閑話 勇者と古竜フェルザード
還らずの谷で暮らし始めてから、勇者は以前ほど剣を抜かなくなった。
魔物が入り込めば追い払い、危険な相手とは戦うこともあったが、毎日のように戦場を渡り歩いていた頃とは違う。
朝は源泉の様子を見て、崩れた石組みを直す。
森で食料を探し、夕方には湯に浸かる。
そんな日々を重ねるうちに、彼は少しずつ、勇者と呼ばれる前の感覚を取り戻していた。
ある日のことだった。
湯船の縁に腰を掛けていると、足元が大きく揺れた。
「……地震か?」
顔を上げた直後、二度目の揺れが来た。
続いて響いた音は、地面の下ではなく、谷の奥に連なる竜眠山脈の方角から届いていた。
森の鳥たちが一斉に飛び立ち、木々の間から魔物まで逃げ出してくる。
やがて、山を震わせるような咆哮が響いた。
勇者は湯船から立ち上がり、手早く服を着た。
「地震より面倒そうだな」
しばらく出番のなかった剣を腰に下げ、山脈へ向かった。
近づくにつれて、周囲の魔力は濃くなっていった。
並の魔物なら、その気配だけで逃げ出すだろう。
岩壁を越えた先で、彼は咆哮の主を見つけた。
黒い鱗に巨大な翼、そして黄金の瞳。
岩山の上に横たわる姿は、これまで戦ってきた竜とは比べものにならなかった。
遥かな時を生きる古竜が、首をもたげて彼を見下ろした。
『人間。ここから先は我が領域だ』
声は耳ではなく、直接頭の中へ響いた。
勇者は足を止めた。
「山を取りに来たわけじゃないよ」
『ならば去れ』
「谷まで揺れてるんだ。もう少し静かにしてくれないか?」
古竜の黄金の瞳が細くなった。
『……我に向かって、静かにしろと言ったのか?』
「言った。温泉の石組みが――」
最後まで言う前に、巨大な爪が振り下ろされた。
勇者が後方へ飛び退くと直前まで立っていた岩盤が砕け、土煙が斜面を覆う。
「いきなり殴るなよ!」
『無礼な人間に、これ以上の言葉は要らぬ』
「話し合いは?」
『我に話を聞かせたければ、相応の力を示せ』
勇者はしばらく古竜を見上げ、それから剣を抜いた。
「分かった。終わったら、ちゃんと聞けよ」
『できるものなら、な』
古竜が翼を広げた。
暴風が岩を削り、木々を揺らす。
口から放たれた炎は岩肌を溶かし、重力の魔法が勇者の足元を沈めた。
勇者は炎を剣で割り、魔法で重力場を押し返した。踏み込んだところへ爪が迫り、刀身で受け止めると、足元の岩が砕けた。
「重いな、お前!」
『我が爪を受けたか!』
「受けたけど、腕が痺れた!」
『次は、その腕吹き飛ばしてくれる!』
古竜は喉の奥で低く笑い、さらに力を込めた。
勇者は爪を逸らして横へ抜け、その腕に一太刀を入れた。
黒い鱗に傷が走り、古竜の目つきが変わる。
その後は、互いに手加減する余裕がなくなった。
勇者は炎を防ぎ、翼が巻き起こす風を抜け、巨体の動きを読んで剣を振った。
古竜も、人間の身体がそれほどの力に耐えることを知ると、次々と魔法を繰り出した。
一歩間違えれば命を落とす。
それでも勇者は、不思議と戦うことが嫌ではなかった。
背後に守る軍隊はいない。
王の命令も、誰かの復讐も関わっていない。
ただ目の前の相手と向き合い、自分の力を使っている。
魔王との戦い以来、久しくなかった感覚だった。
数時間後、二人は崩れた岩場で動きを止めた。
古竜の鱗には幾筋もの傷があり、勇者の服も裂けていた。
互いに呼吸を整えながら、なお相手を見据えている。
『まだ立つか』
「そっちこそ」
『当然だ』
勇者は剣を構え直しかけ、ふと手を下ろした。
「……もう、よくないか?」
『何がだ』
「俺は山を奪いたいわけじゃないし、お前も俺を食いたいわけじゃないだろ」
『人間を食らう趣味はない』
「なら、ここまで戦わなくてもよかったと思うんだけど」
古竜はしばらく黙っていた。
『貴様が我に、静かにしろと言った』
