
カヤも楽しそうに頷いた。
「しかも住民のほとんどは、何かあるとユウに相談するじゃん」
「温泉のことならね」
「温泉以外もだよ!」
思い返せば、宿を増やすときも、露店街を広げるときも、人間と魔族が揉めたときも、新しい住民を迎えるときも、最終的にはユウのところへ話が来ていた。
ユウ自身は命令しているつもりなどなかった。
国王がそんなユウを見ながら笑う。
「だからこそだ」
「どういうことです?」
「権力を欲しがらない者の方が、この街には向いている」
魔王も頷いた。
「この都市には、人間も魔族も、それ以外の種族も集まっている。誰か一種族の利益ばかりを優先する者が長になれば、いずれ歪みが生じるだろう」
リーフェがユウを見る。
「あなた、相手が誰でもほとんど態度を変えないでしょう」
「お客さんなら同じだから」
「そこよ」
「どこ?」
「今、あなたが言ったこと」
ユウにはまだ十分に理解できなかったが、周囲の者たちは納得しているらしかった。
元英雄の一人が口を開く。
「俺もユウがいいと思うぞ」
「どうしてですか?」
「俺たちがここに住みたいと言ったとき、お前は一度も、元英雄だから特別に扱うとは言わなかった」
魔族の元兵士も頷いた。
「人間か魔族かも気にしなかったな」
「住みたいなら、住めばいいと思ったので」
「それができる者は、意外と少ないんだ」
ユウは少し黙った。
国王が続ける。
「もちろん、何もかも一人でやれとは言わん」
その言葉を聞いて、ミナがすぐに口を開いた。
「一人にしない」
ユウが横を見ると、ミナは真面目な顔をしていた。
地下でユウに寄り添ったときの約束を、今も覚えているのだろう。
リーフェも頷いた。
「行政については、担当者を置けばいいわ。全部ユウが書類を書く必要はないでしょう」
カヤが手を上げる。
「商業と観光なら私がやる!」
ダンが顔を向けた。
「観光まで、いつの間に担当になったんだ?」
「今決めた!」
ドグランも口を開く。
「建築と都市整備は俺が見る」
「警備なら俺も手伝える。冒険者や騎士団との調整もな」
ダンが続けると、国王が頷いた。
「王国からは行政実務に慣れた者を数名出そう。ただし、この都市へ命令するためではなく、実務を補佐するために来てもらう」
魔王も続けた。
「魔族側からも出す。双方から人を出し、この都市の方針に従って働かせよう」
ユウは周囲を見回した。どうやら、自分が知らない間にかなり話が進んでいたらしい。
「これ、最初から僕が断れないようにしてません?」
ダンが即答する。
「よく気づいたな」
「やっぱり!」
カヤが笑いながら言った。
「だって、普通に頼んだら『温泉が忙しいから』って言いそうだもん」
「実際、忙しいんだけど」
「長になっても温泉を見ればいいだろ」
ダンの言葉に、ユウは顔を上げた。
「いいの?」
「むしろ、お前から温泉を取り上げたら仕事が手につかなくなるだろ」
「そこまでじゃないよ」
誰も同意しなかったので、ユウは少し不満そうに皆を見た。
「みんな、ひどくない?」
ミナがユウの袖を掴む。
「私は手伝う。温泉も一緒に見る」
「ありがとう。それは助かるよ」
ダンが呆れたように言った。
「都市の仕事より、温泉の話の方が嬉しそうじゃねぇか」
話がまとまってきたところで、役職名についても相談することになった。
王国式なら都市長、魔族側なら領域管理者という呼び方になるらしい。しかし、どちらかの名称に合わせれば、その制度に属しているように受け取られるかもしれない。
カヤが首を傾げた。
「普通に市長でいいんじゃない?」
「市長?」
ユウが聞き返すと、カヤは頷いた。
「温泉都市なんだから、その長で市長。分かりやすいでしょ?」
ダンが少し考える。
「確かに、呼びやすいな」
リーフェも頷いた。
「王国にも魔族側にも寄らない呼び方なら、悪くないと思うわ」
国王と魔王も異論はなかった。
ユウは椅子に座ったまま、困ったように呟いた。
「……本当に僕なんだ」
ダンが肩を叩く。
「頑張れ、市長」
「まだ引き受けるって言ってないよ。その呼び方もやめて」
カヤも笑う。
「市長、都市昇格記念グッズの許可をください!」
「もう作ったでしょ?」
「まだ試作品!」
「やっぱり作ってるじゃん」
ドグランが図面を広げた。
「市長、新居住区の第二期工事だが」
「ドグランまで!」
リーフェも書類を一枚差し出す。
「市長、黄金湯の利用規則も、そろそろ正式にまとめた方がいいわ」
「リーフェまで乗らないでよ」
ミナもユウを見た。少し考えてから、ぽつりと言う。
「市長」
「ミナまで!?」
その口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。
どうやら面白がっているらしい。
ユウは皆の顔を見回し、やがて諦めたように息を吐いた。
「分かったよ」
ダンが眉を上げる。
「やるのか?」
「みんなが手伝ってくれるなら」
「手伝う」
ミナがすぐに頷いた。
「俺もだ」
「私も」
「もちろん!」
それぞれの声が重なり、ユウは少しだけ笑った。
「じゃあ、引き受ける前に一つだけ」
国王が尋ねる。
「何だ?」
「今まで通り、誰でも温泉に来られる街にしたいです」
人間でも魔族でも、獣人でもエルフでも、精霊でも古竜でも天使でもいい。
名の知れた元英雄も、ただ疲れているだけの旅人も、湯に入りたいと思って訪れたなら同じ客だった。
種族や身分によって、その人を拒む場所にはしたくない。
国王と魔王は顔を見合わせ、それから揃って頷いた。
「異論はない」
「それこそ、この都市を大切にしたい理由だ」
「なら、やります」
こうしてユウは、温泉都市『やわらぎ』の初代市長となった。
とはいえ、本人にとってはまだ、肩書きが一つ増えたという実感しかなかった。
話がまとまった途端、ユウは椅子から立ち上がる。
「じゃあ、源泉を見てくるね」
ダンがすぐに呼び止めた。
「待て、市長! まだ最初の仕事が残ってる!」
「何?」
「就任の書類だよ。引き受けたって署名をしてくれ」
「あとでもいい?」
「初日から後回しにするな!」
「でも、黄金湯の朝の状態をまだ見てないし」
「名前を書くだけだろ。源泉へ行く前に済ませろ!」
ダンの声が広場まで響き、外にいた住民たちから笑い声が上がった。
ユウは渋々席へ戻り、差し出された書類に目を通した。
署名を終えると、今度こそ源泉へ向かうために立ち上がる。
都市になり、市長が決まっても、やわらぎの日常はそう簡単には変わらないらしい。
初代市長となったユウも、相変わらず湯守としての仕事を気にしながら、ミナとともに源泉へ向かっていった。
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