残された手記
最終浄化区画と刻まれた巨大な扉を開くと、その先には、これまでの地下大浴場遺跡とは明らかに違う空間が広がっていた。
円形の広間には無数の古い配管が壁から中央へ向かって伸び、床一面には複雑な魔法陣が幾重にも刻まれている。
さらに奥では、黒い液体のように濃縮された瘴気が透明な管の中をゆっくりと流れており、そのすぐ脇には源泉から引かれているらしい淡い青色の魔力管が何本も並んでいた。
ダンは部屋へ足を踏み入れるなり、露骨に嫌そうな顔をした。
「さっきまでの場所でも十分嫌な感じだったけど、ここはさらにひでぇな」
「瘴気が近いからね」
リーフェは杖を握ったまま、慎重に周囲の魔力を探る。
「封印そのものは機能してる。でも、壁の向こうにある量が多すぎるわ。防護してても、気を抜くと感情を引っ張られそう」
カヤもいつもの元気な様子とは違い、少しだけ尻尾を膨らませながらユウの近くを歩いていた。
「なんか、理由もないのに嫌なこと考えそうになる」
「考え始めたら言って」
ユウが答えると、ミナもカヤの横へ寄って静かに言う。
「一人で考えない」
「うん。ありがと」
ダンは二人の様子を確認してから、改めて広間を見回した。
「とりあえず、変なもんに勝手に触るのは禁止な」
その瞬間、ユウが中央にある台座へ視線を向ける。
ダンがすぐに気づいた。
「……何だよ、その顔」
「まだ触ってないよ」
「今、『まだ』って言ったな?」
カヤが少し笑う。
「ダン、もうユウの行動読めるようになってるね」
「長い付き合いだからな」
ダンがため息を吐いた直後、誰も触れていないはずの中央の台座が淡く光り始めた。
床に刻まれていた魔法陣から青白い光が流れ込み、それが台座の上で少しずつ人の形を作っていく。
最初に頭部が浮かび、続いて肩や腕、胴体が形を持つ。
やがて一人の男の姿がはっきりと浮かび上がった瞬間、ユウが小さく声を漏らした。
「あ」
ダンもすぐに気づく。
「あいつか」
リーフェとカヤ、ミナにも見覚えがあった。
黒髪に旅装。
腰には古びた剣。
以前、この地下遺跡で記録を発見した時に姿を現した、過去の勇者だった。
カヤが少し首を傾げる。
「また勇者の記録?」
「前に見たものとは違うみたい」
リーフェは台座から流れる魔力を確認する。
「以前の記録は遺跡全体の成り立ちに関するものだったけど、これはこの区画そのものに連動してる。最深部まで来ないと起動しないようになっていたのね」
ダンは青白い人影を眺めながら腕を組んだ。
「この勇者、どんだけ未来の連中に言い残してんだよ」
まるでその言葉を待っていたようなタイミングで、ホログラムの勇者が口を開いた。
『ここまで来たってことは、前に残した記録も見たんだろうな』
ダンの眉が跳ね上がる。
「こっちが見た前提なのかよ!」
もちろん記録なので返事はない。
勇者は少し苦笑するような表情を浮かべ、そのまま話を続けた。
『だったら、俺がこの谷に温泉を残した理由も、地下の仕組みが世界中の瘴気を集めていることも、ある程度は分かってるはずだ』
ユウたちは自然と黙り、青白い人影へ耳を傾ける。
『この記録は、その続きだ。正確には、最後の仕掛けまで辿り着いた奴だけに残す手記だな』
ダンが小声で呟いた。
「最初から全部言ってくれれば楽だったのに」
リーフェが苦笑する。
「あなた、前の記録の時も似たようなこと言ってなかった?」
「だって面倒だろ」
そんな二人の声など聞こえないまま、過去の勇者は話を続けた。
『地下の蓄積槽が限界まで来てるなら、たぶん世界精神安定度も八十を超えてる』
カヤが目を丸くする。
「そこまで分かってたんだ」
勇者の表情が少し真面目になる。
『八十って数字には意味がある。あれは、世界中の奴らが急に優しくなったとか、喧嘩をしなくなったとか、そんな単純な数字じゃない』
青白い人影は、少し間を置いて続けた。
『世界で新しく生まれる瘴気の量と、それを自然に薄められる魔力の量。その均衡が、一定以上まで改善した状態だ。つまり昔より争いが減って、怒りや憎しみが世界そのものを圧迫する速度が遅くなったってことになる』
ダンはその話を聞きながら、つい先ほどまでの防衛戦を思い出していた。
王国騎士団と魔王軍が同じ防衛線を作り、グラディウスとバルグレイが背中を預け合って戦っていた。
それだけではない。
人間と魔族はやわらぎの湯で同じ湯に浸かり、宴会では同じ酒を飲んだ。
天使も古竜も精霊も魔物も、今では谷の日常の中に混ざっている。
