集う元英雄たち
黄金湯の噂が広がり始めてから、還らずの谷へ向かう人の流れは、それまでとは比べものにならないほど大きくなっていた。
今までは温泉目当ての冒険者や商人、獣人、魔族、精霊などが訪れていたが、新たに集まり始めたのは、長い年月を戦いに費やし、その代償を身体に残した者たちだった。
受付に届く手紙にも、古傷や呪いを抱えたまま何年も暮らしてきたという話が増えている。
その朝、最初にやって来たのは、片足を引きずる老騎士だった。
白髪混じりの短い髪に、使い込まれた外套をまとい、腰には剣を下げている。
ただ、その剣は戦うためというより、長年身につけてきた習慣で持ち歩いているように見えた。
受付にいたカヤは、差し出された手形を確認してから顔を上げた。
「こちらへ来るのは初めてですか?」
「ああ。先に手紙を出していたんだが、今日来るよう返事をもらってな」
老人は谷の奥に立ち上る湯気を眺めながら、名前を告げた。
カヤが受付の記録を確かめると、腰と右脚の古傷について書かれた申し込みが見つかる。
「王国の東部で騎士をされていた方ですね」
「三十年前までな。魔族との戦いで腰と脚をやられて、それからは剣を振るのも難しくなった」
「今も痛むんですか?」
「朝起きるたびに、まだ生きてるぞと知らせてくる」
老人は笑ったが、その笑みには痛みに慣れてしまった者の諦めが混じっていた。
「治癒術師には何人も診てもらった。これ以上は無理だと言われて、俺もそういうものだと思っていたんだが……二十年来の古傷が治ったという噂を聞いてな」
「黄金湯ですね。まずはお身体の状態を確認してから、ご案内します。こちらで少し休んでいてください」
カヤは老人を、黄金湯を利用する者のために設けられた案内所へ連れていった。
腰を下ろすときにも脚をかばう様子を見て、近くにいた係の者が足を伸ばせる台を運んでくる。
その少し後には、腕に呪いの痕を残した元冒険者が到着した。
さらに昼前になると、馬車が三台続けて谷へ入ってきた。
「今日もこんなに来るんだ……」
カヤが受付から顔を上げると、荷物を運んでいたダンも馬車の方を見た。
「昨日より増えてるな」
「昨日も多かったよ! 予定の人だけでも、案内するのが大変だったんだから」
「ギルドから人を回してもらうか。受付で詰まったら、せっかく来た連中を立たせたままにしちまう」
馬車から降りてきたのは、年齢も種族も異なる者たちだった。
片腕を吊った人間の元兵士に、魔力経路を傷めたエルフの元魔術師、片目に古い傷を持つ獣人の狩人。
その後ろからは、杖をついた魔族の老人も姿を見せた。
旅の途中で何度も顔を合わせ、最後の宿場からは同じ馬車に乗ってきたらしい。
元兵士が魔族の老人の荷物を下ろし、エルフが獣人へ忘れ物はないかと声をかけている。
ダンはその様子を見て、少し笑った。
「ここへ来る頃には、すっかり旅仲間ってわけか」
「長い道のりだったみたいだよ。途中の宿で、みんな古傷が痛んだんだって」
カヤは受付の紙を揃え、降りてきた者たちに手を振った。
「こちらで順番に確認しますね。椅子もありますから、座ってお待ちください!」
こうして谷には、戦いから退いた者たちが次々と集まり始めた。
中には、名前を聞いただけでダンやリーフェが驚くような人物までいた。
その日の夕方、食堂の前に一人の大柄な男が現れたとき、ダンは手にしていた桶を落としかけた。
「……嘘だろ」
隣にいたユウが振り返る。
「知ってる人?」
「知ってるも何も、北方戦争で三つの砦を守り切った元傭兵隊長だぞ。俺が駆け出しの頃には、もう有名だった」
六十を超えているであろうその男は左目を眼帯で覆い、背中には大きな斧を背負っていた。
太い腕には今も力が残っていそうだったが、左肩をほとんど動かさずに歩いているのが気にかかった。
ダンの声が聞こえたらしく、男は足を止めて苦笑した。
「昔の話だ。よく知っているな」
「そりゃ知ってるよ。若い頃、あんたの戦い方を聞いて、仲間と真似したこともあるんだから」
「やめてくれ。うまくいった話ばかり伝わってるんだろう。しくじった話の方が、よほど役に立つぞ」
あまりに気負いのない返事に、ユウは少し笑った。
男もつられて笑ったが、背中の斧の位置を直そうとして顔をしかめ、左肩へ手を当てた。
