元英雄たちの安らぎの場
黄金湯を求めて還らずの谷へやって来た元英雄たちは、身体の具合がよくなったあとも、なかなか谷を離れようとはしなかった。
最初のうちは、長年苦しんできた古傷や呪いが本当に治ったのか確かめるため、数日だけ滞在を延ばしているのだと思われていた。
けれど一週間が過ぎ、十日が過ぎても宿を出る者は少なく、それどころか「もう少し泊まりたい」と申し出る者が日に日に増えていった。
朝になれば温泉へ入り、食堂でレインの料理を食べる。
昼は散歩をしたり、知り合った者たちと昔話をしたりして過ごし、夕方にはもう一度湯へ浸かる。
戦場にいた頃のように次の命令を待つ必要もなければ、冒険者だった頃のように依頼の期限を気にする必要もない。
眠る時間を削って見張りに立つことも、自分より若い仲間を先に休ませることもなかった。
疲れたと思ったときに腰を下ろし、眠くなったら眠る。
そんな暮らしが、彼らには思っていた以上に心地よかったらしい。
ある朝、ユウが食堂へ向かっていると、入口近くの長椅子に座っていた元傭兵隊長から声をかけられた。
「ユウ、少しいいか」
「はい。どうしました?」
黄金湯によって、長年痛めていた左肩を治した男だった。
今では腕を自由に上げられるようになっていたが、昔のように大斧を振るって暮らすつもりはないらしく、毎朝の散歩を楽しみにしていた。
男はユウへ座るよう勧めてから、少し遠慮がちに尋ねた。
「この谷で、家を借りることはできるか?」
「家ですか?」
「ああ。宿暮らしも悪くないんだが、俺みたいなのがいつまでも部屋を使っていたら、これから治療に来る者が泊まれなくなるだろう」
それはユウたちも気にしていたことだった。
黄金湯の噂が広がってから宿泊客は増え続け、先の予約まで埋まっている日も珍しくない。
「どのくらい住みたいんですか?」
ユウが尋ねると、男は膝の上で手を組んだ。
「できれば、ずっとだ」
ユウは少し目を瞬いた。男はその反応を見て、照れたように笑う。
「傭兵団を離れて長いし、故郷にも家族は残っていない。肩が治ったらどこへ行こうかと考えていたんだが、ここで朝飯を食って、散歩しているうちに、別の場所を探す理由がなくなってな」
「それなら、ここで暮らせるように考えてみましょう」
「いいのか?」
「住みたいと思ってもらえるのは嬉しいです。ただ、今すぐ貸せる家があるかは、確認しないと分からないんですけど」
男の表情が和らいだ。
「急がない。話を聞いてもらえただけでも助かる」
ちょうど通りかかったダンが、二人の前で足を止めた。
「とうとう移住の相談か。気に入ってるとは思ってたけどな」
「お前が毎晩、昔の話をせがむから帰りそびれたんだ」
「俺のせいかよ」
男が笑うと、ダンも苦笑しながら隣へ腰を下ろした。
しかし、この話は元傭兵隊長一人だけでは終わらなかった。
その日の昼には元騎士から同じ相談を受け、翌日には元魔術師が受付を訪れた。
さらに魔族の元兵士たちからも、宿の部屋ではなく、腰を落ち着けて暮らせる場所がないかと尋ねられた。
彼らの多くは、すでに現役を退いている。
帰る家がある者もいたが、家族を失った者や、長い戦いの中で故郷との繋がりが薄くなった者も少なくなかった。
身体が治ったとしても、以前の暮らしへそのまま戻れるわけではない。
何をして過ごせばいいのか考えていたところへ、谷での日々が新しい楽しみを運んできたのだ。
食堂の一角では、元王国騎士と元魔王軍兵士が盤を挟んで向かい合っていた。
「そこへ置いていいのか?」
「置こうとしているときに話しかけるな。気が散る」
「さっきからずいぶん考えているぞ」
「お前こそ、俺が考えている間に次の手を決めておけ」
駒が置かれた途端、元騎士が嬉しそうに身を乗り出す。
魔族の老人はその顔を見て眉を寄せ、周囲から笑い声が上がった。
