奇跡の湯の効能
黄金の湯が誕生した翌朝、還らずの谷はいつも以上に早く目を覚ました。
夜のうちに源泉から流れ込んだ湯は、大浴場や露天風呂へ行き渡り、朝日を受けて淡い金色に輝いていた。
昨日までと同じ浴槽のはずなのに、立ち上る湯気に含まれる魔力まで変わったらしく、風に乗って漂ってくるだけで身体の奥がほんのり温かくなる。
前日に全魔力を使い切ったユウも、朝には自分で歩けるほどまで回復していた。
その隣を歩きながら、リーフェが呆れたように顔を覗き込む。
「……いくらなんでも、回復が早すぎない? 昨日はまともに歩けなかったのよ?」
「黄金の湯に入ったからかな」
「間違いなくそれでしょうね。あれだけ魔力を使い切って、一晩でここまで戻るなんて普通はあり得ないもの」
昨夜、地下から戻ったユウたちは、安全確認も兼ねて黄金の湯へ入っていた。
そのとき最初に分かったのが、強力な疲労回復と魔力回復の効能である。ほとんど空になっていたユウの魔力も、湯上がりにはわずかに戻り始め、眠っている間にさらに回復していた。
ダンも隣で肩を回しながら、感心したように息を吐いた。
「俺も昨日まで全身が痛かったのに、今朝はほとんど残ってねぇんだよな。何時間も大剣を振り回したあととは思えねぇ」
前線で瘴気の魔獣と戦い続けた身体には、相当な負担がかかっていた。
本来なら数日は痛みや疲労が残ってもおかしくないが、今朝は歩く足取りまで軽い。
その一方で、カヤは自分の尻尾を撫でながら嬉しそうに笑っていた。
「毛並みもすっごいよ! 昨日よりふわふわになってる!」
「それも効能なのか?」
ダンが振り返ると、カヤは胸を張った。
「重要な効能だよ! 尻尾の手入れって、けっこう大変なんだから」
ミナも自分の尻尾を確かめてから、静かに頷く。
「うん。大事」
「……分かったよ。俺が悪かった」
ダンが両手を上げると、ユウたちの間に笑いが広がった。
そんな穏やかな朝だったが、黄金の湯が自分たちの予想を超える力を持っていると分かったのは、それから間もなくのことだった。
きっかけとなったのは、谷へ何度も通っている一人の老冒険者である。
若い頃に負った傷が原因で右膝を悪くしており、やわらぎの湯へ通うようになってから痛みは軽くなったものの、杖を手放せずにいた。
その老人が、金色に変わった大浴場の湯を眺めながら、ユウへ声をかけてきた。
「話には聞いたが、本当に金色なんだな。入っても大丈夫なんだろう?」
「昨夜は僕たちも入りましたけど、特に問題はありませんでしたよ」
ダンがすぐにユウを見た。
「お前らを安全確認の基準にしていいのか?」
「でも、何も起きなかったよ?」
「お前らなら多少のことは平気そうだから言ってんだよ」
老冒険者は二人のやり取りに笑い、杖を置いてゆっくり湯へ入った。
肩まで浸かると、深く息を吐きながら目を細める。
「ああ……これはいいな。身体の芯まで温まる」
長年の冒険で凝り固まった肩や腰から、少しずつ力が抜けていく。
そこまでは、これまでのやわらぎの湯と大きく変わらなかった。
しかし、十分ほど経って湯から上がった老人は、杖へ手を伸ばそうとして、ふと動きを止めた。
「……おや?」
「どうしました?」
ユウが尋ねると、老人は答える代わりに右膝をゆっくり曲げた。
一度伸ばしてからもう一度曲げ、浴槽の縁に手を添えて軽く屈伸する。
周囲の視線が集まる中、老人は信じられないという顔で膝を押さえた。
「痛くないんだ」
「いつもの温泉でも、湯上がりは楽になってただろ?」
ダンの言葉に、老人は首を振った。
「そういうことじゃない。曲げたときの引っかかりまでなくなってる」
老人は杖を置いたまま、慎重に歩き始めた。
最初の数歩は足元を確かめるようだったが、やがて背筋が伸び、歩幅も広がっていく。
浴場の端で振り返ったときには、その顔に戸惑いと喜びが入り混じっていた。
「本当に治ってる……こんなふうに歩けたのは、何年ぶりだろうな」
老人の膝は、二十年以上前に魔物との戦いで砕かれたものだった。
