根本解決への道
大噴泉撃退砲から放たれた巨大な湯気弾によって、迷いの森を覆っていた黒い霧はきれいに消え去っていた。
先ほどまで無数の魔獣がひしめき、霧の中に赤黒い目が浮かんでいた森には白い湯気だけが漂っている。それも時間が経つにつれて少しずつ薄れ、これまで瘴気に隠されていた木々の姿が戻り始めていた。
谷の入口に築かれていた防衛線では、王国騎士団と魔王軍の兵士、それに冒険者たちが互いの無事を確かめながら歓声を上げている。
「本当に消えたぞ!」
「黒い霧が残ってない!」
「温泉って魔獣まで倒せるのかよ!」
「いや、普通の温泉は無理だろ!」
あちこちから声が飛び交う中、ダンは大剣を肩に担ぎ、まだ砲口から白い湯気を吐き出している大噴泉撃退砲を眺めていた。
「……最後まで納得できねぇ」
隣ではグラディウスが剣を鞘へ収めている。
「何がだ?」
「俺たち、あれだけ必死に剣振ってたのにさ。最後は温泉を撃ったら全部消えたんだぞ」
少し離れたところで、その会話を聞いていたバルグレイが豪快に笑った。
「勝ったのだからいいではないか!」
「お前は撃退砲が気に入っただけだろ!」
「その通りだ! だから次は俺に撃たせろ!」
「絶対に駄目だ」
グラディウスが即座に止めると、近くにいた騎士と魔族兵から笑い声が漏れた。
戦いの最中には、敵味方の区別どころか笑う余裕さえなかった。それでも危機が去った今は、王国側も魔王軍側も関係なく、隣で戦っていた者の肩を叩き、無事を喜び合っている。
カヤも空になった回復薬の鞄を抱えたまま、座り込んでいる兵士たちの間を歩き回っていた。
「怪我してる人はフィアのところへ行って! 動ける人も今日は無理しないでね!」
ダンがすぐに振り返る。
「お前もだぞ」
「分かってるって」
「さっきからそれ言ってる奴が一番走り回ってるんだよ」
カヤは反論しようとしたものの、さすがに自分でも疲労を自覚していたらしく、少し迷ってから近くの木箱へ腰を下ろした。
リーフェとセレディアもようやく魔法を解き、偵察に出ていたヴァルトが森の奥から戻ってくる。
「未踏領域側も確認した。少なくとも、この近くに大きな瘴気反応は残っていない」
その報告を聞き、リーフェが大きく息を吐いた。
「じゃあ、ひとまず地上は大丈夫ね」
「ひとまず、か」
ダンがその言葉に反応する。
リーフェは答える代わりに、地下遺跡のある方角へ目を向けた。
「地上へ出てきた分を消しただけだから」
その一言で、戦いが終わったと思っていた者たちの表情が少しだけ引き締まった。
地下には今も、世界中から長い年月をかけて集められてきた瘴気が封じ込められている。
しかも蓄積槽はすでに99.7%を超え、ほとんど限界に達していた。
今回地上へ現れた黒い霧も、根本の問題が解決していないために起きた異常の一つにすぎない。
ユウも白い湯気の漂う森から視線を外し、地下遺跡の入口を見る。
「やっぱり、下をどうにかしないと駄目だね」
「そういうこと」
エルメリアが答えた。
大噴泉撃退砲を作り上げるためにほとんど休まず動き続けていたため、顔にははっきりと疲労が浮かんでいる。それでも手にはすでに、地下遺跡から写し取った古代文字の記録が握られていた。
その姿を見たドグランが眉を寄せる。
「お前、少し寝ろ」
「あなたに言われたくない」
「俺は寝るぞ」
エルメリアが初めて顔を上げた。
「……裏切った」
「何が裏切りだ。完成したら休むって言っただろうが」
ダンが二人の間へ入る。
「いや、二人とも寝ろ。今すぐ」
ユウも当然のように頷いた。
「温泉入ってから寝た方がいいと思う」
「そこだけは絶対ぶれないんだな」
もっとも、地下の状況を確認しないまま全員で長時間休むわけにもいかなかった。
そこで負傷者の手当てと簡単な食事を済ませ、短い休憩を取ったあと、ユウ、ダン、リーフェ、エルメリア、フェルザード、ミナの六人が地下遺跡へ向かうことになった。
ドグランは地上に残り、酷使した大噴泉撃退砲と配管の点検を行う。
「何かあったら呼べ。必要なら地下まで管を通してやる」
ダンが呆れた顔を向けた。
「もう何でも温泉管で解決しようとすんなよ」
ドグランは悪びれもせず笑う。
「使えるものを使う。それが職人だ」
