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異世界温泉宿 ~使えないスキルと言われた俺、秘境の谷で温泉を作ったら人も魔物も通う場所になった~  作者: 堺久遠


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巨大スプリンクラー構想

黒い霧にやわらぎの湯の魔力が効くと分かってから、前線での戦い方は大きく変わっていた。


剣や槍で瘴気の魔獣を足止めし、露出した核を破壊する。その直後、残った黒い霧へ温泉水を浴びせて完全に浄化する。


単純な方法ではあったが、効果そのものははっきりしていた。


問題は、その温泉水をどうやって前線まで届けるかだった。


「次の桶!」


「こっちはもう空だ!」


「樽、あと三つ来るよ!」


あちこちから声が飛び交い、カヤや谷の住人、職人たちが荷車を使って温泉水を運び続けている。


前線では、バルグレイが運ばれてきた大きな桶を両手で持ち上げた。


「まとめて浴びろ!」


豪快に振り抜かれた桶から大量の温泉水が飛び、黒い霧へ降り注ぐ。


じゅうっ、と激しい音が響き、黒い瘴気が白い蒸気へ変わった。


その向こうで瘴気の魔獣が大きくよろめき、身体を覆っていた霧が薄くなる。


「核が見えた!」


グラディウスが一気に踏み込んだ。


鋭く振り抜かれた剣が露出した黒い核を断ち切る。


魔獣の身体が崩れ、再び瘴気となって地面へ落ちるものの、先ほど撒かれた温泉水へ触れるたびに白い蒸気へ変わり、そのまま消えていった。


「効いてはいるんだけどな!」


ダンは大剣を構えたまま、後方を何度も往復している住人たちを見る。


「このままじゃ、戦ってる奴より運んでる奴の方が先に倒れるぞ!」


実際、その言葉は冗談ではなかった。


桶なら一人でも運べるが、一度に使える量が少ない。


樽ならある程度まとまった量を運べるものの、その分だけ重くなり、何人も必要になる。


荷車を使えば効率は上がるが、戦闘が続いたことで森の入口付近は大きく荒れ、車輪が土に取られる場所も増えていた。


何より、黒い霧が広がる速度に対して、人が湯を運ぶ速度がまったく追いついていない。


リーフェも魔法を維持しながら前線を見渡した。


「散布方法を変えないと駄目ね。今は必要な場所へ必要な量を届けるだけで手いっぱいになってる」


セレディアも黒い霧へ冷気を送りながら頷く。


「しかも霧が広がるたびに人が追いかけている。このままでは瘴気の方が速いわ」


その少し後ろでは、エルメリアが地面へ残った温泉水と瘴気の反応を観察しながら、魔導書へ何かを書き込んでいた。


「効果そのものは十分。ただ、使い方に無駄が多い」


ダンが振り返る。


「どういうこと?」


「温泉水そのものを大量にぶつければいいわけじゃない。瘴気を浄化しているのは、湯に含まれている特殊な魔力よ。だったら一か所へ樽一杯ぶちまけるより、広い範囲へ薄く均等に撒いた方が効率がいいはず」


