湯気を放つ砲身
大噴泉撃退砲が完成してから、前線の空気は明らかに変わっていた。
それまで黒い霧の魔獣たちは、倒しても瘴気へ戻り、散った瘴気が再び集まって別の形を作るという厄介な性質を見せていた。
しかし、大噴泉撃退砲から放たれた温泉水は違った。
ユウの【水質変化】によって浄化作用を高められた湯は、黒い霧そのものを白い蒸気へ変え、これまで何をしても残り続けていた瘴気を確実に消していった。
初弾の威力を目の当たりにした者たちは、ほんの一瞬だけ戦うことすら忘れていた。
「……すげぇな」
ダンが大剣を持ったまま呟く。
その前方では、つい先ほどまで数体の大型魔獣が立っていた場所から白い湯気が立ち上っているだけで、辺りを覆っていた黒い霧はほとんど残っていない。
グラディウスも剣を下ろし、巨大な砲台へ目を向けた。
「本当に消えたのか」
「瘴気反応は、ほぼ消えてる」
操作台の横で魔力反応を確認していたエルメリアが答える。
顔には隠しようのない疲労が浮かんでいるものの、今は研究者としての興奮の方が勝っているらしい。
「普通の温泉水を撒いた時とは比較にならない。ユウが調整した湯と増幅術式、それに圧力を合わせたことで浄化力そのものが広い範囲へ届いてる」
「そりゃ、あれだけの勢いで撃てばな!」
ダンが巨大な砲身を指差す。
砲口からは、まだ白い湯気がもうもうと立ち上っていた。
そこだけを見れば温泉施設の一部にも見えなくはない。
だが、頑丈な支柱に固定された砲身と、その後ろで低い唸りを上げている三基の圧送装置が、その印象を完全に壊していた。
どう見ても普通の温泉設備ではない。
その威力を間近で見ていたバルグレイだけは、非常に満足そうだった。
「もう一発撃とう!」
グラディウスが即座に答える。
「お前は操作するな」
「なぜだ!」
「まだ調整中だからだ」
「撃つだけだろう!」
「だからお前にはやらせられん!」
バルグレイが大剣を担いだままグラディウスへ詰め寄る。
「騎士団長、俺を何だと思っている!」
「力加減を知らない男」
「言ったな!」
「前線で喧嘩すんな!」
ダンの声が響く。
その横では、なぜかカヤまで元気よく両手を上げていた。
「私も撃ってみたい!」
「お前まで乗るな!」
「だって絶対楽しそうじゃん!」
「遊具じゃねぇんだよ!」
そんなやり取りを聞きながら、リーフェは呆れたように砲身を見上げた。
「でも、これで前線の負担はかなり減りそうね」
「そうとも限らない」
エルメリアの声から、それまでの興奮が消えた。
彼女が見ているのは、迷いの森のさらに奥だった。
全員もその視線を追う。
先ほどの一撃によって、谷の近くまで迫っていた瘴気は大きく削られている。
しかし未踏領域の奥には、まだ濃い黒色が残っていた。
そして、その中で何かが動いている。
一つや二つではない。
大小いくつもの影が、霧の奥をゆっくりと進んでいた。
ちょうどその時、偵察へ出ていたヴァルトが木々の間から戻ってくる。
「奥から新しい群れが来る」
ダンが顔をしかめた。
「まだいるのかよ」
「数は……かなり多い」
「かなりって、どれくらい?」
ヴァルトは少し考えてから答えた。
「数えるのをやめた」
「それ一番聞きたくなかった!」
ダンが叫んだ直後、森の奥から重い咆哮がいくつも重なって響いた。
黒い霧が大きく揺れる。
最初に姿を現したのは熊型だった。
その横から狼型が続き、さらに何本もの巨大な角を持つ四足獣が木々を押し退けるように現れる。
上空では、翼のような黒い膜を広げた個体まで浮かび上がった。
しかも、どの魔獣も先ほどまでの個体より濃い瘴気を纏っていた。
エルメリアの表情が変わる。
「瘴気濃度が高い」
リーフェもすぐに杖を構えた。
「奥に溜まっていたものが一気に流れ出してきたみたいね」
フェルザードが黒い霧を見つめながら低い声で言う。
