満杯になったタンク
巨大な扉に刻まれていた記録を読み解いたことで、ユウたちはようやく地下遺跡が何をしていたのかを知った。
世界中で生まれた怒りや憎しみ、恐怖や絶望といった負の感情が魔力へ染み込み、それが瘴気となって地脈を通じてこの谷へ集められていたこと。
そして、その瘴気を長い年月にわたって温泉の下へ封じ込めていたこと。
その事実だけでも十分すぎるほど驚きだったが、問題はそこで終わらなかった。
「……満杯?」
ダンが聞き返す。
エルメリアは巨大な扉の脇に浮かぶ古代文字を何度も確認し、それからゆっくり頷いた。
「そう書いてある。正確には『蓄積容量、限界値到達』」
「つまり?」
「この先にある瘴気の貯蔵設備が、もうほとんど限界」
ダンは数秒黙ったあと、天井を見上げた。
「それ、もっと早く教えてほしかった情報なんだけど」
「私に言われても困るわ」
「遺跡に言ってる!」
ユウも表示へ近づき、意味は読めないながらも赤く点滅している部分を眺めた。
昨日まで青白い光ばかりだった遺跡の中で、そこだけが明らかに警告を示すような色をしている。
「満杯になるとどうなるの?」
その質問に、エルメリアはすぐには答えなかった。
リーフェと一緒に別の表示を調べ、いくつかの文字列を照らし合わせてから、少し険しい顔になる。
「封印そのものは、まだ維持されているみたい。でも、これ以上同じ量を溜め続けるのは難しい」
「じゃあ、今も世界中から瘴気が来てるの?」
「来ているわ。ただ、以前よりかなり少ない」
リーフェが壁面に浮かんだ別の数字を示した。
「ここを見て。流入量が長期平均より大幅に減っている」
「なんで?」
ミナが尋ねる。
エルメリアは少し考え、それから昨日見た八十パーセントの表示へ目を向けた。
「世界精神安定度が上がったからだと思う」
ダンが腕を組む。
「つまり、世界の争いが減ったから、新しく出てくる瘴気も減ったってことか?」
「単純化すればそうなる」
その説明を聞いて、ユウはこれまでのことを思い返した。
人間と魔族は完全に争いをやめたわけではない。
小さな衝突もあれば、昔から続く感情のしこりも残っている。
それでも以前よりは明らかに変わっていた。
国王エルグランと魔王ゼルヴァディスは、温泉やサウナで顔を合わせるうちに、少なくとも話し合いのできる関係になった。
王国騎士団と魔王軍も、互いを見ればすぐ剣を抜くという状態ではなくなっている。
種族の違う客たちはやわらぎの谷で同じ湯へ入り、同じ食堂で食事をし、時には同じ宴会で笑うようになった。
それが少しずつ谷の外へ広がっているのだとしたら、世界で新しく生まれる負の感情が以前より減っているというのも理解できた。
「じゃあ、いい方向には進んでるんだね」
ユウが言うと、ダンも一度は頷いた。
「まあ、新しく入ってくる量が減ってるならな」
そこで言葉を止め、巨大な扉を見る。
「でも問題は、中に今までの分が山ほど残ってるってことだろ?」
「そう」
エルメリアが答えた。
「しかも、かなり長い期間の分」
フェルザードは黙ったまま扉を見ていたが、やがて低い声で口を開く。
「あいつがこの仕組みを作った時点で、いつか満杯になることは分かっていたはずだ」
「だから最後の仕掛けを用意した?」
リーフェが聞く。
「おそらくな」
エルメリアも同意するように頷いた。
「記録を見る限り、80%という条件は偶然じゃない。新しい瘴気の発生量が一定以下まで落ちた時に、貯めていた分を処理するよう設計されている」
ダンが少し嫌そうな顔をした。
「なんで世界が落ち着くまで待つ必要があるんだ?」
「処理している最中も新しい瘴気が大量に流れ込んできたら、追いつかないからじゃない?」
ユウが言う。
ダンは一瞬黙った。
「……それ、普通に筋が通ってるな」
「珍しく?」
「お前、たまにさらっと重要なこと言うよな」
リーフェも表示を見ながら頷く。
「たぶんユウの言う通り。流入量が高い状態で蓄積槽を開けば、処理が追いつかず瘴気が逆流する危険がある。でも今は新しい流入がかなり減っている」
「だから80%が解除条件」
ミナが言う。
「そういうことね」
エルメリアが答えた。
そこへ、遺跡の管理機構から再び平坦な声が響いた。
『蓄積槽、使用率九十九・七パーセント』
全員が止まった。
ダンがゆっくり天井を見る。
「……99.7?」
『警告。残存容量、零・三パーセント』
「思ってたよりギリギリじゃねぇか!」
地下遺跡にダンの声が響き渡る。
ユウもさすがに表示を見直した。
「あとちょっとしかないね」
「ちょっとどころじゃねぇ! もうほぼ満タンだろ!」
ミナが指を折るように考える。
「100になったら?」
誰もすぐ答えられなかった。
エルメリアが急いで壁の文字を読み進める。
「待って、そこもある」
リーフェも隣から覗き込み、二人で内容を確認する。
「容量限界を超えた場合……封印維持機構が優先動作へ移行」
「それなら大丈夫なのか?」
ダンが聞く。
「その代わり、世界から新しく流れ込む瘴気の回収を停止するみたい」
「止めるとどうなる?」