「肩を痛めているんですか?」
ユウが尋ねると、男は頷いた。
「二十五年前に大型魔獣へ噛まれてな。傷は塞がったが、肩の中に魔力の淀みが残ったらしい。それ以来、腕を上げると痛む」
「それで引退したんですか?」
「すぐには辞めなかった。右腕でかばいながら戦っていたんだが、そのうち斧を振ったあとに左腕が動かなくなってな。最後は仲間に武器を取り上げられた」
ダンが頷きながら口元を緩めた。
「いい仲間だったんだな」
「ああ。俺よりよほど物が見えていた」
男は懐かしそうに答え、それから大浴場の方へ目を向けた。
「今さら昔に戻りたいわけじゃないんだ。ただ、朝から肩の痛みに顔をしかめる暮らしには、少々飽きた」
「それなら、まず診てもらいましょう」
ユウが案内すると、男は礼を言ってあとに続いた。
その夜、黄金湯から上がった元傭兵隊長は、休憩所で左腕を何度も動かしていた。
肘を曲げ、肩の高さまで持ち上げ、それからゆっくり頭上へ伸ばす。
長い間できなかった動きを確かめるように、今度は背中へ手を回した。
ダンはそばで見守りながら、少し緊張した声で尋ねた。
「どうだ?」
「……痛まない」
男は短く答えたあと、しばらく自分の腕を見つめていた。
やがて立ち上がり、宿の外へ向かう。
「斧を持ってみたい。広い場所はあるか?」
「あるけど、いきなり振り回すなよ。肩が治っても、身体は昔と同じじゃねぇんだから」
「分かっている。一度だけだ」
ダンは男を、人の通らない開けた場所へ連れていった。
男は背中から大斧を下ろすと、両手で柄を握り直した。足を開き、重さを確かめながらゆっくり持ち上げる。
そこで一呼吸置いてから振り下ろすと、大きな刃が風を切った。
動きは全盛期と同じではなかった。長く戦場を離れ、年を重ねた分だけ、踏み込みも腕の振りも遅くなっている。
それでも左肩は最後まで動き、斧を止めたあとも痛みは起きなかった。
男は斧を下ろしたまま、しばらく立ち尽くしていた。
「ちゃんと動くんだな……」
もう一度肩を動かし、ようやく顔を上げる。
その口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。
ダンも何も言わずに笑った。
今は昔の武勇伝を聞くより、この一振りをそばで見られたことが嬉しかった。
黄金湯を訪れる元英雄たちは、それからも増え続けた。
王国の防衛戦で多くの兵を救った元騎士もいれば、部下を逃がすために一人で殿を務めた魔王軍の元戦士もいる。
災害の際に街を守る結界を張り続け、魔力経路を傷めた魔術師や、魔物の大群から村を守る中で視力を大きく損なった獣人の狩人もやって来た。
誰もが武勇伝を語りたがるわけではない。
受付で事情を聞かれて初めて、当時のことをぽつりと話す者もいた。
黄金湯の効き方も、それぞれ違っていた。
十年ぶりに杖なしで歩けるようになった者は、庭を何往復もした。
魔力を再び扱えるようになった者は、昔使っていた簡単な魔法から、慎重に確かめていった。
失った身体の一部が戻ることはなく、年齢による衰えまで消えるわけでもない。
それでも、残っていた痛みが軽くなり、夜中に目を覚まさず眠れたというだけで、涙を浮かべて礼を言う者がいた。
そんな人々を見ていたミナが、ある日ユウへ尋ねた。
「みんな、強かった人?」
「そうみたいだね。いろんな場所で、誰かを守ってきた人たちなんだって」
「でも今、疲れてる」
ユウは休憩所の椅子で眠っている老人を見てから、頷いた。
「長い間、頑張ってきたんだろうね。痛くても、休めないことがあったのかもしれない」
過去の勇者の記録が思い出された。
誰よりも強いからと頼られ、期待に応え続けた勇者は、やがて一人で多くのものを抱え込んでいた。
今、谷へ来ている者たちも、事情は違っていても、自分にできることを引き受けてきたのだろう。
戦いが終わってからも残った傷を、何年も抱えて暮らしてきた。
その痛みからようやく解放された人たちが、今は安心した顔で眠っている。
「ここでは、ゆっくりしてもらいたいね」
ユウが言うと、ミナは小さく頷いた。
夕方の大浴場では、元王国騎士や元魔王軍兵士、冒険者、傭兵たちが、黄金色の湯へ肩まで浸かっていた。