治癒魔法で命こそ助かったものの、骨や筋肉には損傷が残り、それ以上の治療は難しいと言われていたという。
リーフェは事情を聞くと、老人に断ってから右膝の状態を調べた。
「損傷していた部分が、正常な状態に戻ってるわ」
「普通の治癒魔法じゃ治らなかったんでしょ?」
カヤが尋ねると、リーフェは頷いた。
「傷を負ってすぐなら治せても、損傷を残したまま身体が落ち着いてしまうと、そこから元へ戻すのは難しいの。長年経った古傷なら、なおさらね」
説明を聞いている間も、老人は膝を曲げ伸ばししていた。
やがてその手が止まり、ゆっくり目元へ上がる。
「もう山道は歩けないと思ってたんだがな……」
声を詰まらせた老人に、ユウたちはしばらく何も言えなかった。
老人がもう一度歩き始めるまで、ただその場で見守っていた。
ところが、黄金の湯がもたらした変化は、それだけでは終わらなかった。
昼頃、旅の途中で谷へ立ち寄った女性が、湯上がりの休憩所で突然泣き始めた。
同行していた夫が慌てて駆け寄ると、女性は左腕を差し出し、震える声で言った。
「見て……消えてるの」
その腕には、長年にわたって黒い紋様が浮かんでいたという。
魔物から受けた呪いで、命に関わるものではないが、定期的に激しい痛みを引き起こしていた。
専門の神官を頼っても症状を抑えることしかできず、夫婦は旅先でも治療の手掛かりを探していたのだ。
それが今は、紋様の跡さえ残っていなかった。
話を聞いて駆けつけたフィアは、女性の腕に手をかざし、慎重に魔力を調べた。
「呪いの魔力が見当たりません」
「一時的に封じられているだけじゃないんですか?」
夫が不安そうに尋ねる。フィアは改めて確認してから、穏やかに首を振った。
「少なくとも、今のお身体に呪いは残っていません。完全に浄化されています」
女性は夫の手を握り、何度も頷きながら涙を拭った。
夫もまた、紋様のあった腕を見つめたまま言葉を失っていた。
報告を受けたリーフェは、すぐにユウを源泉へ連れていった。
金色の湯へ魔法を向けながら、真剣な顔で口を開く。
「やっぱり、昨夜調べただけでは分からなかった効能があるわ」
「古傷だけじゃなくて、呪いまで解けるんだね」
「ええ。疲労や魔力を回復させるだけでは説明がつかない」
ついてきたダンも、源泉を覗き込んだ。
「どこまで治せるんだ?」
「まだ分からないわ。ただ、身体や魔力に残っている異常を取り除いて、安定した状態へ戻そうとする働きがあるみたい」
「そりゃ、ちゃんと調べた方がよさそうだな」
こうして谷では、黄金湯の効能を詳しく確かめることになった。
前線で傷を負った者や、以前から不調を抱えていた者に協力してもらい、入浴前後の状態を比べていく。
レインの肩に残っていた古傷は痛みも動かしにくさもなくなり、王国騎士の一人が長年悩まされていた腰痛も消えていた。
魔法事故で魔力経路を傷めた魔族兵は、久しぶりに滞りなく魔力を扱えるようになった。
獣人の旅人が幼い頃の怪我から抱えていた関節痛も改善し、呪詛や魔力汚染、瘴気に触れたことで残った心身の不調にも効果が確認された。
ただ、できることには限りがあるらしかった。
失われた腕が再び生えることはなく、身体が若返った者もいない。
生まれつきの特徴が変わる様子もなく、寿命に影響するかどうかは、今の調査では確かめようがなかった。
リーフェは結果を書き留めながら、ユウたちに説明した。
「身体や魔力に長く残っている異常を取り除き、安定した状態へ戻す。それが基本の効能だと思うわ。でも、病気や呪いなら何でも治ると決めつけるのは早い。まだ確かめられた例は少ないもの」
「それでも、すごいね」
ユウが素直に感心すると、ダンがその肩を掴んだ。
「お前が作った湯だぞ。もう少し自分の手柄だって顔をしろ」
「地下の仕組みがあったからだよ。勇者が残してくれた浄化炉もあるし」
「その仕組みを動かしたのがお前だろうが」
「みんなが守ってくれなかったら、そこまで行けなかったよ」
ダンは何か言いかけたものの、結局、苦笑して手を離した。