「それまだ言う!」
『当たり前だ!我は古竜ぞ!』
勇者は息を吐き、剣を鞘へ戻した。
「言い方は悪かったよ。でも、本当に谷まで揺れるんだ。温泉の石組みが崩れたら、直すのは俺なんだから」
『温泉?』
「谷で作ってる。今はそこで暮らしてるんだ」
古竜は怪訝そうに首を傾けた。
『貴様ほどの力を持ちながら、湯を掘っているのか』
「湯は最初からあったよ。入りやすくしてるだけ」
『……人間の国で勇者と呼ばれていた者は、貴様か?』
「知ってるのか?」
『魔王を倒すほどの人間が現れたという話は、聞いている』
「それなら俺だな」
古竜は勇者を見つめ、やがて低く喉を鳴らした。
威嚇かと思ったが、違った。
『魔王を倒した男が、こんな谷で湯を整えているとはな!』
笑い声が岩山に響いた。
勇者は肩をすくめた。
「疲れたんだよ。ずっと戦ってたから、しばらく休もうと思って」
その言葉を聞くと、古竜の笑いが少し収まった。
『それだけの力があっても、疲れるものか』
「身体は丈夫でも、嫌になることくらいある」
『そうか』
今度は、笑わなかった。
勇者は古竜の傷を見上げた。
深くはなかったが、互いに随分と暴れたものだった。
「そういえば、名前を聞いてなかったな」
『フェルザードだ』
「じゃあ、フェルザード。温泉に入っていくか?」
黄金の瞳が、再び彼を捉えた。
『何?』
「俺も帰ったら入るつもりなんだ。お前も、少し休めばいい」
『我を誰だと思っている』
「フェルザード」
『そういう意味ではない』
勇者が笑うと、フェルザードは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
その日は、誘いを断った。
数日後、勇者が湯船の石組みを直していると、頭上に大きな影が差した。
見上げると、黒い古竜が谷へ降りてきていた。
「来たのか」
『近くを通っただけだ』
「山脈から、結構離れてるけどな」
『我にとっては近い』
「温泉に入る?」
『そのために来たわけではない』
そう言いながら、帰ろうとはしなかった。
勇者は少し考え、源泉に近い広い岩場へ向かった。
「今の湯船じゃ、お前は入れないな」
『当然だ』
「なら、ここを使うか」
彼が岩を動かし始めると、フェルザードは首を下げた。
『何をしている』
「お前が入れる湯船を作る」
『入るとは言っていないぞ』
「嫌なら作らないけど」
フェルザードは黙った。
勇者は口元を緩め、作業を続けた。
岩を組み、底を整え、源泉から湯を引く。
数時間かけて、古竜が身を沈められるほどの岩風呂ができあがった。
湯へ手を入れた勇者が、少し顔をしかめる。
「まだ熱いな。冷たい水を足すか」
『我を人間と同じ基準で考えるな』
「じゃあ、そのまま入ってみてくれ」
フェルザードは湯面を見下ろし、それからゆっくりと身体を沈めた。
大きく溢れた湯が、勇者の足元を洗った。
『……浅い』
「最初から文句かよ」
『尾を伸ばす場所も足りぬ』
「次に広げておく。湯加減は?」
フェルザードはしばらく答えなかった。
翼を畳み、首を低くして、ようやく呟く。
『悪くない』
「それならよかった」
勇者が笑うと、古竜は目を閉じた。
それからフェルザードは、ときどき谷を訪れるようになった。
初めは近くを通ったと言い、次には山脈を見回るついでだと言った。
そのうち理由を告げず、岩風呂の前へ降りてくるようになった。
勇者は訪問に合わせて酒を用意し、フェルザードは山で獲った魔獣を持ってきた。
勇者が肉を焼いている間に、湯加減を巡って言い合うこともあった。
食事が済むと、それぞれの湯船に入り、取り留めのない話をした。
勇者は日本での暮らしや、この世界で経験した戦争について語った。
フェルザードは何百年も前の森や、今では失われた国の話を聞かせた。
返事に困る話をしても、古竜は無理に慰めようとはしなかった。
