戦うためではなく癒やすために
過去の勇者が残した最後の記録は、まだ終わっていなかった。
最深部の壁面に浮かぶ古い文字列はゆっくりと次の行へ進み、勇者が抱えていた孤独を綴った部分から、その先へと続いていく。
ユウたちは浄化炉の前に立ったまま、誰一人としてその場を離れようとはしなかった。
世界を救い、数え切れないほどの人々を助けながら、強くなりすぎたために周囲から恐れられ、孤独になった勇者。
その彼が、最後に何を思ってこの谷へ辿り着いたのかが、少しずつ明らかになろうとしていた。
リーフェは壁面の古代文字を目で追いながら、小さく息を吐いた。
「ここから先は、さっきまでより個人的な記録みたいね」
「まだ何か残してたのか」
ダンが腕を組むと、リーフェは頷いた。
「施設の説明というより、自分自身に向けて書いた覚え書きに近いわ」
「読めそう?」
隣から文字を覗き込んだカヤに、リーフェは「少しずつなら」と答えた。
ミナもユウの隣に立ち、壁面へじっと目を向けている。
やがて新しい文章が浮かび上がり、リーフェが静かに読み始めた。
『俺は長い間、強い力があれば守れると思っていた。もっと強い剣があれば、もっと強い魔法があれば、もっと遠くまで手が届けば、それだけ多くの人間を助けられる。少なくとも最初の頃は、本気でそう思っていた』
ダンの表情が僅かに険しくなった。
戦う者にとって、その考えはよく分かる。敵を倒せるだけの力があれば仲間を守れ、助けられなかったという後悔も減らせるはずだった。
だからこそ冒険者は腕を磨き、昨日より少しでも強くなろうとする。
けれど、この勇者は誰も並び立てないところまで行ってしまった。
『だから俺は強くなった。剣も、魔法も、身体も、できる限り鍛えた。最後には、国一つを滅ぼせるほどの力を持った』
「国一つ……」
カヤが眉をひそめると、ダンは壁を見つめたまま呟いた。
「そこまで行けば、助けられた側も怖くなるだろうな」
記録は、そんな勇者に周囲が何を求めたのかを語り始めた。
『その頃になると、俺の力や知識で新しい武器を作れないかと言われるようになった。もっと遠くの敵を倒せるもの。魔王軍の城を一撃で崩せるもの。軍隊をまとめて吹き飛ばせるもの。実際、設計だけならいくつも考えた』
「昔の勇者が本気で考えた兵器か。洒落にならねぇな」
ダンが苦い顔をした直後、壁面に短い一文が現れた。
『でも、作らなかった』
全員が黙って、その続きを待った。
『それで目の前の戦争が早く終わったとしても、その先まで平和になるとは思えなかった。敵を一瞬で殺せる兵器を作れば、それを恐れた別の国が、もっと強い兵器を欲しがる。俺がいなくなったあとには、俺の作った力だけが残る』
ユウは、ここまでの道のりで見てきた巨大な設備を思い返していた。
地脈を利用し、世界中の瘴気を集め、蓄積槽へ送り込む仕組み。
それほどの施設を作り上げた知識を戦争に使えば、恐ろしい兵器も生み出せたに違いない。
けれど勇者は、自分の死後にまで誰かを傷つけ続けるものを残そうとはしなかった。
『何を残せばいいのか、ずっと考えた。剣でも、魔法でも、城でもない。俺しか使えない奇跡を残したところで、その先に生きる奴らの役には立たない』
文字が次の行へ進み、ユウは無意識に息を止めた。
『俺が本当に作りたかったのは、傷ついた奴が休める場所だった』
ミナの耳が僅かに動いた。
『人間でも、魔族でも、獣人でも、エルフでも、敵だった奴でも構わない。そこまで来た時くらいは武器を置いて、温かい湯に浸かって、飯を食って、安心して眠れる場所が欲しかった』
カヤがゆっくりと顔を上げた。
そこに書かれていたのは、今のやわらぎの谷の姿だった。
