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異世界温泉宿 ~使えないスキルと言われた俺、秘境の谷で温泉を作ったら人も魔物も通う場所になった~  作者: 堺久遠


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閑話 昔の勇者の物語

目を覚ました時、彼は見知らぬ森の中にいた。


ついさっきまで、日本にいたはずだった。


夜遅くまで仕事をして、帰り道にコンビニへ寄り、疲れた頭で明日の予定を考えていたことを覚えている。


それなのに、今は名前も分からない木々に囲まれ、聞いたことのない鳥の声が頭上から降ってきていた。


最初は夢だと思った。


けれど頬をつねれば痛く、時間が経つにつれて腹も減ってくる。


森の奥から巨大な狼が現れ、自分へ牙を剥いた瞬間には、夢だと思い込む余裕さえなくなった。


「……嘘だろ」


後ずさりしながら、反射的に手を伸ばした。


その直後、身体の奥で何かが弾けた。


飛びかかってきた狼が吹き飛び、何本もの大木をへし折って止まった。


地面を抉った跡を見ても、自分が何をしたのか分からなかった。


ただ、目の前に迫るものを遠ざけたいと思っただけだった。


この世界で、自分が異常な力を持っていると知ったのは、それからのことだった。


剣を握れば、教わったことのない動きが自然にできた。


魔法は一度見れば使い方が分かり、身体能力も魔力量も、傷からの回復さえ普通ではなかった。


最初は、助かったと思った。


見知らぬ森を抜け、魔物から身を守り、人の暮らす場所へ辿り着くためには、その力が必要だったからだ。


やがて辿り着いた小さな村で、彼はこの世界の暮らしを知った。


魔物に畑を荒らされ、盗賊に食料を奪われる。


国同士で争いが起きれば、村の若者が兵として連れていかれた。


少し離れた地域では、人間と魔族が何十年も戦争を続けているという。


彼の力を見た村人が、遠慮がちに頼んできた。


「強いなら、助けてくれないか」


困っているなら、できることをしようと思った。


村を襲う魔物を倒し、街道を塞ぐ盗賊を追い払った。


感謝されると嬉しかったし、自分の居場所ができたような気もした。


町へ出て冒険者になってからも、同じように依頼を受けた。


普通なら十人以上で挑む魔物を一人で倒し、危険だと避けられていた道を通れるようにした。


そうしているうちに、噂が広がっていった。


異常なほど強い青年がいる。


どんな魔物でも倒し、難しい依頼にも失敗しない。


ある日、彼は勇者と呼ばれた。


最初にその呼び名を聞いた時は、思わず笑った。


「いや、俺、そんな大したもんじゃないから」


本気でそう思っていた。


少し前まで、仕事に追われ、翌朝のことを考えるだけでため息をついていた人間なのだ。


けれど、相手は笑わなかった。


「あなたほどの方が勇者でなくて、誰が勇者なのです」


やがて王都へ招かれ、王に会い、豪華な装備を与えられた。


そこで、魔王軍との戦争へ参加してほしいと頼まれた。


彼は引き受けた。


戦争が終われば、畑を荒らされる村も、家族を兵に取られる人も減るだろうと思ったからだ。


最初の戦場では、千を超える魔族兵と戦った。


敵は強く、恐ろしくもあった。


それでも、彼は勝った。次の戦場では砦を落とし、その次には魔王軍の将軍を倒した。


戦うたびに新しい魔法を覚え、剣の扱いにも慣れていった。


強い敵を前にすると、それまでできなかったことまでできるようになった。


いつしか軍隊は、彼の到着を待って動くようになっていた。


「勇者様が来たぞ!」


その声だけで味方は顔を上げ、敵は警戒して後退した。


いつしか彼の生活は戦場を渡り歩くだけになっていた。


北で戦った翌日に西へ向かい、そこで勝てば、今度は南から助けを求められる。


眠っている時間より、剣を握っている時間の方が長くなった。


それでも身体は動いた。


傷つけば治り、疲れても少し休めば回復する。


魔力も、次の戦いまでには戻っていた。


その異常な丈夫さを、周囲だけでなく、彼自身も次第に当たり前だと思うようになった。


「勇者様なら、これくらいは」


そう言われれば、「何とかする」と答えた。


千の敵を倒せたなら、一万でも試した。


巨大な魔獣が現れれば斬り、空から襲われれば魔法で撃ち落とした。


山に立てこもった敵を追い詰めるため、地形を変えるほどの力を使ったこともある。


それだけのことができれば、救える人も増えるはずだった。


戦争の途中で、人間側の一国が裏切ったことがあった。


魔族と秘密裏に手を組み、隣国へ攻め込もうとしていた。


その知らせを受けた彼は、衝突寸前の両軍の間へ一人で立った。


「やめろ。これ以上、戦うな」


呼びかけても、兵は止まらなかった。


彼は剣を振った。


誰の命も奪わず、両軍の武器だけを壊した。剣や槍が砕け、弓の弦が切れ、魔導具も力を失った。


数万人の兵士が、使い物にならなくなった武器を手に立ち尽くした。


その日の戦いは止まった。


「さすが勇者様だ」


安堵した声が上がり、彼を讃える者もいた。


けれど彼は、向かい合う兵士たちの顔を見ていた。


武器を失っても、互いを睨む目は変わっていなかった。


家族を殺された者、故郷を焼かれた者、友人を失った者がいる。


戦えなくなったからといって、相手への憎しみまでなくなるわけではなかった。


彼は折れた剣を握る兵士の手が、震えていることに気づいた。


「……これじゃ、終わらないのか」


