肩を並べる防衛線
谷に警鐘が鳴り響いてから、状況が動き始めるまでにそれほど時間はかからなかった。
迷いの森から押し寄せてくる黒い霧は、まだ谷の入口までは届いていない。しかし森の奥では赤黒い目を持つ魔獣たちが次々と姿を現し、その数は見張りが確認できるだけでも数十体を超えていた。
ダンたちは谷の外へ続く街道まで出ると、森を正面に見る場所で足を止めた。
「ここで止めるぞ」
ダンが剣を抜きながら言う。
その隣ではガレスが周囲の地形を確認し、セシルとフィアもすでに戦闘の準備を終えていた。
谷の入口は左右を岩壁に挟まれているため、大軍が一度に押し寄せることはできない。ここで防衛線を作れば、少なくとも温泉街へ直接入り込まれる危険は減らせる。
問題は、それを守る人数だった。
「谷にいる冒険者だけじゃ足りねぇな」
ダンが森の奥を見ながら呟く。
普段から護衛や魔物討伐をしている冒険者たちはすでに集まり始めていたが、黒い霧の中に見える影は増える一方だった。
そこへ、一人の冒険者が走ってくる。
「ダンさん! 温泉に来てた冒険者たちにも声をかけました!」
「何人来る?」
「戦える奴だけで四十人くらいです!」
「十分だ。無理に出てくる必要はねぇって伝えろ。ここは依頼じゃないからな」
すると、その冒険者は少しだけ笑った。
「もう言いましたよ」
「それで?」
「帰る奴はいませんでした」
ダンが振り返る。
街道の向こうから、武器を持った冒険者たちが次々と歩いてきていた。
鎧を身につけた者もいれば、まだ温泉帰りなのか髪が濡れたままの者までいる。
その中の一人が槍を肩に担ぎながら言った。
「散々世話になってる場所だからな」
別の男も剣を抜く。
「温泉壊されたら困るんだよ」
「理由が軽いな!」
ダンが思わず突っ込む。
「でも守るんだろ?」
「ああ」
「なら何でもいいだろ」
そう言って男は笑い、防衛線へ加わった。
ダンも少しだけ笑ってから、すぐに森へ視線を戻す。
「……まあ、そうだな」
その時だった。
谷の奥から、揃った足音が聞こえてくる。
全員が振り返ると、王国騎士団の紋章を付けた兵士たちがこちらへ向かって走ってきていた。
数は十数人。
大規模な部隊ではない。
彼らは王都から駆けつけた援軍ではなく、護衛任務を終えたあと、休養のために数日前から谷へ滞在していた一隊だった。
先頭の騎士が防衛線へ近づくなり声を張る。
「何が起きている!」
ダンが森の奥を指した。
「未踏領域から黒い霧と魔獣が来てる。あれは普通の魔物じゃねぇ。瘴気が魔力と結びついて形になったものらしい」
騎士は一瞬だけ顔を険しくした。
「瘴気だと?」
「詳しいことはあとだ。今は谷へ入れたらまずい」
「分かった」
返事は早かった。
騎士は背後の仲間たちへ向き直る。
「聞いたな! 谷の入口を守る! 冒険者たちの動きを邪魔するな、空いている場所へ入れ!」
「はっ!」
兵士たちが一斉に動き始める。
ダンはその様子を見ながら眉を上げた。
「事情聞いてすぐ参加かよ」
先頭の騎士が剣を抜く。
「ここで休ませてもらった借りがある。それに、この谷には王国の民も大勢いる。見ているだけというわけにはいかん」
「頼もしいねぇ」
ダンが言った直後、今度は反対側から低い足音が響いてきた。
王国兵の何人かが反射的に武器へ手を伸ばす。
現れたのは、黒と赤を基調にした鎧を身につけた魔族の兵士たちだった。
こちらも数は多くない。
やはり谷へ休養に来ていた者や、魔族の商隊を護衛していた兵たちらしい。
その一人が周囲を見回し、ダンへ聞く。
「警鐘を聞いた。何が起きた?」
ダンは一瞬だけ王国兵たちを見る。
まだ互いに警戒している者もいる。
それでも説明しないわけにはいかなかった。
「森の向こうから瘴気をまとった魔獣が押し寄せてる。数もかなり多い。このままなら谷まで来る」
魔族兵が黒い霧へ目を向ける。
しばらく見たあと、短く答えた。
「なら、ここで止めればいい」
ダンが聞き返す。
「普通に手伝うのか?」
「何を言っている」
魔族兵は眉を寄せた。
「ここには魔族の客も住人もいる。それに俺たちだって、この谷には何度も世話になっている」
少し間を置いてから、付け加える。