「撃退砲によって谷周辺の瘴気が大きく減ったことで、未踏領域に滞留していた瘴気の流れまで変わったのかもしれん」
ダンが振り返る。
「流れが変わる?」
「濃い瘴気は周囲の魔力や瘴気の偏りに影響される。こちら側が一気に浄化されたことで、奥に残っていたものまで谷へ流れ込み始めた可能性がある」
隣で聞いていたユウが首を傾げる。
「掃除し始めたら、奥からゴミが全部出てきたみたいな話?」
フェルザードは少し考えた。
「随分軽い例えだが、近い」
ダンが即座に突っ込む。
「世界中の負の感情をゴミ扱いすんなよ!」
だが、状況そのものは笑っていられるものではなかった。
先頭の狼型が走り始める。
続いて二体、三体と地面を蹴り、その背後からも次々と黒い影が現れた。
先ほどより数が多い。
しかも一体一体が濃い瘴気に包まれている。
グラディウスはすぐに剣を構え直した。
「防衛線を戻す! 先ほどの一撃で空いた場所を埋めろ!」
王国騎士たちが動く。
「騎士団、前へ!」
続いてバルグレイも声を張った。
「魔王軍も続け! 正面を開けすぎるな!」
冒険者たちも一斉に動き始める。
ダンとガレスたちは中央へ入り、セシルは後方で魔法の準備を始める。フィアは負傷者たちを確認しながら、次に治療が必要な者のところへ走った。
リーフェとセレディアも、押し寄せる瘴気が左右へ広がらないよう風と氷の魔法を展開していく。
その時、砲台からドグランの声が飛んだ。
「ユウ! 次を撃つぞ!」
ユウが振り返る。
「もう大丈夫なの?」
「圧力調整は済んだ!」
その横でエルメリアが操作盤を確認しながら付け加える。
「ただし、今度はさっきと違う撃ち方をする」
ダンが露骨に嫌な顔をした。
「違う撃ち方?」
エルメリアは砲身の先へ手を向ける。
「さっきは温泉水を水柱のまま撃った。でも距離が伸びるほど途中で湯が散って、浄化力が落ちていく」
「じゃあどうするんだ?」
「温泉の魔力と成分を、高圧の蒸気へまとめる」
ユウが目を丸くした。
「湯気?」
「そう。温泉の性質を保ったまま高圧蒸気へ変換して、大きな塊として撃ち出す。瘴気の中心で広げることができれば、さっきより遥かに広い範囲を一度に浄化できるはず」
ダンの顔が引きつる。
「それ、もう温泉の使い方じゃないよね?」
ドグランが豪快に笑った。
「湯気だろうが湯は湯だ!」
「そういう問題なの!?」
そんな二人を横目に、ユウは砲台へ近づくと、源泉に繋がっている太い温泉管へ手を置いた。
「やってみる」
リーフェが振り返る。
「ユウ?」
「蒸気になっても温泉の性質が残るように調整してみる。精神安定と魔力安定の作用も、もう少し強めてみるよ」
「そんなことできる?」
「たぶん」
リーフェは思わず苦笑した。
「相変わらず『たぶん』でとんでもないことするわね」
ユウは目を閉じ、【水質変化】を発動した。
源泉から送り込まれてくる湯の温度、魔力濃度、含まれている成分を一つずつ確かめながら、少しずつ状態を変えていく。
普段なら、人が気持ちよく湯に浸かれるよう調整するための力だった。
今回も、本質的には同じだ。
誰かを傷つける力へ変えるわけではない。
怒りを鎮め、疲れを癒やし、乱れた魔力を穏やかにする。
やわらぎの湯が元々持っているその性質を、黒い瘴気へ届く形へ整えているだけだった。
しばらくしてユウが目を開く。
「これならどう?」
エルメリアがすぐに魔力反応を確認する。
その目が見開かれた。
「……すごい。蒸気に変換しても性質がほとんど崩れてない」
ドグランが操作台へ手を置いた。
「なら次だ!」
三基の圧送装置が順番に動き始める。
ごおおおおっ、と腹の底へ響くような音が広場を震わせた。
第一圧送。
第二圧送。
そして第三圧送。
温泉水が太い管の中を通りながら熱と魔力を加えられ、高圧の蒸気へと変換されていく。
やがて砲身の先から白い湯気が漏れ始めた。
ただし今回は、そのまま外へ流れていかない。
