温泉都市『やわらぎ』
元英雄たちのための新しい居住区計画が動き始めてから、還らずの谷の景色は目に見えて変わっていった。
ドグランを中心とした職人たちは、もはや「何軒か家を増やす」という規模では動いていなかった。
温泉街の東側には新しい道が伸び、その両側に一人暮らし向けの小さな家や家族向けの住居が並び始め、共同浴場や休憩所、食料品を扱う店まで次々と建てられていく。
しかも増えているのは元英雄たちだけではない。
黄金湯による治療を目的に長期滞在する者。
その家族。
新しい住民を相手に商売を始めたい商人。
宿や食堂で働きたい者。
建築や道路整備のためにやって来た職人。
王国から来た者もいれば、魔族領から移ってきた者もいる。
気づけば、還らずの谷に住む者の数は以前とは比べものにならないほど増えていた。
ある朝、ユウが新しい居住区を見回っていると、ドグランが大きな図面を抱えてやって来た。
「ユウ、予定を変えるぞ」
「また?」
「まただ」
ドグランは地面へ図面を広げる。
最初に描かれていた居住区より、明らかに範囲が広い。
ユウが図面を覗き込む。
「倍くらいになってない?」
「倍じゃ足りん」
「足りないの?」
「昨日だけで移住希望が二十六世帯増えた」
ユウは少し黙った。
「多いね」
「多いね、じゃねぇ!」
少し離れたところで資材を運んでいたダンが叫んだ。
「最近その言葉で全部済ませようとしてないか!?」
カヤも帳簿を抱えて走ってくる。
「宿泊希望も増えてるよ! 今月の予約、ほとんど埋まった!」
「そんなに?」
「黄金湯だけじゃなくて、元英雄が住み始めたって噂も広がってるの!」
ダンが首を傾げる。
「それでなんで客が増えるんだ?」
「有名な元英雄に会えるかもしれないって」
「観光地みたいになってるじゃねぇか」
カヤは少し得意そうだった。
「もうかなり前から観光地だと思うけど」
それは否定できなかった。
温泉まんじゅう。
効能特化湯。
大浴場。
サウナ。
黄金湯。
食堂。
露店街。
さらにグーちゃん抱き枕をはじめとする谷の名物グッズまである。
最近では元英雄たちが若い冒険者へ昔の経験を話すことまで増えていた。
朝の広場では、元騎士が新人冒険者たちへ盾の構え方を教えている。
別の場所では、元魔術師が子供たちへ簡単な魔力操作を見せている。
魔族の元兵士は露店の手伝いをしていた。
「いらっしゃい」
「声が怖いよ!」
カヤがすぐに注意する。
「普通に言ったぞ」
「もっと笑って!」
魔族の老人はしばらく考えたあと、不自然なくらい口角を上げた。
近くにいた子供が泣いた。
「怖くなってるじゃん!」
そんな日常まで生まれていた。
そして居住区の拡張が始まって十日ほど経った頃、還らずの谷へ二つの大きな一行がやって来た。
王国側からは国王エルグラン・ヴァルディス。
魔族側からは魔王ゼルヴァディス。
同行しているのは必要最低限の護衛だけだった。
二人とも谷へ来ること自体は珍しくない。
そのためユウも最初は、黄金湯へ入りに来たのだと思った。
「今日は黄金湯ですか?」
出迎えたユウが尋ねると、国王が少し笑った。
「それも魅力的ではある」
魔王も頷く。
「ここまで来て入らず帰る理由はないな」
ダンが横から言う。
「じゃあ普通に温泉客じゃねぇか」
「今日はそれだけではない」
国王が続けた。
魔王も周囲を見渡す。
以前は宿と温泉が中心だった谷に、今では何本もの道が走っている。
遠くでは新しい家が建設され、露店街では多種族の客が行き交い、荷車が食材や建築資材を運んでいる。
魔王が小さく笑った。
「改めて見ると、とんでもなく増えたものだ」
「俺もそう思う」
ダンが頷く。
「最初の頃なんて、温泉以外ほとんど何もなかったからな」
「今でも増えてる」
ミナが付け加える。
国王は新しい居住区の方向を見る。
「聞いたところでは、定住者だけでも相当な数になったそうだな」
カヤがすぐ帳簿を開いた。
「今朝の時点で、移住予定まで含めるとかなり増えてます。長期滞在者を入れるともっとです」
「宿泊客は?」
「数えるの大変です!」
「それは管理しろ」
ダンが思わず突っ込む。
カヤは慌てて付け加えた。
「ちゃんと帳簿にはあります!」
国王は笑いながら頷いた。
「なら問題ない」
魔王はしばらく谷の様子を眺めてから、ユウへ視線を戻した。
「そこで一つ話がある」
「はい」
「ここを、いつまでも『温泉街』と呼ぶのは無理があると思わんか?」
ユウは周囲を見る。
温泉。
宿。
食堂。
露店。
住宅。
共同浴場。
工房。
倉庫。
療養施設。
天界へ続く温泉設備まである。
「……少し大きいかもしれませんね」
ダンが額を押さえる。
「少しじゃねぇよ」
国王が笑う。
「王国側でも同じ意見が出ている。ここはすでに単なる観光地でも療養地でもない。人が暮らし、働き、商いをし、異なる種族が共に生活する一つの都市として機能し始めている」
リーフェが少し驚いたように尋ねる。
「都市として認める、ということですか?」
「ああ」
国王は頷いた。
「王国として、還らずの谷に成立したこの街を正式な都市として扱いたい」
魔王も続ける。
「魔族側も同意している。ここはどちらか一方の領地として扱うべき場所ではないからな」
ダンの表情が変わる。
