迫り来る黒い霧
地下に封じられていた瘴気の蓄積槽が、すでに99.7%を超えていると判明してから二日後、やわらぎの谷にはこれまでとは違う緊張が広がり始めていた。
地下遺跡ではエルメリアとリーフェが古代文字の解読を続け、フェルザードも過去の勇者から聞いた記憶を手繰り寄せながら、最終処理区画を安全に開く方法を探している。
ユウも何度か地下へ足を運んではいたが、古代魔法についてできることは多くないため、普段どおり源泉と各浴槽の状態を確認しながら、何か異常が起きていないか注意することにしていた。
その日の朝も源泉の湯量を確認していたユウのところへ、ダンが険しい顔で駆けてきた。
「ユウ、ちょっと来てくれ」
いつもの軽い調子がないことに気づき、ユウもすぐに立ち上がる。
「何かあった?」
「谷の見張りから連絡だ。迷いの森の向こうで、変な霧が出てるらしい」
「霧?」
「ただの霧なら呼びに来ねぇよ」
ダンについて高台へ向かうと、そこにはすでにガレスとセシル、それにフィアが集まっていた。
最近は定期的に谷周辺の警護を引き受けている三人だが、今日は全員が武装したままで、森の奥を真剣な表情で見ている。
「ガレス」
ユウが声をかける。
ガレスは振り返ると、すぐに遠方を指した。
「見えるか?」
ユウは指された方向へ目を凝らした。
迷いの森のさらに向こう、普段なら薄青く見える山と森の境目に、黒いものが広がっている。
雨雲とは違う。
地面に近い位置を這うように移動し、森の木々を飲み込みながら少しずつこちらへ近づいている。
「黒い霧……」
「今朝、巡回中に見つけた」
ガレスの声は重かった。
「最初は未踏領域の奥だけだったんだが、かなり速い」
セシルが杖を握りながら続ける。
「しかも、あれ自体がただの自然現象じゃない。魔力が混じってる」
そこへリーフェもやってきた。
遠くの黒い霧へ意識を向けた瞬間、その表情が変わる。
「瘴気ね」
ダンが嫌そうに振り返った。
「やっぱりか」
「地下で感じたものと同じ性質。ただし、あれはもっと荒れてる」
ユウは森の向こうを見る。
「地下のタンクから漏れたの?」
「それなら最悪だけど、たぶん違う」
リーフェは少し考えてから首を振った。
「地下から直接漏れているなら、谷の中心部で反応が出るはず。でも今の瘴気は外から来ている」
「じゃあ、どこから?」
答える声が背後から聞こえた。
「未踏領域だ」
フェルザードだった。
高台へ上がってきた古竜は黒い霧を見るなり、いつもの穏やかな表情を消した。
「竜眠山脈のさらに向こう、人も魔族もほとんど入らない地域がある。地脈が複雑に絡み、昔から瘴気が溜まりやすい場所だ」
ダンが眉を寄せる。
「でも瘴気は、この谷の地下に吸い上げてたんだろ?」
「だからこそだ」
フェルザードは森の奥を見ながら答えた。
「蓄積槽が限界へ近づき、吸収力が落ち始めている。世界中から集めていた瘴気の一部が地脈へ残るようになり、元々瘴気が濃かった未踏領域で先に影響が出たと考えるべきだろう」
その説明を聞いたダンが顔をしかめる。
「タンクが満杯になる前から、もう影響出始めてんじゃねぇか」
「99.7%ともなれば、余裕などほとんどないということだ」
フェルザードの言葉が終わった時、黒い霧の中で何かが動いた。
ユウが目を細める。
「今、何かいた?」
ガレスが剣の柄へ手を添える。
「俺も見た」
黒い霧が大きく揺れる。
次の瞬間。
森の木々の間から、巨大な影が飛び出した。
四本脚。
狼にも似ているが、身体の輪郭は安定しておらず、黒い霧が寄り集まって獣の形を作ったように見える。
頭部には赤黒い光を放つ目があり、口元からも煙のような瘴気が流れ出していた。
その後ろから、さらに一体。
二体。
三体。
次々と姿を現す。
ダンが剣へ手をかける。
「おいおい……1匹じゃないぞ」
セシルが険しい顔で数える。
「10……15……まだ増える」
フィアも息を呑む。
「森の中にもたくさんいる」
ミナが高台へ上がってきた。
黒い魔獣たちを見た途端、耳と尻尾が強く緊張する。
その後ろにはグーちゃんもいた。
普段は穏やかなグレートヘルウルフだが、この時ばかりは低く唸り、森の奥へ鋭い視線を向けている。
「グーちゃん?」
ミナが声をかける。
「グルル……」
珍しく明確な敵意を見せていた。
フェルザードが低い声で言う。
「瘴気が魔力と結びついて形を持ったか」
ユウが聞く。
「魔獣なの?」
