強すぎた勇者の孤独
過去の勇者が残した二つ目の手記を見終えたあと、ユウたちは浄化炉の前へ移動していた。
巨大な円筒状の装置には、黒い瘴気を運ぶ管と源泉の魔力を送る管が何本も繋がっている。
床に刻まれた魔法陣も複雑で、どこから手をつければいいのか分からないほどだったが、少なくとも浄化炉の役割については勇者の記録のおかげで理解できていた。
世界中から集められた瘴気を消し去るのではなく、やわらぎの湯が持つ精神安定と魔力安定の力を使い、普通の魔力へ戻していく。
その最後の調整を未来へ託すために、勇者はこの場所を残した。
「とりあえず、源泉側から調べる?」
ユウが配管へ近づこうとすると、ダンがすぐに肩を掴んだ。
「だからいきなり触るなって」
「調べるだけだよ」
「お前の『調べる』は手から入るんだよ!」
「じゃあ見るだけ」
「最初からそうしてくれ」
カヤが少し笑い、リーフェも浄化炉へ近づいて魔力の流れを確認し始めた。
ところが、その時だった。
先ほど勇者の人影を映していた中央の台座が、再び青白く光り始めた。
「まだあるの?」
カヤが振り返る。
ダンも眉を寄せた。
「さっき『あとは頼んだ』って綺麗に終わっただろ」
「別の記録みたい」
リーフェが台座へ向かう魔力を確認する。
「さっきより小さいし、浄化炉の制御装置に触れたことで自動的に開いたみたいね」
青白い光は再び過去の勇者の姿を作り出した。
見慣れた黒髪と旅装。
けれど、先ほどまでの記録とは少し雰囲気が違っていた。
勇者は立っていなかった。
岩のようなものへ腰を下ろし、膝の上に両腕を置いたまま、ぼんやり前を見ている。
そして何より、その顔には以前の記録で見せていた軽い笑みがなかった。
『……こっちは、本当は残すつもりなかったんだけどな』
最初の一言から、声も違った。
誰かへ説明するための記録ではない。
もっと独り言に近い。
ユウたちは自然と黙った。
『浄化炉の調整をする奴なら、たぶんこれも再生される。そういう設定にしたのは俺なんだから、残す気がなかったって言っても説得力ないか』
勇者は自嘲するように笑った。
けれど、その笑顔もすぐに消える。
『俺は、強くなりすぎた』
ダンの表情が僅かに変わった。
勇者は自分の手を見る。
『最初はただ、生きるためだった。魔物に殺されないように強くなった。次は誰かを守るために強くなった。その次は戦争を終わらせるためにもっと強くなった』
静かな声が、最深部の広間へ響いていく。
『気づいた時には、俺をまともに止められる奴はほとんどいなくなってた』
カヤが小さく息を呑む。
『魔王を倒した。戦場を一人でひっくり返したこともある。人間同士の戦争に割って入って、両軍の武器を全部壊したこともあった』
ダンが思わず呟く。
「無茶苦茶だな……」
『強ければ世界を救えると思ってた』
勇者は少しだけ顔を上げた。
『実際、救えた命は多かったと思う。村を守った。国を救った。魔物に襲われていた奴らも助けた。戦争を止めたこともある』
そこで言葉が途切れた。
『でもな』
勇者はゆっくり息を吐く。
『世界を救っても、誰の心も救えなかった』
その言葉だけが、妙に重く残った。
ミナの耳が少し伏せられる。
『戦争を止めても、家族を殺された奴の恨みは消えなかった。魔王を倒しても、魔族を憎む人間はいたし、人間を憎む魔族も残った』
勇者の手が、僅かに握られる。
『助けた奴に感謝されることもあった。でも、その隣で「もっと早く来てくれれば」って泣いてる奴もいた』
誰も口を挟めなかった。
『俺には何でもできると思われるようになった』
勇者は寂しそうに笑う。
『勇者なんだから助けてくれる。勇者なんだから勝てる。勇者なんだから間違えない』
ダンがゆっくり腕を下ろした。
それまで警戒するために握っていた剣の柄から、手が離れる。
『でも、そんなわけないだろ』
勇者の声は少し震えていた。
『俺だって怖かった。疲れた。間違えた。助けられなかった奴の顔だって、今でも覚えてる』
カヤが俯く。
リーフェも何も言わず人影を見つめていた。
『それでも弱音を吐けなかった』
勇者は自分の胸を軽く叩く。
『一度でも「もう無理だ」って言ったら、みんなが不安になる気がした。だから笑ってた。大丈夫だって言ってた。次の場所へ行った』
その言葉に、ユウの表情が僅かに変わる。
戦える者だから。
強い者だから。
皆が頼る。
だからこそ、本人が休む場所がなくなっていく。
少し前、セラフィエルが同じように何百年もの間、天使長としての責任を抱え込んでいた。
グラディウスにも。
ガレスにも。
そして、谷へ来る多くの冒険者たちにも、似たところがあった。
『いつの間にか、誰かと飯を食ってても「勇者様」だった』
勇者は遠い目をする。
『宿へ泊まっても勇者。酒場へ行っても勇者。知らない町へ行っても勇者』
少し笑った。
『一人になりたくないのに、一人になれる場所を探してた』
ミナが小さく呟く。