「世界側に残る」
その言葉で、空気が少し重くなった。
今までは世界の各地で生まれた瘴気が少しずつ地脈へ流れ、この谷へ吸い寄せられていた。
もしそれが止まれば。
怒りや憎しみが魔力と結びついたまま各地へ残りやすくなる。
そうなれば、人々の感情が不安定になり、魔物の凶暴化や魔力の乱れ、さらには小さな争いを大きくする原因になる可能性がある。
「つまり、満杯になった瞬間に地下が爆発するわけじゃないけど、世界の方が徐々に悪くなっていくってことか」
ダンが言う。
「その可能性が高いわ」
リーフェが答える。
フェルザードは腕を組みながら、巨大な鍵を見る。
「うまく作ったものだ。満杯になってもすぐ封印が破れるわけではなく、まず世界側の吸収を止める。時間を稼ぐ構造になっている」
「感心してる場合か?」
「感心はしているが、困ってもいる」
「そりゃそうだよ!」
ユウは扉の前へ立ち、改めて足元を見た。
この下にあるのは、これまで世界中で生まれてきた負の感情。
戦争で失われた者の絶望も。
憎しみ合った人々の怒りも。
誰にも言えず抱え込んだ悲しみも。
そういうものが何百年、あるいはそれ以上の時間をかけて集まり続けた結果が、九十九・七パーセントという数字になっている。
「これ、ずっと溜めてきたんだよね」
ユウが言う。
「そうなるわね」
「よく今まで持ったね」
ダンが苦笑する。
「そこは俺も思う」
フェルザードは少し遠い目をした。
「あいつは、自分が生きている間にこの仕掛けが動くとは考えていなかった」
「そうなの?」
「当時の世界は今より争いが多かった。国同士だけではなく、種族同士、魔族同士、人間同士でもな。精神安定度とやらが80まで上がる未来など、あいつ自身も見られないと思っていたのだろう」
「じゃあ、未来の誰かに任せたんだ」
「ああ」
フェルザードはユウを見る。
「それが、お前たちだったということだ」
ダンがすぐに嫌そうな顔をした。
「急に責任重くするのやめてくれない?」
「俺に言うな。残した本人に言え」
「もういねぇだろ!」
ユウは少しだけ笑ったが、すぐに巨大な扉へ視線を戻した。
怖くないわけではない。
その向こうには、想像もできないほど濃い瘴気が溜まっている。
けれど、このまま放っておくわけにもいかない。
「で、どうやって処理するの?」
その問いに、エルメリアが壁の最下部へ表示された文字を見つけた。
「そこが次の問題」
「まだあるのかよ」
「ある」
エルメリアは文字を指で追いながら読む。
「『蓄積槽限界時、古代鍵による最終処理区画の解放を推奨』」
ダンが巨大な鍵を見る。
「やっぱり開けるのか」
「そうみたい」
「で、その最終処理って何をする?」
エルメリアは続きへ目を向けたが、そこで眉を寄せた。
「……読めない」
「なんで!?」
「文字が壊れてる」
壁の一部が長い年月で傷み、その先だけが欠けていた。
読み取れたのは。
『瘴気を――へ変換』
という部分だけ。
「何に変えるんだよ!」
ダンが頭を抱える。
リーフェも困ったように笑う。
「扉を開けないと分からないみたいね」
その時、管理機構が再び告げた。
『蓄積槽、使用率九十九・七一パーセント』
ダンの顔が固まる。
「今増えた?」
「増えたね」
ユウが答える。
「何冷静に確認してんだ!」
「でも少しずつだから、まだ時間はあるんじゃない?」
「その『まだ』がどのくらいか知りたいんだよ!」
エルメリアは表示を確認し、おおよその流入量を計算する。
「今のペースなら、すぐ百になるわけではなさそう。ただし大きな戦争や災害が起きれば、一気に増える可能性はある」
「だったら、余裕があるうちに動いた方がいいな」
ダンの声からも、さっきまでの軽さが少し消えた。
フェルザードも頷く。
「そのために鍵が出てきたのだろう」
巨大な古代の鍵は、まるでその言葉を肯定するように青白く光った。
世界では今、新しく生まれる瘴気が減りつつある。
長い間続いてきた争いも、少しずつではあるが収まり始めている。
それでも過去に生まれた負の感情まで消えたわけではなく、そのほとんどがこの谷の地下へ集められ、巨大な蓄積槽を満たしていた。
世界がようやく落ち着き始めた時。
皮肉にも、その平和を支えてきた仕組みの方が限界を迎えようとしている。
ユウは扉を見上げながら、小さく息を吐いた。
「じゃあ、次はこの中を空にしないとね」
ダンが横から見る。
「温泉の湯船みたいに言うなよ」
「満杯なら抜かないと困るでしょ?」
「理屈は同じでも中身が世界中の瘴気なんだよ!」
ミナが小さく頷く。
「でも、いっぱいなら減らす」
「ミナまでユウ側か……」
ダンはため息を吐いたものの、最後には巨大な扉へ向き直った。
青白く光る古代の鍵。
その向こうにある、満杯寸前の瘴気タンク。
そして、まだ内容の分からない最後の処理装置。
過去の勇者が未来へ残した仕掛けは、世界がようやく平和へ向かい始めた今になって、本当の役目を果たそうとしていた。
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