重ねられた手
地下大浴場遺跡の最深部は、ようやく静けさを取り戻していた。
浄化炉の中には青白い光が満ち、魔導環が一定の速さで回っている。
変換された魔力は源泉へ、そして地脈へと送り戻され、床を伝っていた振動も、耳を刺すような警告音も止まっていた。
そのすぐそばで、ユウはダンに背中を支えられたまま座っていた。
カヤに飲ませてもらった魔力回復薬の効果が少しずつ身体の奥へ広がっていく。
それでも手足は重く、目を開けているだけで精いっぱいだった。
リーフェはユウの状態をもう一度確かめ、杖を下ろした。
「魔力は戻り始めているわ。でも、しばらくは動かないで。ほとんど使い切っていたんだから」
「そんなに……減ってたんだ」
「そんなに、じゃねぇよ。途中で声をかけても、ろくに返事がなかったぞ」
ダンの声には、いつもの呆れだけでなく、まだ心配が残っていた。
ユウは顔を上げようとしたが、うまく力が入らず、背中を預け直した。
「ごめん。流れを繋ぐことばかり考えてた」
「繋がったからよかったけどな。次は、こっちの声もちゃんと聞け」
「うん」
カヤが空になった瓶を鞄へしまった。
「顔色もまだ悪いし、もう少し休んでから戻ろう。回復薬はまだあるから、必要だったら言ってね」
ユウは頷き、浄化コアへ目を向けた。
亀裂の残る結晶には、澄んだ光が宿っている。
自分が手を離したあとも温泉水は流れ続け、炉は安定した状態を保っていた。
「ちゃんと循環してるんだね」
「ええ。もう、あなたが調整を続けなくても大丈夫よ」
リーフェが制御盤を確認した。
『浄化コア負荷率――ゼロ』
『蓄積槽内瘴気――浄化完了』
『高純度源泉成分――正常還流』
『世界循環系統――安定』
どこにも警告は出ていない。
それを聞いたユウは、ようやく長く息を吐いた。
「よかった……」
ミナは、その隣でずっと手を握っていた。
コアへ触れる時から離さずにいた手が、今はユウの膝の上に重ねられている。
伏せられた耳はまだ上がらず、ユウが少し動くたびに、その顔を確かめていた。
「ミナ、もう大丈夫だよ」
そう言っても、握る力は緩まなかった。
「……うん」
返事はあったが、声は小さかった。
ユウは握られた手を見てから、ミナへ顔を向けた。
「怖かった?」
ミナはしばらく黙っていた。やがて、俯いたまま頷く。
「呼んでも、返事しなくなったから」
ユウは言葉を失った。
あの時、ミナの声は聞こえていた。
ダンが身体を支え、リーフェが状態を見てくれていることも分かっていたつもりだった。
けれど、瘴気の流れを追うことに集中するうちに、周りへ応える余裕をなくしていた。
ミナにとっては、そばにいるユウが、手の届かないところへ行ってしまったように感じられたのかもしれない。
「手を離した方がいいのか、続けても大丈夫なのか、分からなかった」
ミナはゆっくりと言葉を続けた。
「ユウは、まだ残ってるって言った。でも、そのあと何も言わなくなったから……」
握る手に、また力が入った。
ユウはその手を見つめた。
浄化が終わるところまで、あと少しだった。
流れを繋いでしまえば、きっと大丈夫だと思った。
だから残った魔力を注ぎ、最後の調整だけを考えていた。
その間、そばにいる仲間が何を見て、どんな気持ちで待っているのかまでは考えられていなかった。
「ごめん。心配させたね」
ミナは顔を上げた。
銀色の瞳が、まっすぐユウを見ている。
「一人で、全部持たなくていいよ」
最深部に、浄化炉の低い稼働音が響いた。
ダンもカヤも、すぐには言葉を挟まなかった。
ユウは、過去の勇者の記録を思い出していた。
強くなれば、もっと多くの人を守れる。
そう考えて力を求め、頼られるままに戦い続けた勇者は、最後に自分が休める場所を欲しがった。
ユウは、自分をその勇者と同じだとは思っていなかった。
剣も魔法も、世界を救った人の力には遠く及ばない。
それでも今回、自分にしか調整できないと思った途端、どこまで続けられるかを自分だけで決めようとしていた。
手を貸してもらっていながら、やめるかどうかを仲間と相談する余地までなくしていたのだ。
「頼ってるつもりだったんだけどな」
ユウが呟くと、リーフェがそばへ来た。