「普通の魔獣とは違う。生き物が瘴気に侵された場合もあれば、濃い瘴気そのものが周囲の魔力を取り込んで獣の形を作ることもある」
リーフェが黒い霧を見つめる。
「つまり、倒しても普通の魔物みたいには消えない可能性がある?」
「高いな。核を壊しても、瘴気そのものは残る」
ダンが嫌そうに息を吐いた。
「厄介すぎるだろ」
その時、遠くから大きな咆哮が響いた。
黒い霧の奥で木々が倒れ、今までの個体より二回りは大きい獣が姿を現す。
熊のような巨体。
背中から伸びる異様に長い突起。
身体中から黒い霧を噴き出し、一歩進むたびに周囲の草木が色を失っていく。
さらに、その巨体の後ろにも無数の赤い光が浮かんでいた。
ダンの顔から完全に笑いが消えた。
「……これ、全部こっち来てるよな」
ガレスが頷く。
「進路は一直線だ」
「なんで谷を狙う?」
ユウが聞く。
フェルザードが少し考えたあと、源泉のある方向を見る。
「おそらく引かれている」
「何に?」
「この谷にだ」
ユウたちが振り返る。
「ここには、世界中の瘴気を吸い寄せてきた仕組みがある。蓄積槽が限界へ近づいてなお、その性質自体は残っている。外で形を持った瘴気まで、その力に引かれているのだろう」
リーフェの表情が険しくなる。
「つまり、未踏領域で発生した黒い魔獣が、瘴気の集まる場所を目指してこっちへ向かってる?」
「そう考えるのが自然だ」
ダンは頭を掻いた。
「今まで瘴気を集めてた場所だから、瘴気の魔獣まで寄ってくるってか。迷惑な話だな!」
谷の下では、まだ何も知らない客たちが普段どおり温泉へ向かっていた。
露店街ではカヤがグーちゃん抱き枕を売り、食堂からは料理の香りが漂っている。
子供たちの笑い声も聞こえる。
そこへ、あの黒い霧が届けばどうなるのか。
考えるまでもない。
ガレスが剣を抜いた。
「谷の外で止める」
セシルも杖を構える。
「中へ入れたら被害が大きすぎる」
フィアも静かに頷いた。
ダンは三人を見てから、ユウへ向き直る。
「俺も行く。あれだけの数なら、谷の警備だけじゃ足りない」
「うん」
「ユウは地下へ行け」
その言葉にユウが首を傾げる。
「僕も何かできるかもしれないよ」
「お前が前に出ても戦えねぇだろ」
ダンはいつもより真剣だった。
「それに、あいつらが出てきた原因は地下の瘴気なんだ。俺たちは外の魔獣を止める。お前は根本を何とかする方法を探せ」
フェルザードも頷いた。
「それがいい。瘴気の獣を何体倒しても、発生源が残れば繰り返すだけだ」
ユウは少しだけ考えた。
そして黒い霧を見る。
すでに先頭の魔獣たちは迷いの森へ入り始めていた。
木々の間を黒い影が走り、霧が徐々に谷へ近づいている。
「分かった」
ユウはダンを見る。
「無茶しないでね」
「それはこっちの台詞だ」
ダンが苦笑する。
「地下で変なもん見つけても、勝手に触るなよ」
「たぶん」
「そこは『分かった』って言え!」
ミナがユウの袖を掴んだ。
「わたしも地下行く」
「うん」
グーちゃんは二人を見たあと、森の方へ向き直る。
「わふ」
ミナが少しだけ耳を動かした。
「グーちゃんは、こっち守るって」
ダンが笑う。
「そりゃ頼もしい」
まもなく谷の警鐘が鳴り響いた。
温泉客や住人たちを安全な場所へ誘導するため、カヤやミナが普段使っていた案内路がすぐに避難経路として使われ始める。
騎士や冒険者たちは谷の入口へ集まり、グーちゃんの後ろにはヘルウルフたちも姿を見せた。
人間も。
魔族も。
獣人も。
以前なら互いに警戒していた者たちが、今は同じ方向へ向かって武器を構えている。
その先にあるのは、未踏領域から押し寄せる黒い霧だった。
ユウは高台からその光景を一度だけ振り返る。
世界の争いが減り、新しく生まれる瘴気も少なくなった。
それでも、長い年月の間に積み重なったものが消えたわけではない。
地下では瘴気のタンクが限界を迎えようとし、地上では行き場を失った負の感情が魔獣の姿となって押し寄せている。
世界が平和へ向かい始めたからこそ、今まで隠れていた問題が一気に表へ出てきたのかもしれない。
「行こう、ミナ」
「うん」
ユウたちは地下遺跡へ向かって走り出した。
背後では、迷いの森の奥から黒い霧が広がり、その中を無数の魔獣たちが谷へ向かって進んでくる。
やわらぎの谷を守る戦いと、地下に溜まった瘴気をどうにかするための時間との勝負が、静かに始まろうとしていた。
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