「さみしい」
ユウも頷いた。
「うん」
『だから温泉だったのかもしれない』
勇者が言った。
ユウたちが顔を上げる。
『最初にこの谷の源泉を見つけた時、誰もいなかった。魔物も寄りつかないし、人間も怖がって入ってこない。還らずの谷なんて呼ばれてるくらいだったからな』
ユウはその名前を聞いて、静かに周囲を見る。
今では多くの人が訪れる還らずの谷。
けれど、過去の勇者がいた頃は、本当に誰も近寄らない場所だったのだろう。
『そこで湯に入った』
勇者の口元に、今度はほんの少し自然な笑みが浮かぶ。
『何日ぶりだったかな。たぶん、まともに鎧を脱いだのも久しぶりだった』
ダンが小さく息を吐いた。
『誰も俺を勇者って呼ばなかった』
当然だった。
そこには誰もいなかったのだから。
『何かを救えとも言われない。敵を倒せとも言われない。正しい答えを出せとも言われない』
勇者は目を閉じる。
『ただ、湯が温かかった』
それだけの言葉だった。
けれどユウには、その言葉が一番よく分かった。
『その時に初めて思ったんだ』
勇者が再び目を開く。
『世界を救える場所じゃなくてもいいんじゃないかって』
カヤが顔を上げた。
『世界を救った奴が休める場所。世界なんか救えなくても、一日頑張った奴が帰ってこられる場所。そういうものを作った方が、俺が剣を振るうより誰かの心を救えるんじゃないかってな』
リーフェが静かに呟く。
「それで、やわらぎの湯を……」
『皮肉だろ?』
勇者は少し笑った。
『最強だって言われた俺が、最後に作りたかったのが風呂なんだから』
ダンの口元が僅かに上がる。
「確かにな」
『でも、俺には最後まで上手くできなかった』
再び勇者の表情が曇った。
『人は集まらなかったし、俺自身も勇者って立場から逃げきれなかった』
誰もいない谷へ温泉を作った。
けれど、それを宿にすることも、街にすることもできなかった。
『だから仕組みだけ残した』
地脈を使って瘴気を集める装置。
地下の蓄積槽。
浄化炉。
そして地上の温泉。
『いつか俺じゃない誰かが、ここを本当に休める場所にしてくれたらいいと思った』
その時。
勇者が、まっすぐこちらを見たように感じられた。
『もし今、この谷に誰かが住んでるなら』
ミナの尻尾が僅かに動く。
『誰かが湯に入りに来てるなら』
カヤが笑う。
『飯を食って、笑って、また来るって言って帰る奴がいるなら』
ダンとリーフェがユウを見る。
『俺ができなかったことを、誰かがやってくれたってことだ』
ユウは何も答えなかった。
けれど頭の中には、数え切れないほどの顔が浮かんでいた。
ダン。
ミナ。
リーフェ。
カヤ。
レイン。
ドグラン。
ガレスたち。
国王と魔王。
騎士団長と四天王。
古竜。
精霊。
天使。
グーちゃんとヘルウルフたち。
そして名前も知らない、大勢の温泉客。
還らずの谷はもう、誰もいない場所ではない。
『強くなりすぎた俺には、結局できなかった』
勇者は少し寂しそうに笑った。
『剣で世界を救うことはできても、誰かに「おかえり」って言える場所を作ることはできなかった』
ミナがぽつりと言った。
「あるよ」
ホログラムには届かない。
それでもミナは続けた。
「ここ、ある」
カヤも頷く。
「すっごく賑やかだけどね」
リーフェが微笑む。
「少し賑やかすぎるくらいね」
ダンも肩をすくめた。
「王と魔王がサウナ入って、古竜が湯加減で喧嘩して、天使が温泉通って、グレートヘルウルフの抱き枕まで売ってるけどな」
「最後のは関係ある?」
カヤが聞く。
「今の谷を説明するなら必要だろ」
ユウは勇者の人影を見つめたまま、静かに言った。
「ちゃんと帰ってくる場所になってるよ」
その瞬間。
偶然なのかもしれない。
けれど勇者の表情が、ほんの少しだけ安心したように見えた。
『……だったら、いいな』
青白い光が薄くなり始める。
最後に勇者は、いつものような少し軽い笑みを浮かべた。
『未来の俺より、そっちの方がずっと強いよ』
それを最後に、人影は静かに消えていった。
しばらくの間、最深部には浄化炉の低い音だけが響いていた。
ダンが長く息を吐く。
「強すぎるってのも、大変なんだな」
リーフェが頷く。
「強ければ何でも解決できるわけじゃないってことね」
ユウは勇者が消えた場所を見つめたあと、巨大な浄化炉へ視線を移した。
過去の勇者は世界を救った。
それでも救えなかったものがあった。
だから温泉を残した。
そして今、その温泉には大勢の人が集まり、疲れれば帰ってくる。
ならば、あとは勇者が最後までできなかった仕事を終わらせればいい。
「浄化炉、動かそう」
ユウが言うと、ミナが頷き、カヤとリーフェも隣へ並んだ。
ダンは少しだけ笑ってから剣を背負い直す。
「今度こそ、あいつを休ませてやるか」
世界を救った勇者が最後まで背負い続けたものを終わらせるため、五人は満杯になった瘴気を浄化する最後の作業へ取りかかった。