エルメリアの術式に押さえ込まれ、砲口の前へ少しずつ集まっていく。
ダンが目を丸くした。
「……何だ、あれ」
カヤも隣で見上げる。
「雲みたい」
実際、その表現が一番近かった。
真っ白な湯気が何層にも重なり、その内部には温泉特有の柔らかな魔力が凝縮されている。
白い光が淡く明滅する巨大な蒸気の塊は、まるで小さな雲を砲口の前へ無理やり閉じ込めたようだった。
エルメリアが魔導回路を確認する。
「圧力、安定」
ドグランが巨大なレバーへ手をかけた。
「角度は!」
前方を確認していたヴァルトが答える。
「このままなら、黒い霧の中心まで届く」
セレディアも杖を振る。
「左右へ逃げる流れは私が止めるわ」
リーフェが風の流れを確認しながら頷いた。
「飛んでいる間は私が風を抑える。途中で散らさせない」
前線ではグラディウスがすぐに号令を飛ばした。
「全員、射線から外れろ!」
バルグレイも声を張る。
「正面を空けろ! 巻き込まれるなよ!」
王国兵も魔王軍兵も、冒険者たちも一斉に左右へ退く。
グーちゃんとヘルウルフたちも森の端へ移動した。
やがて正面には、砲身から黒い霧へ続く一本の道ができあがった。
その先を何十体もの瘴気の魔獣が谷へ向かって走っている。
ダンはその数を見て、さすがに表情を引き締めた。
「……本当にあれ全部やれる?」
ユウは砲口の前に浮かぶ白い塊を見る。
「たぶん」
「またそれかよ!」
ドグランが笑う。
「なら撃って確かめればいい!」
「職人気質で押し切るな!」
そのやり取りの間にも、魔獣たちは近づいてくる。
地響きが大きくなる。
黒い霧の奥で赤黒い目がいくつも光り、咆哮が重なって森を震わせた。
エルメリアが魔導回路へ魔力を流し込む。
「増幅術式、最大出力!」
砲身に刻まれた文様が一斉に光った。
白い湯気がさらに凝縮され、徐々に球体へ近い形へまとまっていく。
その内部で魔力が渦を巻き、砲身まで小刻みに震え始めた。
ドグランは計器を確認してからユウを見る。
「行くぞ!」
ユウが頷く。
「うん!」
前方では魔獣の群れが迫っている。
グラディウスたちは左右へ退いたまま武器を構え、もし失敗した時にはすぐ飛び出せるよう備えていた。
ドグランが一度だけ大きく息を吐く。
そして、レバーを倒した。
「発射!」
轟音が響いた。
大噴泉撃退砲から、巨大な湯気の塊が撃ち出される。
白い尾を引きながら、黒い霧の中心へ向かって一直線に飛んでいく。
バルグレイが思わず目を輝かせた。
「おお!」
その隣では、グラディウスまで言葉を失っている。
白い湯気の塊と、押し寄せてくる黒い魔獣たちとの距離が急速に縮まる。
そして。
群れの中央へ到達した瞬間、湯気弾が弾けた。
爆発音はなかった。
代わりに、圧縮されていた白い蒸気が一気に解放される。
柔らかな湯気が巨大な波となって森の入口を覆い、そのまま未踏領域の方角へ広がっていった。
黒と白が触れる。
次の瞬間。
じゅうううううっ――。
それまでとは比較にならないほど大きな音が森全体へ響いた。
先頭を走っていた狼型の魔獣が白い蒸気に包まれる。
ほんの一瞬だけ輪郭が揺れ、そのまま身体そのものが崩れていった。
核を狙う必要すらない。
温泉の魔力が身体を構成する瘴気へ直接入り込み、内側から浄化している。
続いて熊型。
その後ろにいた角を持つ四足獣。
上空を飛んでいた翼型まで、白い湯気に触れたものから次々と形を失っていく。
ダンが目を見開いた。
「……嘘だろ」
だが、浄化はまだ終わらない。
リーフェが操る風に乗り、温泉の蒸気はさらに森の奥へ広がっていく。
黒い霧は白い湯気へ触れた端から薄くなり、そのまま消えていった。
霧の中で無数に浮かんでいた赤黒い目も、一つ、また一つと消えていく。
それまで絶え間なく響いていた魔獣たちの咆哮まで、少しずつ少なくなっていった。
誰も声を出さない。
王国騎士も、魔王軍の兵士も、冒険者たちも、ただ目の前で起きている光景を見つめていた。
