限界突破の水質変化
浄化コアの負荷率が百パーセントを下回り、最深部を揺らしていた振動はわずかに弱まっていた。
けれど、それで危機が去ったわけではなかった。
『浄化コア負荷率――九十九・八パーセント』
制御盤に浮かぶ数値は、依然として限界に近い。
蓄積槽には何百年分もの瘴気が残されており、流れ込んでくる量も減ってはいなかった。
リーフェは表示を確かめながら眉を寄せた。
「持ち直したけど、このまま続けるのは難しいわね」
「減ってるなら、ゆっくり処理すればいいんじゃないか?」
ダンが尋ねると、リーフェは別の数値を指した。
「蓄積槽から押し寄せる圧力が、まだ高すぎるの。今はユウが流れ込む分を変換して、どうにか均衡を保っているだけなのよ」
カヤが制御盤を覗き込んだ。
「じゃあ、ユウが止めたら?」
「処理が追いつかなくなって、また百を超えると思う」
「休憩もできねぇじゃねぇか」
ダンの言葉通り、ユウは源泉側の制御管に手を当て続けていた。
瘴気の状態を読み取り、それに合うよう温泉水の性質を変え、荒れた魔力を安定した源泉成分へ変換する。
流れを途切れさせないよう調整を重ねているうちに、額には汗が浮かび、呼吸も少しずつ乱れていた。
ミナが顔を覗き込む。
「ユウ、疲れてる」
「まだ大丈夫だよ」
「さっきも、そう言ってた」
「……ダンみたいなことを言うね」
「今のはミナが正しいぞ」
すぐに返したダンに、ユウは苦笑した。
自分でも、魔力がかなり減っていることは分かっていた。
普段なら、一つの浴槽や源泉を調整しても、これほど消耗することはない。
しかし今は、浄化コアだけを相手にしているわけではなかった。
蓄積槽から瘴気が流れ込み、源泉から温泉水が送られ、変換された魔力が循環経路へ戻っていく。
その巨大な流れに合わせて、絶えず調整を続けなければならない。
「ユウ、一度手を離して」
リーフェが声をかけた。
「私が少しだけ流入を抑えるから、その間に回復薬を飲んで休んだ方がいいわ」
「でも、処理は止まるよね」
「数分なら持たせる」
「その間に負荷が上がったら、コアにまた亀裂が入るかもしれない」
リーフェは口を閉じた。
今も結晶には深い亀裂が残っており、どこまで耐えられるか分からない。
それでも、ユウを消耗させ続けるわけにはいかなかった。
「だからって、倒れるまでやるのは駄目だからね」
カヤが強い口調で言った。
「分かってるよ」
「分かってるなら、休む方法も考えて」
ユウが返事に迷っていると、ダンが低い声で続けた。
「お前が動けなくなったら、結局こいつも止まるんだろ。だったら、自分のことも勘定に入れろ」
その言葉に、ユウは一瞬黙った。
過去の勇者の記録が頭をよぎる。
誰かを救うために強くなり、頼られるままに力を使い続け、最後には自分が休める場所を求めた人。
その願いを知ったばかりなのに、自分も一人で抱え込もうとしていた。
「……そうだね」
ユウは息を整えた。
「どうすれば止めずに済むか、一緒に考えてほしい」
「ああ。それでいい」
ダンが頷き、リーフェも制御盤へ向き直った。
だが、その直後、浄化炉から警告音が響いた。
『蓄積槽内部圧力上昇』
『流入量増加』
『浄化コア負荷率――百・一パーセント』
「また超えた!」
リーフェの声に、皆が表示を見た。
ユウはまだ手を離していない。それでも数値は短い間隔で上がり、103、106へと変わっていく。
「なんで急に増えるの!?」
カヤが叫ぶと、リーフェは流入経路の表示を追った。
「回復した経路から、瘴気がまとめて流れ込んでいるわ。途中で滞っていた分が、ここまで届き始めたのよ」
コアの内部では、薄くなっていた黒い渦が再び濃さを増していた。亀裂の奥から漏れる青白い光が押し込められ、低い振動が床へ伝わってくる。
「流入を止められねぇのか?」
「抑えることはできても、完全に閉じたら蓄積槽側が持たない!」
リーフェが答えた時、結晶に新たな亀裂が走った。
ミナがユウの服を掴んだ。
「ユウ……」
「うん。分かってる」
流れ込む瘴気に合わせて温泉水を調整するだけでは、もう間に合わない。
ユウは、炉の中央に浮かぶコアを見た。
「コアに直接触れたら、中を巡っている温泉水まで届くかな」
リーフェが顔を上げた。
「直接、調整するつもり?」