昔なら互いの身分を知っただけで警戒したかもしれない者たちも、ここでは隣り合って湯に入っている。
「その腕は、どこでやったんだ?」
「南部戦線だ。お前は?」
「俺は西だな」
「昔なら敵だったかもしれんな」
「今さら確かめても、湯がまずくなるだけだろう」
「違いない」
二人が笑う隣では、元魔術師同士が昔の術式について話していた。
「あの結界、まだ使われているのか?」
「形は残ってるが、ずいぶん扱いやすくなったらしい」
「俺たちの頃は三人がかりだったぞ」
「弟子に教えたら、もっと簡単な方法があると言われたよ」
「そいつは聞き捨てならんな。あとで教えてくれ」
話が弾んでいるところへ、見回りに来たダンが声をかけた。
「じいさんたち、そろそろ一度上がれよ。話してるうちに、長湯になってるぞ」
湯船から一斉に顔が向いた。
「若造がうるさい。まだ平気だ」
「俺たちは昔、三日寝ずに戦ったこともある」
「六時間、魔法を撃ち続けたこともあるぞ」
ダンは呆れたように腰へ手を当てた。
「だから身体を壊したんだろうが。ここに来てまで我慢比べするなよ」
一瞬の沈黙のあと、湯船のあちこちから笑い声が上がった。
「それを言われると弱いな」
「分かった、上がるよ。水はどこだ?」
「休憩所に用意してある。続きはそこで話してくれ」
浴場の入口で見ていたユウも、笑いながら通路を空けた。老人たちはまだ話し足りない様子で、連れ立って休憩所へ向かっていく。
そこへ、カヤが大量の紙を抱えてやって来た。
「ユウ、また問い合わせが届いた!」
「今日も?」
「王国だけじゃないよ。小国群からも来てるし、魔族領からの申し込みもある。冒険者ギルドからは、元高位冒険者の団体で来たいって相談まで!」
ダンが驚いて振り返った。
「団体で来るのか?」
「付き添いもいるから、けっこうな人数になるみたい」
「こりゃ、ギルドにも日程を調整してもらわねぇとな」
カヤは頷き、手元の紙へ目を落とした。
「宿泊できる人数も伝えないとね。部屋だけじゃなくて、食堂の席も足りなくなりそう」
「レインとも相談しよう」
ユウが答えると、少し離れた場所で記録を確かめていたリーフェが顔を上げた。
「その宿泊のことで、気になっていたの。黄金湯を目的に来た人たち、身体の状態がよくなってからも、二、三日余分に泊まることが多いわ」
「まだ痛みが残ってるのかな?」
「いいえ。念のため様子を見たい人もいるけど、もう少し滞在したいと言う人が多いのよ」
カヤがすぐに笑った。
「食堂がおいしいからじゃない? 今日も、明日の鍋を食べてから帰るって言ってた人がいたよ」
「久しぶりに会った知り合いもいるんだろ。休憩所でずっと話してる連中がいたぞ」
ダンが言うと、ミナも口を開いた。
「ここ、よく眠れるって」
ユウは浴場から出ていった人たちの方を見た。
身体の具合がよくなったからといって、すぐに旅支度をする必要はない。
誰かと食事をし、温泉へ入り、昔の話をして眠る。
何年も痛みを抱えてきたのなら、痛くない朝をここで何度か迎えてから帰ってもいい。
「それなら、もう少しいてもらおう」
ユウが言うと、ダンは苦笑した。
「気持ちは分かるが、次に来る客の部屋も必要だぞ」
「うん。宿を増やせるか、ドグランに相談しないとね」
「とうとう増築の話になるか。あいつ、忙しくなるぞ」
「泊まる場所がないと、ゆっくり休めないから」
カヤは紙の束を抱え直した。
「じゃあ、まず今ある部屋で予定を組もう。増えるまで、みんなを待たせっぱなしにはできないし」
「僕も手伝うよ」
ユウが受付へ向かうと、ダンもあとに続いた。
その夜も、還らずの谷にはたくさんの笑い声が響いていた。
食堂では、元騎士が魔族の老人へ酒を勧め、元傭兵隊長がダンに昔の失敗談を聞かせている。
庭を歩く者もいれば、早々に部屋へ戻り、久しぶりに痛みのない眠りを迎える者もいた。
かつて剣を振るい、魔法を使い、誰かを守った人々が、今は自分のために湯へ浸かっている。
戦場へ戻るためではなく、これからの日々を少しでも穏やかに暮らすために、世界各地の元英雄たちは還らずの谷へ集まり始めていた。
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