別の机では、元冒険者が若い冒険者たちへ昔の失敗を話している。
「大型魔獣を囲むときは、逃げ道まで考えておけ。追い込めば安全になるとは限らんぞ」
「全部塞いだ方が、逃げられなくていいんじゃないですか?」
「俺も若い頃はそう思った。それで、追い詰めた魔獣が死に物狂いで突っ込んできてな」
老人は自分の頭を指差した。
「これが割れた」
「頭ですか?」
「まず兜だ」
「まず?」
「その下も、少しな」
「全然安全じゃないじゃないですか!」
若者たちの声に、老人は笑いながら頷いた。
「だから話してるんだ。同じ目に遭わなくて済むようにな」
有名な人物だと知れば驚く客もいたが、この谷では、いつまでもその名を持ち出されることはなかった。
食事の席が足りなければ少し詰め、長湯をすればダンに注意され、カヤに頼まれれば通路の荷物をどける。
肩書きを気にせず過ごせることも、彼らが谷を気に入った理由の一つだった。
移住の相談が重なると、ユウはドグランを呼び、温泉街の端にある空き地へ向かった。
ダンも一緒に歩きながら、周囲を見回している。
「ここに、住むための家を増やせないかな」
ユウが尋ねると、ドグランは腕を組んだ。
「何人くらい住む予定なんだ?」
「今、相談を受けている人は分かるけど、これからどのくらい増えるかはまだ……」
「なら、まず今の人数を聞かせろ。広げられる余地を残して作ればいい」
ユウは指を折って数え始めた。
「元傭兵隊長さんと、元騎士が二人。魔術師が一人に、魔族の元兵士が三人。それから獣人の狩人も一人」
「八人か」
ダンが数えたところへ、カヤが帳簿を抱えてやって来た。
「今日、また三人から相談があったよ。元冒険者が二人と、元神官が一人」
「もう十一人かよ」
「宿の部屋が空くのを待ってる人もいるから、住む場所を分けられたら助かるね」
カヤは帳簿を開き、相談を受けた者の名前をユウたちに見せた。
ドグランは記録に目を通してから、空き地の奥へ視線を向けた。
「今の人数だけに合わせて建てると、すぐ足りなくなりそうだな。先に道と水回りを決めて、家は順に増やしていくか」
あとから合流したリーフェも頷いた。
「家族と住みたい人がいるかどうかも、聞いておいた方がいいわね。長く療養するために滞在したい人からも、似た相談が来るかもしれないし」
カヤが空き地を見回し、少し嬉しそうに言った。
「ここが新しい住宅街になるんだね。人が増えたら、お店も必要になるかな」
「その前に家だ」
ドグランが言うと、カヤは笑った。
「分かってるよ。食べ物や日用品を買う場所が近くにあったら、便利だと思っただけ」
「そこは道を決めるときに考えよう」
ドグランは棒を拾い、地面へ大まかな線を描き始めた。
「東側へ広げるのがよさそうだ。温泉街の中心から少し離れているから静かだし、浴場へ通うにも遠すぎねぇ。坂や段差は、できるだけ少なくする」
ユウは描かれた線を覗き込んだ。
「家は、小さめでも大丈夫かな」
「一人暮らしならな。ただ、家族で住む家もいくつか考えておく。足腰の弱い者も暮らしやすいように、戸口や通路も広めに取るぞ」
「それなら、近くに共同浴場も欲しいね」
ドグランが顔を上げる。
「家の間取りより先に、風呂の話が出ると思ったぞ」
「毎日入るなら、近い方が楽でしょ」
「まあ、それはそうだ」
ダンも地面の線を見ながら尋ねた。
「こっちにも黄金湯を引くのか?」
「黄金湯は、治療に来た人を優先して使えるようにしたいんだ。
住宅の方では、従来のやわらぎの湯に入れるようにできたらいいな」
ユウの言葉に、リーフェが頷いた。
「元の湯でも、疲れを癒やすには十分だものね。湯の確保や引き方も含めて考えましょう」
「共同浴場の横に、座って休める場所も欲しいね」
カヤが帳簿へ書き込むと、ドグランは地面にもう一つ印をつけた。
「それくらいなら一緒に作れる。だが、あれもこれも増やす前に、住む連中の希望をまとめてくれ」
