15 朝の匂いの変化
翌朝。
還らずの谷には、静かな朝日が差し込んでいた。
白い湯気を立ち上らせる温泉の周囲では、朝露を含んだ木々が柔らかく揺れ、水路を流れる湯の音が穏やかに響いている。
そして今日、宿にはいつもと違う匂いが漂っていた。
香ばしい焼き魚の香り。
湯気と一緒に広がる優しい出汁の匂い。
ほんのり甘い焼き木の実の香りまで混ざっている。
「……なんか今日すごいな」
ダンが眠そうな顔のまま鼻をひくつかせる。
建築作業が続いているせいで、最近は全員かなり疲れていた。
だがその匂いだけで、一気に空腹が刺激される。
カヤに至っては、まだ寝癖の付いたまま猫耳をぴんと立てていた。
「お腹すいた」
「起きて最初がそれか」
「いい匂いするから仕方ない」
その時、建物の奥からレインが姿を現す。
まだ顔色は少し悪い。
だが昨日よりは明らかに表情が落ち着いていた。
「……勝手に台所借りた」
「むしろ助かるよ」
ユウが笑う。
レインは少しだけ視線を逸らした。
昨日、この宿へ来てから色々なことがあった。
人と魔物が普通に一緒にいる光景。
災害級魔物が温泉へ浸かる姿。
そして何より、この場所の空気。
不思議なくらい落ち着くのだ。
張り詰めていた心が、少しずつ緩んでいく。
それでも。
料理を作ることだけは、まだ怖かった。
味覚がない。
料理人として致命的だ。
自分が作ったものが美味いのか不味いのか、それすら分からない。
だから店も失った。
厨房へ立つのも怖くなっていた。
だが今朝、目を覚ました時。
不思議と料理をしたくなった。
温泉の湯気の匂い。
静かな水音。
穏やかな空気。
それらが少しだけ、凍り付いていた気持ちを動かしたのだ。
「……できた」
レインが静かに料理を並べていく。
焼いた川魚。
温泉水で炊いたスープ。
山菜と木の実を使った小鉢。
さらに、薄く焼き上げた香ばしい平焼きパンまであった。
「おぉ……」
ドグランが目を見開く。
昨日までの料理も十分美味かった。
だが、今日は明らかに違う。
盛り付け。
香り。
火加減。
全部が丁寧だった。
カヤの尻尾がぶんぶん揺れる。
「絶対おいしいやつ!」
「食う前から分かる」
ダンも思わず頷く。
レインはそんな反応を見ながら、小さく視線を落とした。
だがその指先は僅かに震えている。
怖いのだろう。
味が分からない。
だからこそ、人の反応しか信じられない。
ユウは静かに席へ座った。
「いただきます」
全員が料理へ手を伸ばす。
最初に魚を食べたのはミナだった。
銀色の耳がぴくりと動く。
そして。
「……おいしい」
真っ直ぐな声だった。
その瞬間、レインの肩が僅かに揺れる。
続いてカヤがパンへ齧りつく。
「なにこれ!?」
猫耳が一気に立った。
外側は少し香ばしく、中は柔らかい。
温泉水のおかげなのか、生地が驚くほどしっとりしている。
さらにスープを飲んだダンが目を見開いた。
「……うまっ」
言葉が漏れる。
出汁の旨味が深い。
優しい味なのに、疲れた身体へ自然に染み込んでくる。
リーフェも静かに息を吐いた。
「丁寧ね」
短いが、かなり高い評価だった。
ドグランは豪快に笑う。
「なんじゃ! 普通に名料理人じゃねぇか!」
レインは呆然としていた。
目の前で料理が減っていく。
誰も無理していない。
自然に食べている。
美味そうに。
その光景を見た瞬間。
胸の奥で固まっていた何かが、少し崩れた気がした。
「……分からないんだ」
レインがぽつりと呟く。
全員の視線が向く。
レインは静かにスープを見る。
「自分では味が分からない。でも……」
そこで言葉が止まる。
代わりに、ほんの少しだけ笑った。
「ちゃんと、美味いんだな」
その声は小さかった。
だが昨日より、ずっと柔らかい。
ユウは静かに頷く。
「うん。すごく美味しい」
レインはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
その表情から、ほんの少しだけ力が抜けていた。
その時。
グゥゥゥゥ……。
低い腹の音が響く。
全員が振り向く。
入口には、巨大な身体を縮めながら建物を覗くグーちゃんの姿があった。
「……」
「……」
数秒の沈黙。
そしてミナがぽつり。
「グーちゃんも朝ごはん」
「タイミング完璧かよ」
ダンが吹き出す。
レインは呆然とグーちゃんを見る。
災害級魔物。
本来なら人間が恐れる存在。
だが今、その巨大な狼は少し期待したような目で料理を見ていた。
「……食うのか?」
レインが恐る恐る魚を差し出す。
グーちゃんは巨大な口で器用に魚を咥え、ゆっくり咀嚼した。
そして。
ふぅ……。
満足そうに鼻を鳴らす。
完全に“美味しかった”反応だった。
カヤが笑い転げる。
「グーちゃん気に入ってる!」
「災害級魔物に料理評価されとるぞ!」
ドグランまで爆笑していた。
レインはしばらく呆然としていたが、やがて堪えきれなくなったように小さく笑う。
それは、この谷へ来てから初めて見せた自然な笑顔だった。
白い湯気が朝日に溶けていく。
還らずの谷。
人が恐れた危険地帯。
その奥で今、温かな朝食の匂いと穏やかな笑い声が静かに広がっていた。