「今は源泉側から少しずつ合わせているけど、コアの中まで力を広げられれば、溜まっている分にも一度に働きかけられるかもしれない」
「待て。あそこに近づくだけで、さっきも気分がおかしくなったんだぞ」
ダンがすぐに口を挟んだ。
リーフェも険しい顔で頷く。
「触れれば、瘴気の影響をもっと強く受けるはずよ。必要な魔力量も、今より増えるかもしれない」
「でも、流れを追いかけて調整し続けるより、全体を合わせた方が早いと思うんだ」
ユウは管に置いた手へ意識を戻した。
中で何が起きているのかは、もう分かり始めている。
温泉水の性質が合えば瘴気はほどけ、安定した魔力へ戻る。
その変化を、もっと広い範囲へ届けられればいい。
『浄化コア負荷率――百一・二パーセント』
警告音が響く中、ミナがユウの空いている手を握った。
「一人でやらないでね」
「うん。防護も、流れを見るのも、みんなにお願いしたい」
リーフェはコアと制御盤を見比べ、杖を握り直した。
「私が精神防護をかける。流入もできる限り抑えるわ。意識が引っ張られそうになったら、すぐに教えて」
「分かった」
「俺はお前のそばにつく。続けられないと思ったら、引き離すからな」
ダンの言葉にも、ユウは頷いた。
カヤは鞄から魔力回復薬を取り出し、栓を抜いた。
「まず、これを飲んで。手は離さなくていいから」
差し出された瓶から回復薬を飲むと、ユウの中へ少しずつ魔力が戻ってきた。
カヤが瓶をしまう間に、リーフェは防護魔法を重ね、コアへ向かう足場を確かめる。
「準備できたわ。移るなら今よ」
ユウは源泉管から手を離した。
それだけで適合率が下がり始め、炉の内側を黒い光が覆っていく。
時間はなかった。ユウは仲間とともに制御部の足場を進み、巨大な結晶へ近づいた。
一歩進むごとに、胸の奥へ重たい感情が押し寄せてきた。
理由のない恐怖が湧き、誰かを責めたい気持ちが込み上げる。
リーフェの防護があっても、完全には遮れない。
ユウは握られているミナの手と、すぐ後ろにいるダンの気配を確かめた。
これは自分一人の感情ではない。そう意識しながら、亀裂の走る結晶へ手を伸ばす。
「やるよ」
指先が触れた瞬間、視界が黒く染まった。
膨大な魔力とともに、幾重にも重なった感情が押し寄せてくる。
泣き声や怒鳴り声を聞いた気がしたが、何を言っているのかまでは分からなかった。
失った悲しみも、奪われた怒りも、逃げ場のない恐怖も、区別できないほど混ざり合っている。
「ユウ!」
ミナの声が聞こえた。
その声を頼りに、ユウは意識を繋ぎ止めた。
流れ込む感情を一つずつ理解しようとすれば、呑み込まれてしまう。
今、確かめるべきなのは、それらに絡みついている魔力の状態だった。
温泉を整える時と同じように、乱れの強い場所を探す。
熱を持ちすぎた部分を和らげ、滞った流れをほどき、源泉の穏やかな魔力が馴染むように変えていく。
「……中まで、届いて」
ユウは【水質変化】の力を広げた。
コアに触れた一点が青白く輝き、その光が内部を巡る温泉水へ移っていく。
亀裂に沿って細い光が伸び、黒く濁った結晶を少しずつ照らし始めた。
「ユウ、魔力の減り方が速いわ!」
リーフェの声は聞こえていた。
けれど、今手を離せば、せっかく掴んだ流れを失ってしまう。
ユウは呼吸を整え、力を注ぐ範囲をさらに広げた。
『源泉魔力適合率――百パーセント』
制御盤が明るく輝いた。
「百になった!」
カヤが声を上げる。
しかし表示はそれで終わらず、続けて新たな文字が浮かび上がった。
『調整対象領域――拡大』
『循環系統への干渉を確認』
リーフェは魔力の流れを探り、息を呑んだ。
「コアの外まで……ユウの力が広がっているわ」
その時、ユウにも感覚の変化が起きていた。
これまでは、コア、蓄積槽、源泉を別々のものとして捉えていた。
だが、温泉水と魔力の流れを辿るうちに、それらが一続きに感じられるようになっている。
配管の向こうにある水も、蓄積槽で瘴気を受け止めている流れも、源泉から湧き続ける湯も、すべて繋がっていた。
一か所ずつ追いかける必要はない。
大浴場全体の湯を整える時のように、繋がっている流れへまとめて働きかければいい。
ユウは初めて、その巨大な循環の全体を掴んだ。
「――【水質変化・全域浄化】」
静かに告げた瞬間、コアから青白い光が溢れた。