そして、しばらくすると。
視界を覆い尽くしていた黒い霧が、完全に消えた。
残ったのは白い湯気だった。
朝のやわらぎの湯で見慣れているものと、ほとんど変わらない柔らかな蒸気が森の木々の間を漂っている。
その向こうには、これまで瘴気に覆われて見えなかった森が姿を現していた。
静かだった。
魔獣の姿はない。
黒い霧も残っていない。
エルメリアは震える指で魔力反応を確認する。
一度だけではない。
表示を変え、範囲を広げ、何度も確認する。
そしてようやく顔を上げた。
「……瘴気反応、消失」
誰もすぐには反応しなかった。
その言葉が意味することを理解するまで、ほんの少し時間が必要だった。
最初に声を上げたのはカヤだった。
「……勝った?」
リーフェも周囲を確認してから、ようやく笑みを浮かべる。
「少なくとも、地上へ押し寄せてきた分は全部消えたみたい」
「全部!?」
カヤの尻尾が大きく揺れた。
その言葉をきっかけに、防衛線のあちこちから歓声が上がる。
「やった!」
「消えたぞ!」
「黒い霧がない!」
王国騎士たちが剣を掲げれば、そのすぐ隣では魔王軍の兵士たちも武器を高く持ち上げる。
冒険者たちも互いの肩を叩き合い、長く続いた緊張からようやく解放されたように笑っていた。
グーちゃんとヘルウルフたちも空を見上げる。
「わおおおおん!」
いくつもの遠吠えが重なって谷へ響いた。
その中でダンは、巨大な砲身と白い湯気に包まれた森を何度も見比べていた。
「……温泉で全部消しちまった」
横にいたユウが頷く。
「効いたね」
ダンが勢いよく振り返った。
「『効いたね』じゃねぇよ! 今の何だよ! 巨大な湯気を撃ち出して、魔獣の群れごと消したぞ!」
ユウは少し考える。
「大噴泉撃退砲?」
「名前を聞いてるんじゃねぇ!」
周囲から笑い声が上がった。
グラディウスもようやく剣を鞘へ収め、大きく息を吐く。
「まったく、とんでもない谷だな」
隣にいたバルグレイは、そんな感想など気にする様子もなく豪快に笑った。
「気に入った! やはり次は俺に撃たせろ!」
「駄目だ」
グラディウスは即答した。
「まだ言うか!」
「今のを見たから余計に駄目だ!」
「なぜだ!」
「お前なら森ごと狙う!」
バルグレイは少し考える。
「否定はせん!」
「否定しろ!」
ダンのツッコミが響き、それまで張り詰めていた空気が一気に緩んでいった。
だが、その中でフェルザードだけは歓声に加わらず、静かに未踏領域の方角を見つめていた。
地上へ押し寄せた瘴気は、確かに浄化された。
森から黒い霧も消え、魔獣の気配もなくなっている。
それでも、この問題の根本が解決したわけではない。
地下に存在する瘴気の蓄積槽は、今も限界近くまで満たされたままだ。
地上へ漏れ出した分を浄化できたとしても、その下には長い年月をかけて世界中から集められた膨大な瘴気が残っている。
ユウもやがて歓声の向こうから視線を外し、地下遺跡のある方角を見た。
先ほどまで少し笑っていた顔が、静かになる。
「次は、下だね」
ダンもその視線を追う。
しばらく何も言わなかったが、やがて小さく頷いた。
「……だな」
地上を襲っていた危機は、ひとまず去った。
職人の技術。
研究者の知識。
騎士と魔族、冒険者たちの力。
そして、やわらぎの湯。
谷にあるものをすべて使って完成した大噴泉撃退砲は、未踏領域から押し寄せた黒い霧を白い湯気へ変え、防衛線を守り切った。
しかし、過去の勇者が残した最後の仕掛けは、まだ本当の意味では終わっていない。
白い湯気に包まれた地上の遥か下で、満杯に近い瘴気の蓄積槽は今も静かに存在し続けていた。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
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