『そこまで世界が落ち着かなきゃ、浄化炉を動かせないようにした』
ユウが思わず首を傾げる。
「どうして?」
当然、返事が返ってくるはずはない。
ところが記録は、その疑問を先回りするかのように続いた。
『理由は簡単だ。どれだけ瘴気を処理しても、それ以上の速さで新しい瘴気が流れ込んできたら意味がないからな』
ダンがユウを見る。
「前にお前が言ってたのと同じだな」
「そうだね」
勇者は少し遠い目をした。
『昔の世界は酷かった。国が違えば戦って、人間と魔族だから戦って、宗派が違えば争って、終わった戦争の恨みでまた次の戦争が始まった』
そして、どこか諦めたように肩をすくめる。
『だから当時の俺が浄化炉を動かしたところで、穴の空いた桶から水を汲み出してるようなもんだった』
カヤが小さく呟く。
「分かりやすい」
『だったら、未来に任せようと思った』
ダンがすぐに反応する。
「やっぱり丸投げじゃねぇか」
『まあ、丸投げとも言う』
ダンが目を見開いた。
「自覚あった!」
カヤが吹き出し、ミナの口元も少しだけ緩む。
重苦しい最深部の空気が、それだけで少し軽くなった。
勇者はどこか楽しそうに笑ったあと、部屋の奥を指差した。
そこには巨大な円筒状の装置があり、黒い瘴気を運ぶ管と源泉魔力を送る管が何本も接続されている。
『あれが浄化炉だ』
全員の視線がそこへ向いた。
『名前は炉だけど、燃やす装置じゃない。瘴気を消し飛ばすものでもない』
リーフェが以前、エルメリアと解読した内容を思い出す。
「普通の魔力に戻す……」
記録の勇者も、その言葉を補うように続けた。
『瘴気は、元を辿れば魔力に負の感情が強く染み込んだものだ。だから、怒りや悲しみそのものを消す必要はない。むしろ、そんなことをしたら駄目だ』
それまで僅かに残っていた笑みが、勇者の顔から消える。
『誰だって怒るし、悲しむし、怖がる。誰かを嫌いになることだってある。それは生きていれば当然のことだ』
ミナは何も言わず、その姿を見つめていた。
『俺が作りたかったのは、感情をなくした平和な世界じゃない。そんなもの、気味が悪いだろ』
ダンが小さく頷く。
『ただ、抱えきれなくなった感情が魔力へ染み込み、誰か別の奴の心まで荒らす。その連鎖だけは何とかしたかった』
ユウは黒い瘴気が流れる管へ目を向けた。
地下へ集められてきたものは、誰かにとって本物の怒りであり、本物の悲しみだった。
それを悪いものだから消してしまう、という話ではない。
抱えきれなくなって世界へ溢れた分だけを、少し軽くする。
過去の勇者が作ろうとしていた仕組みは、そういうものだった。
『だから浄化炉では、やわらぎの湯の源泉魔力を使う』
その言葉に、ユウの表情が変わった。
『源泉が持ってる精神安定と魔力安定の性質を瘴気へ通し、絡みついた感情の残滓をほどいて普通の魔力へ戻す』
リーフェは感心したように浄化炉を見る。
「だから温泉が必要だったのね」
『ここまで来た奴なら、もう気づいてると思うけど、この谷の温泉はただの風呂じゃない』
ダンが小声で返す。
「それはもう嫌ってほど分かった」
カヤも笑う。
「天界まで行ったしね」
「魔獣にも撃ったしな」
ユウも頷く。
「撃退砲にもなったね」
ダンはホログラムの勇者を見る。
「本人が今のやわらぎの湯を見たら、どういう顔するんだろうな」
当然、記録された時代の勇者に今の会話は届かない。
そのまま青白い人影は話を続けた。
『ただし、一つ問題がある』
その一言で、少し緩んでいた空気が再び引き締まる。
『浄化炉は、自動では完全に調整できない』
リーフェが眉を寄せる。
『世界精神安定度、瘴気濃度、地脈圧、源泉の状態。その全部は時代によって変わる。俺の時代の数値で固定しておいたら、未来で使った時に必ずどこかが狂う』
ダンが嫌そうな顔をした。
「そこは自動で何とかならなかったの?」
『そこまで便利なものを作れるなら苦労してない』
ダンが口を開けたまま止まる。
「またこっちの疑問に答えたみたいなこと言いやがった」
リーフェが思わず笑った。
『だから最後の調整だけは、その時代に任せる』
勇者は再び浄化炉へ向き直る。
『特に重要なのは源泉側だ。浄化炉へ送り込む湯の魔力を、今そこにある瘴気の状態に合わせなきゃならない』
その言葉を聞いた瞬間、カヤとリーフェがほぼ同時にユウを見る。
ダンも少し遅れて視線を向け、ミナに至っては最初からユウを見ていた。
ユウが少し困った顔をする。
「僕?」
ダンが肩をすくめた。
「どう考えてもお前だろ」
まるで追い打ちをかけるように、記録の勇者が続ける。