その説明が終わると、なぜか周囲の視線が自然とバルグレイへ向いた。


ちょうど空になった桶を抱えていたバルグレイが眉を寄せる。


「何だ?」


グラディウスが真顔で答えた。


「お前の使い方が一番効率が悪かったらしい」


「豪快でいいだろう!」


「効率の話をしている!」


「ちゃんと消えていたぞ!」


「効いてはいた!」


また二人が言い合い始め、ダンが額を押さえた。


「戦場で温泉の撒き方について喧嘩すんな!」


その頃。


地下遺跡から戻ってきたユウは、谷の入口近くに積み上げられた大量の空桶と樽を見て足を止めていた。


「……何これ?」


ちょうど湯の入った桶を運んでいたカヤが、ユウを見つけて駆け寄る。


「ユウ! 温泉が効く!」


「温泉?」


「黒い霧に!」


カヤの説明だけではよく分からず、ユウはダンやエルメリアたちから現在の状況を一通り聞くことになった。


エルメリアが持っていた少量の温泉水が瘴気を浄化したこと。


そこから桶や樽で大量の湯を運ぶようになったこと。


そして今は、その運搬が完全に追いつかなくなりつつあること。


話を聞き終えたユウは、前線をしばらく眺めた。


「なるほど」


ちょうど戻ってきたダンが即座に反応する。


「なるほどじゃねぇよ。何とかならない?」


「温泉水を運ぶのが大変なんだよね」


「そう! まさにそこ!」


ユウは少し離れた源泉の方向へ目を向ける。


現在も源泉からは大量の湯が流れ、大浴場や効能特化湯、大型種族用の浴槽へ送られている。


さらに今では、天界分館へ湯を送るための空中湯樋まで完成していた。


そこにはドグランたちが何度も試行錯誤を重ねて作り上げた、かなり高度な圧送技術が使われている。


ユウは源泉から前線へ視線を戻し、しばらく考えたあとに言った。


「運ばなければいいんじゃない?」


ダンの動きが止まる。


「……何?」


「温泉水」


ユウは森の方を指差した。


「あそこまで直接送ればいい」


カヤの耳がぴくりと動く。


「パイプ?」


「うん。ただ流すだけだと一か所にしか届かないから、広く撒けるようにした方がいい」


その言葉にエルメリアも興味を示して近づいてきた。


「広くって、どうやって?」


ユウは少し考えながら、両手で大きな円を描くような仕草をする。


「畑に水を撒く道具みたいなもの」


ダンが眉を寄せる。


「畑?」


「管に小さな穴をたくさん作って、圧力をかけた水をそこから飛ばすんだよ。上から広く撒けば、一か所ずつ人が運ばなくても済む」


リーフェがすぐに意図を理解した。


「雨みたいに降らせるってこと?」


「そう。それをもっと大きくして、温泉でやる」


ダンは数秒黙った。


「……温泉を?」


「うん」


「戦場に?」


「うん」


「上から降らせる?」


「そう」


ダンは額を押さえた。


「また変なこと思いついたな!」


そこへ、前線へ運ぶ樽や荷車の修理をしていたドグランがやってきた。


「何を思いついた?」


ユウは近くに落ちていた木の棒を拾い、地面へ簡単な図を描く。


最初に源泉。


そこから前線まで伸びる太い管。


さらに防衛線の手前へ大きな支柱を立て、その上に横へ長く伸びる散水用の管を置く。


「源泉からここまで湯を送って、上から広く撒く」


ドグランは黙って図を見る。


その横顔を見た瞬間、ダンが嫌な予感を覚えた。


「おい、その顔やめろ」


「面白いな」


「ほら来た!」


ドグランはすぐにしゃがみ込み、ユウが描いた図へ新しい線を書き加えていく。


「普通の配管では圧力が足りん。源泉から前線まで距離があるうえに、上へ持ち上げて広範囲へ飛ばす必要がある。途中に圧送装置を入れるぞ」


ユウが聞く。


「天界へ湯を送ってる仕組みは使えない?」


「使える。あれは高所へ湯を押し上げるためにかなり強い圧を作っている。それを横方向の送水と散布へ転用すればいい」


リーフェも地面の図を覗き込む。


「どこまで撒くつもり?」


ユウは前線を見る。


黒い霧は防衛線の正面だけではなく、左右へも大きく広がっている。


「少なくとも、防衛線の前を全部覆いたい」


ダンがすぐに叫んだ。


「でかすぎるだろ!」


「だから大型にする」


「大型どころじゃねぇ!」


カヤが楽しそうに口を挟む。


「じゃあ超大型!」


「勝手に名前つけるな!」


「超大型温泉スプリンクラー!」


「もう名前決まったの!?」


カヤはすっかり気に入ったらしく、満足そうに頷く。


「分かりやすいじゃん!」


ドグランも止めなかった。


それどころか、すでに支柱の高さや配管の太さまで計算し始めている。


「霧は地面付近に集中している。あまり高くすると風で流れるな。支柱はこの程度でいい」