「待ってください。王国と魔族側、両方が認めるってことは……」
「今まで通りだ」
魔王が答えた。
「人間だけの街にも、魔族だけの街にもしない」
国王も頷く。
「この谷がここまで発展した理由そのものを変えるつもりはない。
種族を問わず、誰でも訪れ、休める場所だからこそ価値がある」
ユウはしばらく黙っていた。
最初に還らずの谷へ来た時、自分は都市を作ろうなどとは考えていなかった。
ただ温泉を見つけた。
湯を整えた。
そこへミナが来た。
ダンが来た。
リーフェやカヤも加わった。
客が増えたから宿を作り、腹が減るから食堂ができた。
もっと入りたいと言われたから浴場を増やし、便利だから露店が並んだ。
そうして気づけば、誰かが住みたいと言う場所になっていた。
「でも名前はどうするんですか?」
カヤが尋ねた。
その瞬間。
国王と魔王が顔を見合わせた。
どうやら、そこまで話は済んでいるらしい。
ダンが嫌そうな顔になる。
「まさか勝手に決めてないですよね?」
国王が咳払いする。
「候補はある」
「候補なら……」
「温泉都市『やわらぎ』」
ダンが止まった。
ユウも少し驚く。
カヤの耳が立つ。
「やわらぎ?」
魔王が頷いた。
「この土地そのものは昔から還らずの谷と呼ばれてきた。それを無理に消す必要はない」
国王が続ける。
「だが、ここに新しく生まれた都市には別の名があってもいいだろう」
ミナがゆっくり呟く。
「やわらぎの湯と同じ」
「そういうことだ」
国王は笑った。
還らずの谷。
その中に生まれた温泉都市。
『やわらぎ』。
谷の地名を変えるのではない。
昔からの名を残したまま、その中に新しく育った街へ名前を与える。
リーフェは少し考えてから頷いた。
「悪くないと思うわ」
カヤはすでにかなり気に入ったらしい。
「温泉都市やわらぎ! 絶対いいよ!」
ダンが眉を寄せる。
「お前、看板とか土産物のこと考えてない?」
「ちょっとだけ」
「絶対もう商品名考えてるだろ!」
「都市昇格記念まんじゅうとか」
「早ぇよ!」
近くで話を聞いていたドグランまで笑い始める。
「看板なら任せろ。入口にでかいの建ててやる」
ダンが振り返る。
「ドグランまで乗るな!」
「都市なら入口は分かりやすくしねぇとな」
「正論なのが困る!」
その騒ぎを聞きながら、ユウはもう一度周囲を見た。
温泉から立ち上る湯気。
新しく建てられている家。
走り回る子供たち。
露店で値切る魔族。
それに負けじと応戦する獣人の商人。
若い冒険者へ昔話をする元英雄。
木材を運ぶドワーフたち。
グーちゃんの周囲で遊ぶ子供たち。
そこにはもう、誰も近づかなかった昔の還らずの谷の姿はなかった。
「僕はいいと思います」
ユウが言う。
国王が尋ねる。
「では、認めてもらえるか?」
「みんながいいなら」
ダンが苦笑する。
「結局そこなんだな」
「僕一人の街じゃないから」
その言葉に、国王も魔王も少しだけ表情を和らげた。
その日の夕方。
大浴場前の広場には多くの住民と客が集められた。
人間。
魔族。
獣人。
エルフ。
ドワーフ。
冒険者。
元英雄。
温泉街で働く者たち。
誰も事情を詳しく聞かされておらず、何が始まるのかとざわめいている。
やがて国王と魔王が並んで前へ出た。
かつてなら、それだけで周囲へ緊張が走っただろう。
今では二人が同じ場所へいることも、この谷ではすっかり見慣れた光景になっていた。
国王が声を上げる。
「今日、この場を借りて一つ宣言する」
広場が静かになる。
「還らずの谷に生まれたこの温泉街は、すでに街という規模を大きく超えた。ここには住民がおり、仕事があり、商いがあり、何より様々な種族が共に暮らしている」
続いて魔王が前へ出る。
「ゆえに、我々は人間側、魔族側双方の合意によって、この地に築かれた街を正式な都市として認める」
ざわめきが広がった。
カヤはすでに笑顔になっている。
ドグランは腕を組んで満足そうに頷いていた。
ダンだけが「本当に都市になっちまった」と呟いている。
そして国王と魔王は揃って、新しい名を告げた。
「温泉都市――『やわらぎ』」
一瞬の静寂のあと。
広場から大きな拍手と歓声が上がった。
人間と魔族が肩を組み笑いあっている。
その隣では獣人に肩車をされた子供が笑顔で手をたたいている。
誰かが「乾杯だ!」と叫び、食堂の方からレインが「まだ酒を出すとは言ってない!」と怒鳴る。
その声でさらに笑いが広がった。
ミナがユウの隣へ来る。
「やわらぎ」
「うん」
「いい名前」
ユウは温泉から上がる湯気を見ながら頷いた。
「そうだね」
還らずの谷という名は消えない。
長い間、誰も寄りつかなかった土地の名前として、これからも残っていく。
けれど、その谷の中には新しい場所が生まれた。
傷ついた者が休み、疲れた者が帰ってくる。
人間も魔族も関係なく同じ湯へ入り、そのままここで暮らしたいと思える場所。
温泉都市『やわらぎ』
最初は一人の青年が、たった一つの温泉を整えただけ。
そこから始まった小さな場所が、今や国王と魔王の双方から認められる、一つの都市へと成長していた。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークやページ下部の☆を押して評価をお願い致します!
作者の励みになります!