大浴場では人間と魔族が同じ湯に浸かり、食堂では隣り合って食事をする。
王国の兵士と魔王軍の兵士が同じサウナで汗を流す。
古竜が湯加減に文句を言い、天使が肩こりを癒やしに訪れていた。
露天風呂の近くではグーちゃんが寝そべり、カヤは温泉まんじゅうを売り、ミナは初めて来た客を案内する。
何百年も前に一人の勇者が願った場所が、誰もその願いを知らないまま、少しずつ形になっていた。
『笑われたこともあった。最強の勇者が、最後に作るものが温泉かってな』
ダンの口元が少し緩んだ。
「まあ、俺でも最初に聞いたら笑ったかもしれん」
「今でもたまに笑ってるじゃん」
「規模がおかしい時だけだ!」
「天界まで温泉を通した時とか?」
「そういう時だよ」
カヤとのやり取りに、張り詰めていた空気が少し和らいだ。
リーフェも微笑んだが、次の文章へ目を移すと、静かな声に戻った。
『でも、俺には兵器よりそっちの方が必要だった。俺自身が、そういう場所を欲しかったからだ』
笑いは自然と収まり、ユウたちは再び記録へ耳を傾けた。
『誰にも何も求められず、勇者でいなくてもいい場所。明日の戦いを考えずに眠れる場所が、一つくらいあってもいいと思った』
世界を救うほどの力を手に入れた勇者が欲しかったのは、さらに強くなることではなかった。
誰かの期待や命を背負うことから離れ、ただ一人の人間として休む時間だった。
『だから、この谷を選んだ。誰も近づかない場所なら、まずは俺が休める場所にすればいいと思った』
当時の還らずの谷は、一度入れば戻れないと恐れられた場所だった。
そんな土地を安らぎの場にしようと考えた勇者に、カヤは小さく笑った。
「ずいぶん思い切った理由だね」
「それだけ、一人になりたかったんだろうよ」
ダンの声には、もう茶化すような響きはなかった。
続く記録には、温泉を作り始めた頃のことが綴られていた。
湧き出す源泉の流れを整え、冷たい湧水を混ぜて湯温を調節し、石を積んで小さな浴槽を作ったらしい。
最初は、勇者が一人で入るための温泉だった。
『初めて完成した時、三日くらい何もしなかった。湯に入って、寝て、腹が減ったら適当なものを食って、また湯に入った』
「三日もか?」
ダンが目を瞬かせ、カヤは思わず吹き出した。
「それ、うちに来る湯治客と一緒じゃん」
「でも、気持ちは分かるよ」
ユウが言うと、ダンはすぐに横を向いた。
「お前もやりそうだな」
「仕事が落ち着いたら、一度くらいは」
「その時はちゃんと休めよ。お前、暇になった途端に新しい湯を作り始めそうだからな」
ユウは言い返しかけたものの、思い当たることがあったので苦笑するだけに留めた。
勇者にも、そんな穏やかな時間があった。
戦場を離れ、誰かの命を背負うこともなく、湯に浸かって過ごした数日が、彼の考えを変えたのだろう。
『三日目に思った。俺だけが使うのは勿体ないって。俺みたいに疲れてる奴は、世界中にいる』
リーフェの声を聞きながら、ユウは谷を訪れてきた人々の顔を思い浮かべた。
傷を負った冒険者だけではなく、長い旅で疲れた者も、働き続けて身体を痛めた者も、誰にも弱音を吐けずにいた者もいた。
皆がそれぞれの疲れを抱えて谷へ来て、湯に浸かり、食事をして、少し表情を和らげて帰っていった。
『だったら、そういう奴らも来られる場所にしたいと思った』
ユウ自身も、最初から世界を変えようとしていたわけではなかった。
温泉を整え、訪れた人を迎え、困っていることがあればできる範囲で手伝った。
やがて料理を作る者が加わり、宿ができ、働く人も客も増えていった。
一人ではできなかったことを皆が少しずつ引き受けてくれたから、今の谷がある。
『たぶん、武器を作るよりずっと難しい。敵を倒す方法なら俺には分かる。でも、人が安心して帰ってこられる場所を作る方法は、最後までよく分からなかった』