「防護も、流入を抑えることも、任せてくれたわ。それは助かった。でも、あなたの中で何が起きているかは、私たちにも全部は分からないの」
「うん」
「だから、苦しい時は教えてほしい。続けられるかどうかを判断するのも、一緒にやらせて」
ユウは小さく頷いた。
カヤも隣にしゃがんだ。
「何か頼まれるのはいいんだよ。薬を取ってくるとか、物を運ぶとかなら、いくらでもやる。でも、倒れるまで黙っていられるのは困る」
「倒れるつもりはなかったんだけど……」
「分かってる。でも、つもりがなくても倒れかけたでしょ」
その通りだったので、ユウは言い返せなかった。
ダンが、支えている背中を軽く叩いた。
「お前にしかできねぇ仕事があるのは分かった。だからって、お前の面倒までお前一人で見なくていいんだよ」
ユウは四人の顔を見た。
ここまで一緒に来てくれた仲間たちだった。瘴気の中でも離れず、危険だと分かっていてもそばに残り、自分が力を使えるよう支えてくれた。
浄化炉を動かしたのは【水質変化】でも、ここまで辿り着けたのは、その力だけではない。
「……ありがとう」
ユウが言うと、ミナは重ねた手を少し引き寄せた。
「次は、ちゃんと言ってね」
「うん。苦しい時も、休みたい時も言うよ」
「今は?」
ユウは一瞬考え、それから素直に答えた。
「疲れた。まだ、立てそうにない」
ミナの耳が、ほんの少し持ち上がった。
「じゃあ、もう少し座ってよう」
「ああ。急いで歩かなくてもいい」
ダンが言い、ユウの背中を支える位置を直した。
カヤも鞄を脇へ置き、隣に腰を下ろした。
「私も休憩。地下を歩き回って、足が疲れちゃった」
「私も、少し魔力を使いすぎたわね」
リーフェは最後に制御盤を確かめてから、皆のそばへ座った。
ユウだけが休むのではなく、五人で浄化炉の穏やかな音を聞いていた。
しばらく前まで、ここには立っているだけで胸が苦しくなるほどの瘴気が満ちていた。
今は呼吸がしやすく、源泉の温かさが足元から伝わってくる。
カヤが大きく伸びをした。
「帰ったら、お腹いっぱい食べたいな」
「俺もだ。地下に入ってから、ずいぶん長かった気がする」
ダンが頷くと、ミナはユウの顔を覗き込んだ。
「ユウも、食べられそう?」
「もう少し休んだら。それから温泉に入りたい」
「やっぱり、そこへ戻るのね」
リーフェが笑った。
ユウは少し不思議そうに顔を向けた。
「疲れてるんだから、温泉でしょ?」
「まあ、そうなんだけどな」
ダンは呆れたように言いながらも、笑っていた。
「今度は自分で湯を調整し始めるなよ。今日は客として入れ」
「それもいいね」
「いいね、じゃなくて、そうするんだ」
カヤがすかさず頷いた。
「案内は私とミナでやるから。ユウは休む係ね」
ミナも、手を握ったまま頷いた。
「今日は、ユウが休む日」
ユウは四人を見回し、ようやく肩の力を抜いた。
「分かった。任せるよ」
その言葉を聞いて、ミナの耳が少しだけ起きた。
やがて手足の重さが和らいでくると、五人はゆっくり帰る準備を始めた。
ダンに手を借りて立ち上がったユウは、まだ足元が頼りなかった。
ダンが片側で身体を支え、反対側ではミナが手を握ったまま歩幅を合わせる。
「歩けるか?」
「うん。ゆっくりなら」
「きつくなったら、すぐ言えよ」
「分かった」
今度は、曖昧な返事をしなかった。
カヤが先に通路の様子を確かめ、リーフェが最後に浄化炉を振り返った。
制御盤には正常を示す表示が並び、青白い光が途切れることなく配管へ流れている。
もう、ここに誰かが残って支え続ける必要はなかった。
「行きましょう」
リーフェの声に、ユウも頷いた。
歩き始めると、ミナの手が僅かに動いた。
ユウは自分から握り直し、隣を見た。
「帰ったら、ちゃんと休むよ」
「うん。一緒に帰ろう」
谷では、皆が待っている。
湯を沸かし、食事を作り、戻ってくる人を迎える場所がある。
ユウが一人で作った場所ではなかった。
温泉を整える自分の隣で、仲間たちが働き、困った時には手を貸し、少しずつ帰れる場所にしてくれたのだ。
今は、その手を借りて帰ればいい。
ユウはダンに身体を預け、ミナの手を握りながら、地上へ続く通路をゆっくりと歩いていった。
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