地下遺跡へ降りると、地上の歓声が嘘だったかのような静けさに包まれた。
青白い魔導灯が長い通路を照らし、その先では巨大な古代の鍵が扉へ差し込まれたまま、弱い光を放ち続けている。
エルメリアは迷うことなく管理装置へ近づいた。
「まず蓄積槽の状態を確認する」
手をかざすと、壁面に青白い文字が浮かび上がった。
『世界精神安定度――八十・一パーセント』
以前より僅かに上昇している。
しかし、その下に続いて表示された数字を見た瞬間、誰も喜ぶことはできなかった。
『蓄積槽使用率――九十九・七二パーセント』
ダンが思わず顔をしかめる。
「……増えてるじゃねぇか」
ミナも表示を見上げた。
「地上の霧、消したのに?」
「外にあった分を浄化しても、ここに溜まっている分には影響しないみたい」
エルメリアが表示を確認しながら答えると、リーフェも納得したように頷いた。
「大噴泉撃退砲で処理したのは、ここへ吸収しきれず未踏領域に残っていた瘴気。こっちは、それより前から何百年も蓄積されてきた分ということね」
ダンが巨大な扉を見る。
「つまり地上でいくら温泉ぶっかけても、この中身は減らない?」
「残念ながら、そういうこと」
「やっぱり簡単には終わらねぇか」
その間もフェルザードは、扉へ差し込まれた巨大な鍵を無言で見つめていた。
「あいつが最後の仕掛けを別に用意していた理由は、これだろう」
「あいつって、昔の勇者?」
ユウが尋ねると、フェルザードはゆっくり頷く。
「瘴気を集めるだけでは、いつか必ず限界が来る。あいつがそこまで考えていなかったとは思えん」
エルメリアも同意するように記録へ目を落とした。
大噴泉撃退砲を作る過程で、温泉の魔力と古代魔法を組み合わせたことで、この地下遺跡に使われている術式について理解できる部分が以前より増えている。
「前は意味が分からなかった場所も、今なら読めるかもしれない」
ユウが不思議そうに聞く。
「古代文字が急に読めるようになったの?」
「文字そのものは前からある程度読めてた。ただ、この記号が何を意味する術式なのか分からなかったの」
エルメリアは壁に刻まれた複雑な記号の一つを指した。
「撃退砲で温泉の魔力を増幅した時、この記号とかなり近い構造を使った。だから今なら分かる」
指先がその文字をなぞる。
「『瘴気を安定魔力へ変換』」
ダンが目を丸くする。
「消すんじゃないの?」
「完全に消滅させるわけじゃないみたい。瘴気に染み込んだ負の感情による偏りを取り除いて、普通の魔力へ戻す仕組み」
リーフェも表示へ近づく。
「瘴気そのものが、魔力に強い負の感情が混ざったものなら、その感情だけを浄化して元に戻すということね」
「理論上は」
ダンの顔がすぐに嫌そうになる。
「また理論上かよ」
エルメリアもさすがに苦笑した。
「でも今回は、過去の勇者がそのための設備まで用意してる」
彼女が管理装置へ魔力を流すと、壁面の表示が切り替わった。
そこには地下遺跡全体の構造図らしきものが浮かび上がっている。
現在いる管理区画。
その奥にある蓄積槽。
そしてさらに下には、これまで誰も存在を知らなかった巨大な円形区画が描かれていた。
ユウが身を乗り出す。
「ここは?」
エルメリアが横に表示された古代文字を読む。
「……『浄化炉』」
ダンが眉を上げた。
「炉?」
「名前から考えるなら、蓄積槽に溜めた瘴気を処理するための場所でしょうね」
ユウがフェルザードを見る。
「それが最後の仕掛け?」
「おそらくな」
だが、構造図をさらに調べていたエルメリアの表情がすぐに険しくなった。
「問題がある」
ダンが露骨に嫌な顔をする。
「もうその言葉聞きたくないんだけど」
「浄化炉は今の状態では自動起動できない。長期間停止していた影響で、内部の調整値がずれてる」
画面にいくつもの項目が並ぶ。
魔力流入量。
精神安定値。
地脈圧。
源泉魔力。
瘴気濃度。
その大半が赤く点滅していた。
ユウが表示を見ながら聞く。
「このまま動かしたらどうなる?」
エルメリアは少し間を置いた。
「瘴気を一度に処理しようとして制御不能になる可能性がある。最悪の場合、蓄積槽に入っているものを全部外へ吐き出す」
ダンの顔が引きつる。