光は配管を走り、蓄積槽へ広がり、地下に張り巡らされた水の流れを次々と照らしていく。
床の魔法陣が輝き、最深部の壁面にまで淡い光が映った。
黒く濁った瘴気が、触れたところから変わり始めた。
人々が抱いた怒りや悲しみを、なかったことにするのではない。
それらに染まり、増幅させていた魔力をほどき、再び穏やかな流れへ戻していく。
濃い黒は薄れ、灰色を経て透き通り、やがて青白い光へ変わった。
『浄化コア負荷率――九十五パーセント』
数値が大きく下がった。
『八十八パーセント』
『七十九パーセント』
「すごい勢いで減ってる!」
カヤが制御盤を見つめたまま叫んだ。
炉を揺らしていた振動が収まり、亀裂から漏れる瘴気も白い湯気へ変わっていく。
結晶のひびは残っていたが、その奥には青白い光が満ち始めていた。
『浄化コア負荷率――五十一パーセント』
一方で、ユウの膝が僅かに揺れた。
ダンがすぐに背中を支え、ミナも腕を添えた。
「ユウ、もういい。離れられるか?」
「あと少し……繋がるところまで」
広がった力を、途中で途切れさせたくはなかった。
施設の隅々へ調整が届けば、浄化炉自身がその状態を引き継げるはずだった。
ユウは残った魔力を注ぎながら、流れの乱れている最後の部分を探した。
『浄化コア負荷率――三十二パーセント』
指先の感覚が薄れ、立っているだけでも苦しくなる。
それでも、向こうから戻ってくる魔力は、もう荒れていなかった。
調整した温泉水が炉を巡り、次に入ってくる瘴気を受け止めている。
リーフェが表示を確かめ、声を上げた。
「循環が安定し始めているわ。ユウ、もうすぐよ!」
ユウは小さく頷いた。
最後に残った乱れへ、源泉の性質を馴染ませる。
青白い光が一段と強まり、地下を巡る流れが滑らかに繋がった。
『十八パーセント』
『九パーセント』
『三パーセント』
やがて、制御盤に新しい数値が現れた。
『浄化コア負荷率――ゼロ』
警告音が止まった。
『蓄積槽内瘴気――浄化完了』
『循環系統――正常』
誰も、すぐには声を出さなかった。
先ほどまで広間を満たしていた圧迫感が消え、浄化炉の低い稼働音だけが聞こえている。
コアの内部には透き通るような青白い光が満ち、安定した速さで魔導環が回っていた。
その下から、膨大な魔力が循環経路へ流れ出す。
地脈へ戻る流れとともに、谷の源泉へ繋がる管も強く輝き始めた。
遠くで、大量の湯が湧き上がるような音が響く。
カヤが顔を上げた。
「今の音、何?」
リーフェは流れを確かめ、驚いたように答えた。
「源泉よ。変換された魔力が戻って、湧き出す力まで強くなっているわ」
ユウにも、その変化は伝わっていた。
荒れていた魔力が、今は温かく穏やかな流れになっている。
手を離しても、もう逆戻りする気配はなかった。
「……できた」
ユウはようやくコアから手を離した。
途端に力が抜け、身体が傾く。
ミナが腕を支え、ダンが背中を受け止めて、足場へゆっくり座らせた。
「おい、しっかりしろ!」
「大丈夫……終わったから」
「終わった途端に倒れかけた奴が言うな!」
カヤが回復薬を取り出し、ユウの前に膝をついた。
「飲める? ゆっくりでいいから」
ユウが頷くと、カヤは瓶を口元へ運んだ。
少しずつ飲み下す間も、ミナはその手を握ったまま離さなかった。
リーフェはユウの魔力と呼吸を確かめ、ようやく息を吐いた。
「ひどく消耗しているけど、少しずつ戻っているわ。もう何もしないで休んで」
「うん……そうする」
今度は素直に答えたユウに、ダンも肩の力を抜いた。
リーフェが振り返ると、静かになった浄化炉が目に入った。
勇者が残した施設は、必要な調整を受け、ようやく本来の働きを始めていた。
今も温泉水が炉を巡り、穏やかな魔力を世界へ送り戻している。
その流れを繋いだのは、ユウが谷で湯を整えるために使い続けてきた力だった。
【水質変化・全域浄化】
一つの浴槽から始まった調整は、地下に繋がる水の流れ全体へ届いた。
何百年も蓄えられていた瘴気は、新たな源泉の力へ変わり、谷の湯を満たし始めている。
ユウは仲間に支えられながら、その温かな流れを最後にもう一度確かめ、静かに目を閉じた。
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