ミナが壁を見つめたまま言った。
「ユウは作った」
「僕だけじゃないよ。みんなで作ったんだ」
ユウが答えると、ミナは少し考えてから頷いた。
「うん。みんなで」
「私もかなり貢献してるよ。温泉まんじゅうとか、グッズとか」
胸を張ったカヤに、ダンが呆れた顔を向けた。
「ここで商売の話になるのか」
「大事でしょ。おいしいものがあって、お土産も買えたら、また来たくなるじゃん」
「……それはそうだな」
ダンがあっさり認めたので、カヤは満足そうに笑った。
リーフェも二人を見て微笑んでから、記録の最後へ視線を戻した。
『もし未来で、この場所に人が集まっているなら、俺の考えは間違ってなかったんだと思う』
文字の流れがゆっくりになり、皆は黙って続きを待った。
『強い奴も弱い奴も、勝った奴も負けた奴も、敵同士だった奴も、同じ湯に入れる場所になっていたら、それでいい』
ユウの脳裏に、グラディウスとバルグレイが背中を預けて戦う姿が浮かんだ。
国王と魔王がサウナで領土問題を話し合ったこともある。かつて自分を追放したガレスたちとも、この谷で再び言葉を交わし、同じ湯に入ることができた。
湯に浸かっただけで、何もかもが解決するわけではない。それでも肩の力を抜いて向き合えたからこそ、話せたことがあった。
『最強の兵器なんて残さなくてよかった。俺が残したかったのは、戦うための力じゃない』
リーフェは僅かに間を置いて、最後の一文を読み上げた。
『傷ついた誰かが、もう一度立ち上がるまで休める温泉だ』
読み終わっても、誰もすぐには口を開かなかった。
最深部には相変わらず重たい瘴気の気配が漂っている。
それでもユウには、記録を残した勇者が小さな浴槽に身を沈め、ようやく息をつく姿が浮かぶようだった。
やがて、ユウは浄化炉へ目を向けた。
「これも、同じつもりで作ったのかもしれないね」
「浄化炉のことか?」
ダンに頷き、ユウは黒い瘴気の流れる管を見た。
「瘴気になった魔力を、また穏やかな状態へ戻すためのものなんでしょ。温泉で疲れた人を休ませるのと、勇者の中では繋がっていたんじゃないかな」
リーフェは制御部と配管を見比べ、考えるように頷いた。
「記録にあった仕組みとも合うわね。荒れた魔力を安定させて、地脈へ戻す。そのために源泉の力を使おうとしたのなら、あなたの言う通りかもしれない」
ダンは巨大な炉を見上げて苦笑した。
「世界ごと湯治させようって装置か」
「それ、分かりやすい!」
カヤが声を上げると、ミナも小さく頷いた。
「世界も疲れてるんだね」
「ああ。今は、休ませてやる手伝いが必要なんだろうな」
ダンの言葉に、ユウはもう一度壁面を振り返った。
過去の勇者が願った温泉は、今、地上で大勢の人を迎えている。
勇者自身が思い描いていた景色を見られなかったのだとしても、その願いは何百年もの時を越えて、ここまで届いていた。
ならば地下に残された仕事も、皆で引き継げばいい。
「動かそう」
ユウは浄化炉の制御部へ向き直った。
「この温泉が、世界を休ませられるように」
「浄化炉まで温泉扱いか」
ダンが笑ったので、ユウも笑い返した。
「間違ってないと思うけど」
「まあ、あの勇者なら喜ぶかもしれんな」
五人は並んで制御部へ向かった。
壁面には、最後の一文がまだ淡く残っている。
その光を背に受けながら、ユウは巨大な炉の前に立った。
地上で客を迎える時と同じように、まずは湯の状態を確かめようと思った。
誰かを癒やすために作られたものなら、自分にも手伝えることがあるはずだった。
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