「……世界中から何百年も集めた負の感情を?」
「そう」
「それだけは絶対やめよう」
珍しく全員が同時に頷いた。
ミナも小さく、しかしはっきりと言う。
「だめ」
リーフェは構造図へ近づき、浄化炉まで続く経路を目で追った。
「安全に動かす方法は?」
エルメリアも同じ経路を指でなぞる。
「直接行って、制御部を調整するしかない」
ダンが顔をしかめた。
「直接って……」
「浄化炉の制御部は地下遺跡の最深部。ここからさらに下よ」
ダンは天井を仰ぐ。
「やっぱり行くんだな……」
「行かなければ根本的には何も解決しない」
その時、ユウが別の表示に気づいた。
「この文字、温泉と関係ある?」
エルメリアが確認すると、少し驚いたように目を細める。
「ある。それどころか、かなり重要みたい」
表示された文字をゆっくり読み上げる。
「『浄化媒体――源泉魔力』」
ダンが黙った。
数秒してから、疲れたように口を開く。
「つまり最後まで温泉?」
「そうみたい」
エルメリアが頷く。
「瘴気を普通の魔力へ戻す時に、やわらぎの湯の源泉が持っている安定化作用を使う設計になってる」
ユウの表情が少し明るくなった。
「それなら僕にもできることがありそう」
ダンが横を見る。
「そこ喜ぶところなの?」
「古代魔法だけなら僕、何も分からないし」
リーフェが小さく笑った。
「確かに、浄化炉を動かすならユウの【水質変化】が必要になる可能性は高いでしょうね」
フェルザードも静かに頷く。
「ここまで仕掛けが動いたのも、お前が長い間この源泉を整え続けてきたからかもしれん」
ユウは少し困ったような顔をした。
「僕は普通に温泉を整えてただけだけど」
ダンが肩をすくめる。
「その『普通』が普通じゃないのは、もう今さらだろ」
その直後、管理装置から無機質な音声が流れた。
『警告。蓄積槽使用率――九十九・七三パーセント』
全員の視線が表示へ集まる。
ほんの僅かではあるが、また数字が増えていた。
続けて別の音声が流れる。
『最終浄化工程の実行を推奨』
構造図の最下部が青白く輝き、浄化炉へ続く一本の経路が表示された。
それは今までただの壁だと思われていた場所へ続いている。
やがて遺跡の奥から低い振動が伝わってきた。
ごごご、と重い音を響かせながら石壁が左右へ分かれ、その向こうに地下へ続く長い階段が姿を現す。
底は見えない。
ただ遥か下から、淡い青色の光と、温泉とはまったく違う重苦しい魔力だけが伝わってくる。
ダンが入口から階段を覗き込んだ。
「……最深部って言うだけあって、本当に深そうだな」
ミナも隣から下を見る。
「暗いね」
「そうだな。だから俺が先頭じゃなくても問題ないと思う」
言いながら、ダンはすぐにフェルザードを見る。
古竜が呆れたように片眉を上げた。
「まだ言うか」
「こういう時こそ古竜の頼もしさを見せてくれ」
「単に先頭が嫌なだけだろう」
「細かいことは気にするな」
フェルザードは小さく息を吐いた。
「分かった。俺が先に行く」
ダンがすぐに頷く。
「よし!」
「そこまで嬉しそうにするな」
二人のやり取りに、ユウは少しだけ笑った。
けれど、視線を階段の先へ向けた時には、その表情も自然と引き締まる。
地上の黒い霧は退けた。
やわらぎの谷も守ることができた。
それでも今回の戦いは、地下に溜まり続けている問題が外へ姿を現しただけにすぎない。
本当に解決しなければならないのは、この地下で何百年もの間、世界中の負の感情を受け止め続けてきた仕組みそのものだった。
満杯寸前の蓄積槽に残る瘴気を安全に処理し、過去の勇者が残した浄化炉を再び動かす。
そのためには、さらに地下へ降りなければならない。
ユウは階段の先を見つめたまま言った。
「行こう」
フェルザードが先頭に立ち、その後ろへユウ、ミナ、リーフェ、エルメリア、ダンが続く。
六人は淡い青色の光だけが続く長い階段へ、ゆっくりと足を踏み出した。
地上の脅威を大噴泉撃退砲で退けた彼らは今度こそ問題を根本から終わらせるため、過去の勇者が残した地下遺跡の最深部へ向かって降りていった。
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