こうして、還らずの谷の新しい居住区計画が始まった。
建設の話を聞いた元英雄たちは、自分たちから手伝いを申し出た。
「住む家を作ってもらうんだ。できることくらいはやらせてくれ」
元傭兵隊長はそう言うと、運ばれてきた木材へ手を伸ばした。
そばにいたダンが、慌ててその腕を押さえる。
「待て。いきなり一人で担ごうとするな」
「肩はもう痛まないぞ」
「治ったばかりだろ。軽い物からにしろよ」
男は木材とダンの顔を見比べ、やがて手を離した。
「お前、昔の仲間と同じことを言うな」
「同じことを心配してるんだろうな」
結局、男は二人で板材を運ぶ役を引き受けた。
それでも、自分の手で仕事ができるのが嬉しいらしく、途中で肩の具合を確かめながら、何度も往復していた。
元騎士たちは道を作る場所から石を拾い、魔族の元兵士たちは資材を運んだ。
元魔術師たちはドグランに地面の状態を聞きながら、足元を平らにする作業を手伝っている。
ドグランは一通り見て回り、感心したように顎髭を撫でた。
「話が早くて助かるな。慣れてる奴も多い」
「遠征先では、自分たちで道を整えたり、泊まる場所を作ったりしていたでしょうからね」
リーフェが答えると、近くにいた元騎士が顔を上げた。
「今度は雨が降る前に急げと言われないのがいいな」
「日が暮れる前には終わらせるぞ。疲れたら先に休め」
ドグランの返事に、周囲から笑い声が上がった。
自分たちが暮らす場所を、自分たちの手で整えている。
思いついたことを相談し、無理なら別の方法を考え、疲れた者は作業から抜ける。
そうして一日を過ごした人々は、夕方になると連れ立って温泉へ向かった。
「久しぶりに働いたら、腰が重いな」
「黄金湯で治ったばかりじゃなかったか?」
「古傷は治っても、疲れるものは疲れるさ」
「明日は少し減らしてもらえ。家が建つ前に寝込んだら、笑われるぞ」
湯船からそんな会話が聞こえ、やがて満足そうなため息に変わった。
ユウは浴場へ向かう途中で足を止め、新しい居住区になる土地を眺めていた。
地面に杭が打たれ、道になる場所へ目印が置かれているだけだった。
それでも近いうちに、ここには人の暮らしが生まれる。
朝には戸が開き、食事の支度をする匂いが漂い、夕方になれば隣人同士で誘い合って風呂へ向かう。
畑を作りたい者や、小さな仕事を始めたい者も出てくるかもしれない。
ミナが隣へ来て、同じ土地を見た。
「また人が増えるね」
「うん。ここに住みたい人が、思っていたより多かったんだ」
「賑やかになる」
「ミナは、どう思う?」
ミナは少し考えてから答えた。
「嬉しい。帰ってくる人が増えるから」
ユウはその言葉を聞いて、もう一度空き地へ目を向けた。
過去の勇者が願ったのは、傷ついた誰かが休める場所だった。
ここで元気を取り戻し、再び旅立つ人がいてもいいし、そのまま暮らすことを選ぶ人がいてもいい。
帰る場所を探していた人にとって、この谷がそうなれるなら、ユウも嬉しかった。
「じゃあ、住みやすい場所にしないとね」
ミナが頷いたところへ、ドグランの大きな声が響いた。
「ユウ! 道の位置を決めたら、浴場をどこに置くか見てくれ!」
「今行く!」
ユウが歩き出すと、ダンの声も聞こえてきた。
「やっぱり風呂の話になるんだな」
「毎日使うんだから、大事でしょ!」
カヤが答え、その近くにいた元英雄たちも笑った。
かつて戦場で名を馳せた者たちは、これから暮らす家や、隣人と通う浴場について話していた。
誰かに求められる役目から離れ、自分の一日をどう過ごすか考え始めている。
こうして還らずの谷では、元英雄たちを新たな住民として迎えるため、温泉街の外側へ居住区を広げる計画が動き出した。
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