「まあ、それもそうだけどな」
そんな二人の隣で、カヤは別の問題に気づいていた。
「これ、噂が広まったら大変なことになるよ……」
その予想は、すぐに現実となった。
最初に話が広がったのは、冒険者の間だった。
還らずの谷で二十年来の古傷が治ったという話に、どんな神官にも解けなかった呪いが消えたという噂が加わった。
数日も経つ頃には、黄金に輝く奇跡の温泉があると各地で語られるようになっていた。
情報は冒険者ギルドから王都へ、商人たちを通じて遠くの街へと伝わっていく。
魔族の間でも魔王軍を通して広まり、天界分館を訪れる天使たちや、古竜たちの耳にまで届いた。
やがて受付には、問い合わせの紙が積み上がるようになった。
カヤはその束を前に、困り果てた顔で耳を伏せていた。
「……どうしよう。昨日より増えてる」
横から覗いたユウも、紙の多さに目を丸くする。
「こんなに届いたんだ」
「返事を書くのも追いつかないよ。みんな、いつ行けばいいか聞いてるの」
長年治らない病を抱えた者、呪いに苦しむ者、戦争で負った傷の後遺症に悩む元兵士、魔力障害を抱えた魔術師。
本人だけでなく、その家族や友人からの問い合わせも多かった。
中には、これまで受けてきた治療や症状を細かく書き、入浴だけでも試させてほしいと願う手紙もある。
ダンも何通かに目を通し、難しい顔になった。
「一度に全員来たら、谷の宿も浴場も足りなくなるぞ」
「分かってるけど……こんなのを読んだら、来ないでなんて言えないよ」
カヤの声を聞きながら、ユウは手紙の束を見つめた。
世界中から集まった怒りや悲しみを浄化し、その膨大な魔力を癒やしの力へ変えた黄金湯。
その誕生には、傷ついた誰もが休める場所を作りたいという、過去の勇者の願いがあった。
何百年もの時を経て届いた願いを、助けを求める人たちへつなげたい。
けれど、全員を一度に迎えれば、かえって満足に休んでもらえなくなる。
ユウは少し考えてから、口を開いた。
「来てもらう順番を決めよう。急いで湯に入った方がいい人から迎えられるように」
リーフェも頷いた。
「フィアにも相談しましょう。症状を確認して、重い怪我の後遺症や危険な呪いを抱えている人を優先すればいいと思う」
「普通の客にも、事情を説明しねぇとな」
ダンの言葉に、ユウは頷いた。
「うん。でも、治療が必要な人しか入れない温泉にはしたくないんだ」
カヤが顔を上げる。
「普通のお客さんも?」
「病気や怪我がなくても、疲れてる人はいるからね。勇者が作りたかったのも、傷ついた誰もが休める場所だったんでしょ?」
リーフェの表情が、少し柔らかくなった。
「そうね。身体の傷だけを見ていたわけじゃないはずだわ」
「だから、今は急ぐ人を優先して、落ち着いたら普通のお客さんにも入ってもらいたい。みんなが休める温泉にしよう」
ダンは金色の湯が流れる方へ目を向け、苦笑した。
「世界中で奇跡だ何だと騒がれてる湯に、いつか誰でも普通に入れるようになるのか」
「温泉だからね」
「お前ならそう言うと思ったよ」
その日の夕方、大浴場では黄金色の湯が静かに揺れていた。
長年杖を使っていた老冒険者は、湯上がりに庭まで歩き、帰り道でも何度か膝を確かめていた。
呪いが消えた女性は休憩所で夫と寄り添い、ときどき腕を見ては嬉しそうに笑っている。
魔力経路が正常に戻った魔族兵は、屋外で自分の手に小さな魔法の火を灯していた。
炎が揺らぐたび、以前のように消えてしまわないかと見守り、安定して燃え続けているのを確かめると、ほっとした顔で手を閉じた。
ユウはその様子を眺めてから、浴場へ向かう次の客に声をかけた。
「ゆっくり入っていってくださいね。湯上がりには、水も忘れずに」
奇跡と呼ばれるようになっても、迎えるときにかける言葉は変わらなかった。
疲れた者が訪れ、湯に浸かり、少し元気になって帰っていく。
ユウはこれからも、そんな場所としてこの谷を守っていきたかった。
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