「温泉がなくなるのも困る」
ダンは額を押さえた。
「お前ら本当に理由が似てきたな……」
魔族兵たちも防衛線へ向かう。
ただ、その途中でわずかな緊張が走った。
王国兵と魔王軍兵。
つい最近まで戦場で刃を交えていた者たちだ。
互いに顔を知っている者もいるのだろう。
一人の王国兵が魔族兵を見る。
魔族兵も足を止める。
ほんの一瞬、空気が張り詰めた。
だが、その沈黙を破るように、森の奥から大きな咆哮が響いた。
黒い魔獣が木々をなぎ倒しながら近づいている。
魔族兵が先に口を開いた。
「右側が空いているな」
王国兵が見る。
「ああ」
「俺たちはそこへ入る」
「……分かった。右を頼む」
「そっちは左を抜かれるなよ」
「そちらこそ」
それだけだった。
少し離れた場所では、人間の冒険者が魔族の弓兵へ声をかけている。
「射線、ここでいいか?」
「もう少し左へ寄れ。その位置だと俺たちの矢と重なる」
「了解」
別の場所では獣人の冒険者と王国兵が木材を運び、即席の防壁を組み上げていた。
誰かが命令したわけではない。
国王からの命令もない。
魔王からの指示も届いていない。
谷にいた者たちが警鐘を聞き、事情を知り、自分たちの判断でここへ集まってきた。
ダンはそんな光景を見回し、わずかに目を細める。
「……すげぇな」
ガレスが隣に立つ。
「何がだ?」
「少し前なら、こいつらを同じ場所に並べるだけで一苦労だっただろ」
王国兵。
魔王軍の兵士。
冒険者。
獣人。
谷で働いている者たちまでいる。
それぞれ立場も装備も違う者たちが、今は同じ森を見ながら肩を並べていた。
ガレスも静かに頷く。
「この谷に長くいると、誰が人間で誰が魔族か気にする方が面倒になる」
「温泉で隣になることもあるしな」
「食堂でも同じ席になる」
「大宴会までやったし」
そこまで話したところで、ダンは小さく笑った。
「そりゃ今さら、敵同士に戻れって言われても難しいか」
その瞬間、森の奥から最初の魔獣が飛び出した。
黒い狼のような身体を持った魔獣が地面を蹴り、一気に防衛線へ向かってくる。
「来たぞ!」
誰かが叫ぶ。
続いて二体、三体と黒い影が森から姿を現した。
王国兵たちが剣を構える。
魔族兵たちも武器を抜き、冒険者の魔術師たちの周囲には光が集まり始める。
その中央で、ダンも剣を正面へ向けた。
「いいか! 後ろには温泉街がある!」
「分かってる!」
冒険者から声が返る。
ダンはさらに続ける。
「宿もある! 食堂もある! 温泉まんじゅうもある!」
「そこまで守るのか!?」
誰かの突っ込みが飛んできた。
「全部だよ!」
周囲から笑い声が上がる。
ほんの少しだけ、張り詰めていた空気が軽くなった。
しかし次の瞬間には、全員の表情が戦う者のものへ戻る。
黒い霧が森の木々の間から広がり、その奥には数え切れないほどの赤黒い光が浮かんでいた。
ダンは剣を握り直す。
「ここから先は通すな!」
地響きとともに、黒い魔獣たちが一斉に走り出した。
それを迎え撃つ防衛線には、人間も魔族も関係なく、谷を守ろうとする者たちが肩を並べている。
かつてなら、互いに武器を向けていた者たちだった。
けれど今、彼らの背後にあるのは同じ場所だった。
疲れれば休める宿があり、腹が減れば温かい飯があり、湯船へ入ればくだらないことで笑える。
守りたいものが同じなら、肩を並べる理由としてはそれで十分だった。
その頃、防衛線の後方では、王国兵の一人が緊急連絡用の魔導具を起動していた。
「こちら、やわらぎの谷。未踏領域より多数の魔獣が侵攻。瘴気をまとった特殊個体を確認。至急、騎士団本隊へ報告を」
少し離れた場所では、魔族兵も同じように魔王軍へ伝令を飛ばしている。
援軍がいつ到着するかは分からない。
だからこそ、それまではここにいる者たちで耐えるしかない。
そしてついに、先頭を走ってきた黒い魔獣が防衛線へ飛び込んだ。
王国兵の剣が振り下ろされ、そのすぐ隣では魔族兵の槍が突き出される。
別々の軍に属する武器が、初めて同じ敵へ向けられた。
やわらぎの谷を守るための戦いが、始まった。
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