『もし未来に、温泉の水質や魔力を細かく調整できる変わった奴がいたら、そいつに任せるのが一番早い』
全員が黙った。
ダンはゆっくりとホログラムへ向き直る。
「なんでそこまでピンポイントなんだよ」
カヤは笑いを堪えきれなかった。
「ユウのために残したみたい」
「偶然だよ」
ミナはすぐに首を振る。
「ぴったり」
リーフェも苦笑する。
「ここまで条件が揃うと、そう言いたくなる気持ちは分かるわ」
勇者はそんな未来のやり取りなど知らずに、少しだけ遠い目をした。
『俺の時代に、浄化炉を動かす日は来なかった』
それまでより静かな声音だった。
『世界精神安定度は八十には程遠かった。だから俺にできたのは、仕組みを残すところまでだった』
少し間を置き、勇者は穏やかに笑う。
『でも、これを見てるってことは、未来では八十まで届いたんだろ』
誰も何も言わなかった。
『だったら十分だ。俺が見られなかったところまで、誰かが進めてくれたってことだからな』
その表情には、長い間抱えてきたものをようやく手放したような、どこか安心した色が浮かんでいた。
ユウは以前見た勇者の記録を思い出す。
あの時も、彼は自分が世界を救った英雄だという話をほとんどしなかった。
どうすれば争いを少し減らせるか。
どうすれば疲れた者が一度立ち止まれるか。
そのために温泉を残したのだと話していた。
今回の記録も、その考えは何も変わっていなかった。
『最後に一つだけ頼みがある』
青白い人影が、僅かに薄くなり始める。
『浄化炉を動かしたあとも、温泉は残してくれ』
ユウが少し目を見開いた。
『世界が落ち着いても、誰かが疲れなくなるわけじゃない。怒らなくなるわけでも、悲しまなくなるわけでもない』
勇者は少し笑った。
『そういう時に、帰ってきて湯に浸かれる場所が一つくらいあってもいいだろ』
ミナの耳が僅かに動く。
やわらぎの湯。
宿。
食堂。
露店街。
大浴場。
そこで過ごしてきた多くの人たちの顔が、ユウの頭にも自然と浮かんでいた。
『前の記録でも似たようなことを言ったかもしれないけどな』
勇者は照れくさそうに頭を掻く。
『俺は温泉を残しただけだ。そこを帰れる場所にするのは、未来にいる奴らの仕事だ』
ユウは青白い人影を見つめながら、静かに答えた。
「もうなってるよ」
届くはずのない言葉だった。
それでも、言わずにはいられなかった。
ミナも小さく頷く。
「みんなの家」
カヤが笑う。
「お客さんもいっぱい来るしね」
リーフェも表情を緩める。
「少し騒がしすぎるくらいだけど」
ダンが肩をすくめた。
「王も魔王も古竜も天使も来るしな。あんたが想像してた温泉より、かなり大変なことになってるぞ」
もちろん、記録から返事が返ってくることはない。
ただ、最後に残った青白い人影が、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
『じゃあ、あとは頼んだ』
その言葉とともに光は静かに消え、中央の台座も元の状態へ戻っていった。
広間には再び、瘴気と源泉魔力が管の中を流れる低い音だけが残る。
ダンはしばらく勇者の消えた場所を見つめてから、ゆっくり息を吐いた。
「二回目なのに、相変わらず面倒なこと託していく奴だな」
「でも、やることは分かった」
ユウは巨大な浄化炉を見る。
源泉魔力を今の瘴気に合わせて調整し、満杯になった蓄積槽から少しずつ流し込んで、普通の魔力へ戻していく。
それが過去の勇者が未来へ残した最後の仕掛けだった。
リーフェが杖を握り直す。
「問題は、具体的にどう調整するかね」
「調べよう」
ユウが答えると、カヤも背負っていた鞄を持ち直した。
「私たちも手伝える?」
「もちろん」
ミナもユウの隣へ立つ。
「一緒にやる」
ダンは剣から手を離し、目の前にそびえる浄化炉を見上げた。
「ここまで来たんだから、最後まで付き合うよ」
五人は自然と同じ場所へ並んだ。
以前に見た過去の勇者の記録は、この谷がなぜ生まれたのかを教えてくれた。
そして最深部に残されていた二つ目の手記は、その先に残された仕事を未来へ託すためのものだった。
過去の勇者が自分の時代では果たせなかった役目を終わらせるため、ユウたちはついに浄化炉そのものの調整へ取りかかることになった。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークやページ下部の☆を押して評価をお願い致します!
作者の励みになります!