それまで、敵を倒して戦争を止めれば、人々は安心して暮らせるようになると思っていた。


だが、一つの争いが収まると、別の場所で争いが始まった。


魔王軍の将軍を倒せば、その将軍を慕っていた者が復讐を誓った。


街を守り切っても、救援が間に合わなかった隣村の者から責められることがあった。


「どうして、もっと早く来てくれなかった」


その問いに、彼は答えられなかった。


どれほど速く走れても、遠くまで魔法を届かせられても、世界中のすべての場所へ同時には行けない。


それでも、助けを求める声は途切れなかった。


「勇者様なら救えます」


「あなたが来てくだされば、きっと勝てる」


最初は嬉しかった言葉が、少しずつ重くなっていった。


失敗すれば、誰かが死ぬ。


間に合わなければ、町が焼かれる。


自分を待っている人がいると思うと、休む理由を見つけられなかった。


『今日はもう疲れた』


その一言を、口にする前に飲み込むようになった。


ある戦いのあと、彼は一人で野営していた。


剣を地面へ置き、焚き火の前に座った。


傷はすでに塞がり明日の朝には、魔力も十分に戻っているだろう。


けれど、次の戦場へ向かうことを考えると、立ち上がる気になれなかった。


「……俺、何してるんだろうな」


焚き火へ呟いても、返事はなかった。


誰かと話したかった。


何でもないことを話し、疲れたとこぼして、それなら今日は寝ようと言ってもらいたかった。


だが、誰かが来れば、また大丈夫だと答えてしまう気がした。


次も勝つ、任せておけと、相手を安心させようとしてしまう。


それが嫌で、一人になった。


一人になれば、今度は寂しかった。


「面倒だな、俺も」


自分に向けて笑い、火へ小枝を足した。


翌朝には立ち上がり、また戦場へ向かった。


やがて、魔王との決戦が始まった。


何日続いたのか、彼にもはっきりとは分からなかった。


山が崩れ、川の流れが変わり、空が魔力に覆われるほどの戦いだった。


最後には、彼が勝った。


魔王は倒れ、世界を揺るがした大戦は終わった。


王都へ帰ると、人々は泣いて喜んだ。


花を投げる者がいて、酒が振る舞われ、街のあちこちから勇者を讃える声が聞こえてきた。


彼も笑った。


これで、人々は安心して眠れる。


自分も剣を置いていいのだと思った。


けれど、大戦が終わっても、争いはなくならなかった。


魔王を失った魔族の中には、人間への憎しみを募らせる者がいた。


人間側でも、この機会に魔族を滅ぼすべきだと叫ぶ者が現れた。


戦争で領地を失った貴族が隣国を責めはじめた。


帰ってこなかった家族を待つ人々は、誰へ向ければいいのか分からない怒りを抱えていた。


彼は各地を訪れるうちに、もう一つの異変に気づいた。


人々の感情が、周囲の魔力へ染み込んでいた。


怒りや悲しみが強い場所では、空気にも地脈にも濁りが生まれる。


それが溜まると魔物が狂い、人の心まで荒れ、新しい争いを引き起こしていた。


瘴気と呼ばれるものの成り立ちを知ってからは、ただ目の前の敵を倒すだけでは済まなくなった。


「世界を救ったはずなのにな」


誰もいない場所で、彼は剣を見下ろした。


世界最強と呼ばれる剣だった。


どんな魔物も斬れ、頑丈な城壁さえ壊せる。


それでも、家族を失った人の悲しみを軽くすることはできなかった。


憎しみを抱く人に剣を向けても、その心が安らぐわけではない。


自分の疲れさえ、どうしていいのか分からなかった。


その頃から、彼は戦場へ出る回数を減らし始めた。


代わりに世界を旅し、地脈を調べ、魔力の流れを追った。


瘴気がどこに溜まり、どこへ流れているのかを確かめながら、荒れた魔力を落ち着かせる方法を探した。


争いを一度に終わらせることはできなくても、それを広げるものを減らすことならできるかもしれない。


だが、答えはなかなか見つからなかった。


ある時は瘴気を弾くだけで、別の場所へ追いやってしまう。


強い魔法を使えば周囲の魔力まで乱れ、かえって地脈を傷つけることもあった。


そんなある日、彼は深い森に囲まれた谷へ入り込んだ。


人々が恐れて近づかず、一度足を踏み入れれば戻れないと噂される場所だった。


還らずの谷と呼ばれていると聞いていたが、彼を遠ざけるほどの理由にはならなかった。


人の気配がないことに、むしろ少し安心した。


谷を歩いていると、岩の向こうから細い湯気が上がっていた。


近づけば、隙間から温かな水が湧き出している。


小さな窪みに溜まった湯は澄み、縁を越えた分が静かに流れていた。


彼はしゃがみ、指先を浸した。


熱すぎるほどではない。冷えた手に温かさが染み込み、知らず知らずのうちに息が漏れた。


周囲の魔力も穏やかだった。


地脈から流れてきた微かな濁りが、湯のそばでは薄れているように感じられる。


何か理由があるのかもしれない。


そう思ったが、すぐに調べ始める気にはならなかった。


もう少し、この温かさに触れていたかった。


彼は剣を地面へ置いた。


留め具を外し、肩から鎧を下ろす。


誰かに呼ばれる気がして一度だけ周囲を見たが、聞こえるのは水の流れる音と、木々の葉擦れだけだった。


今日は、どこへも行かなくていい。


そう思えたのが、何年ぶりなのか分からなかった。


最後の鎧を外すと、肩が思っていた以上に軽くなった。


彼は岩のそばへ腰を下ろし、もう一度、温かな湯へ手を入れた。

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