リーフェが風向きを確認する。


「風なら私がある程度調整できるわ。広げすぎないようにして、瘴気が濃い場所へ落とせる」


セレディアも図を見ながら考える。


「必要なら周囲の温度を下げて蒸発を抑えるわ。ただし、湯そのものを凍らせない程度に調整する必要があるけれど」


エルメリアは別のことを考えていた。


「普通の温泉水をそのまま大量に撒くより、瘴気へ反応している成分を強めた方がいい」


そしてユウを見る。


「【水質変化】でできる?」


ユウは少し考えてから頷いた。


「たぶん。精神安定と魔力安定に関係してる部分を、少し強めてみる」


ダンは周囲を見回した。


もう誰一人として、この計画を止めようとしていない。


むしろ話はどんどん具体的になっていく。


「ちょっと待て」


全員がダンを見る。


「これ、今から作る気?」


ドグランが即答した。


「当然だ」


「戦ってる最中だぞ!」


「だから急ぐ」


「何日かかるんだよ」


「何日もかけるか。今日中に形にする」


ダンが固まる。


「今日中?」


ドグランは当然のように頷く。


「天界まで温泉を通した時に比べれば簡単だ」


「比較対象がおかしいんだよ!」


だがドグランはもう聞いていなかった。


勢いよく立ち上がり、近くにいた職人たちへ声を飛ばす。


「配管できる奴を集めろ! 太い管を使えるだけ持ってこい! 天界湯樋の予備部品も使うぞ!」


「おう!」


「支柱はどうする!」


「三本用意しろ! 二本を本設置、一つは予備だ!」


「分かった!」


その声を聞いたドワーフたちが一斉に走り出す。


人間の職人も魔族の技師も、事情を聞くなり材料置き場へ向かった。


さらに、天界分館の建設に参加していた天界技師まで当然のように混ざっていく。


ダンが目を疑った。


「何で天使までいるんだよ」


天界技師が振り返る。


「空中湯樋と似た構造なので、少し興味が」


「戦場なのに理由それでいいの!?」


その間にユウは源泉から少量の湯を汲み、【水質変化】を使って調整を始めていた。


普段の温泉は、人が身体を休め、疲れを癒やし、心を穏やかにするためのものだ。


今回も、本質的には同じだった。


瘴気を攻撃するための毒へ変える必要などない。


むしろ、やわらぎの湯が最初から持っていた「落ち着かせる力」を、ほんの少し強く表へ出せばいい。


ユウは湯の感触を確かめながら、ゆっくりと性質を調整していく。


「これならどうかな」


少量の調整済み温泉水をエルメリアへ渡す。


エルメリアは地面を這っていた小さな黒い霧へ、一滴だけ落とした。


じゅっ、と音が響く。


それまでよりも広い範囲の瘴気が一気に白い蒸気へ変わった。


エルメリアの目が見開かれる。


「強い」


リーフェもすぐに反応を確認する。


「普通の湯より、明らかに浄化できる範囲が広いわ」


ダンはユウの持っている小さな器を見る。


「これを、あの馬鹿でかい装置から撒くの?」


「うん」


「完全に温泉街の発想じゃなくなってきたぞ」


カヤが笑う。


「でも温泉使ってるよ?」


「そういう問題じゃないんだよなぁ……」


その時、前線から大きな衝撃音が響いた。


全員が振り返る。


黒い魔獣が防衛線へ体当たりし、王国兵と魔王軍兵が数歩まとめて押し戻されていた。


さらに別の場所では、黒い霧が地面を這いながら防衛線の脇へ回り込んでいる。


時間は残されていない。


グラディウスとバルグレイたちが前線を維持し、冒険者たちも限界に近い身体で武器を振るい続けている。


彼らが稼いでいる時間の中で、完成させなければならなかった。


ドグランが組み上げ始めた太い配管を確認しながら声を上げる。


「ユウ! 湯の調整は任せるぞ!」


「分かった!」


「リーフェ、風の制御を頼む!」


「任せて」


「エルメリア、圧送装置の魔力回路を見ろ!」


「もう見てる!」


それぞれが迷うことなく動き始める。


ダンはそんな光景を見回し、半ば呆れたように笑った。


「温泉を戦場へ持ち込んだだけでも大概だったのに、今度は戦場全体に温泉降らせる気か」


ユウはごく普通の顔で答える。


「一人ずつ桶でかけるより早いでしょ?」


「正論なのが一番困る!」


こうして、黒い霧を広範囲からまとめて浄化するための、前代未聞の設備の建設が始まった。


超大型温泉スプリンクラー。


敵を焼き払うための兵器でもなければ、強大な攻撃魔法を撃ち出す装置でもない。


源泉から大量の温泉を引き上げ、戦場の上から雨のように降らせるためだけの巨大な設備。


だが今のやわらぎの谷にとっては、それこそが防衛線を救うために必要な切り札だった。


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