ただ聞き、時には「人間は厄介だな」と呟いた。
それが、勇者には気楽だった。
やがて勇者が地下に施設を作り始めた時、その計画を最初に聞かされたのもフェルザードだった。
『世界中の瘴気を、この谷へ集めるだと?』
「地脈を使って、少しずつな。源泉の魔力には、瘴気を落ち着かせる性質がある。それを利用できないかと思ってる」
『集めるだけでは、いずれ溢れるぞ』
「だから、整えてから戻す仕組みも作る」
フェルザードは、岩に刻まれた設計を眺めた。
『貴様がいなくなったあと、誰が調整する』
勇者はしばらく黙り、それから答えた。
「そこは、まだ考えてる」
『考えなしに始めたのか』
「始めないと、分からないこともあるんだよ」
古竜は呆れたように息を吐いた。
それでも、計画そのものを否定はしなかった。
勇者が何をしようとしているのかは、長く湯を共にするうちに分かっていた。
世界から争いをなくせなくても、その争いを広げるものを減らしたい。
剣では届かなかったところへ、別の方法で手を伸ばそうとしている。
フェルザードは時折工事を見に来て、地脈について知ることを話した。
勇者はそれを聞き、何度も設計を変えた。
完成が近づいた頃、勇者は地下への入口で手を止めた。
「もし俺がいなくなったあと、この谷に誰か来たらさ」
『誰かとは?』
「温泉が好きで、水の扱いが上手い奴。俺が残したものを見て、もっといい湯にしようと思うような奴」
『そんな具体的な人間が都合よく現れると思うのか』
「分からない。でも、そんな奴が来たら見てやってくれないか?」
勇者は笑って、谷に立ち上る湯気を見た。
「俺より水のことが分かる奴なら、残した仕事も何とかしてくれるかもしれないから」
『我に、その人間の世話をしろと?』
「無理にとは言わないよ。温泉に入りに来た時、気にかけてくれるだけでもいい」
フェルザードは、長い間黙っていた。
『……覚えておこう』
「ありがとう。頼むよ、友達」
黄金の瞳が細くなった。
『勝手に友と呼ぶな』
「違うのか?」
フェルザードは答えず、湯船の方へ首を向けた。
『今日の湯は、もう入れるのだろうな』
勇者は笑った。
「ああ。今日は少し熱めにしてある」
それから、長い年月が流れた。
勇者はいなくなり、谷から人の気配も消えた。
温泉は湧き続け、地下では勇者の残した仕組みが、静かに世界の瘴気を受け止めていた。
フェルザードは、ときどき谷を訪れた。
岩風呂の縁に草が生え、湯樋が崩れ、道が森へ埋もれていく。
以前なら文句を言えば、勇者が笑いながら直しに来た。
今は呼んでも、返事はなかった。
数十年の時が流れ、さらに長い時が過ぎた。
あの男が待っていたような人間は、本当に現れるのだろうか。
そう思いながらも、フェルザードは谷を忘れなかった。
ある日、森の向こうに新しい人の気配を見つけた。
黒髪の青年だった。
強い武器を持っているわけでも、圧倒的な魔力をまとっているわけでもない。
疲れた様子で谷へ入った青年は、湯気を見つけると足を止めた。
源泉へ近づき、湯に手を入れる。
その顔に、嬉しそうな笑みが浮かんだ。
やがて青年が何かをすると、水を巡る魔力が僅かに変わった。
湯を確かめ、また少し調整している。
フェルザードは、遠くからその様子を見ていた。
温泉が好きで、水の扱いが上手い奴。
何百年も前に聞いた、あの言葉がよみがえった。
青年は源泉の周囲を見回し、石を動かし始めた。
入りやすい場所を作ろうとしているらしい。
フェルザードはしばらく黙っていた。
岩を積む姿が、かつてここで暮らしていた男と重なる。
古竜は目を細め、誰にも聞こえないほど小さく笑った。
「……本当に来たぞ、友よ」
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