湧き出た巨大なカギ
地下遺跡で『世界精神安定度――八十パーセント達成』という謎のアナウンスを聞いた翌朝、ユウはいつもより少し早く源泉の様子を見に来ていた。
昨日の出来事が気になっていないと言えば、もちろん嘘になる。
あの地下遺跡が何を測っていたのか。なぜ世界全体の精神状態などという、とんでもなく大きなものを数字にしていたのか。そして八十パーセントに到達したことで、この先に何が起きるのか。
エルメリアとリーフェは、もう一度遺跡の記録を詳しく調べると言っていたが、ユウには古代文字も難しい魔導理論も分からない。
だから結局、いつもの仕事をすることにした。
「温度よし。湯量も問題なし」
源泉から流れ出す湯へ手を入れ、【水質変化】で状態を確かめていく。
今では谷の温泉は大浴場だけではない。効能特化湯や大型種族用の浴槽、さらには天界分館にまで湯が送られている。
以前とは比べものにならない量の湯が必要になったため、源泉の確認は毎朝欠かせない仕事になっていた。
少し遅れて、ダンもやってくる。
「お前、昨日あんなことがあったのに普通に仕事してんのな」
「普通に仕事しないと温泉止まるし」
「それはそうだけどよ。世界精神安定度なんて言われた翌日に、最初に確認するのが湯量って普通か?」
ユウは不思議そうに見る。
「大事だよ」
「お前にとっては世界より温泉の方が身近なんだな……」
ダンは呆れながら源泉を覗き込んだ。
朝日に照らされた湯面からは、いつものように白い湯気が立ち上っている。
昨日の地下遺跡の異常など嘘だったかのように穏やかで、見たところ特に変わった様子はない。
少なくとも、最初はそうだった。
「ん?」
ユウが眉を寄せる。
源泉のさらに奥、普段なら湯が静かに湧き出している岩壁の近くで、小さな波紋が広がっていた。
一つ、二つと円が重なり、三つ目が広がった直後。
ごぼっ、と大きな泡が浮かび上がる。
ダンが反射的に一歩下がった。
「何だ?」
「分からない」
「昨日も聞いたぞ、その答え!」
さらに泡は増えていく。
ごぼ、ごぼ、と源泉の中央付近まで湯が揺れ始め、まるで温泉の底から何か巨大なものが押し上げられているようだった。
ユウはすぐに湯の流れを確かめる。
「源泉そのものは暴走してない」
「じゃあ何が出てくんだよ」
「それが分からない」
「またそれか!」
二人が見守る中、源泉の奥から低い音が響いた。
岩と岩が擦れ合うような重い音。
その直後、湯面の下から黒銀色の何かが、ゆっくりと姿を現した。
最初に見えたのは先端だった。
金属のようにも石のようにも見える鈍い銀色の表面に、幾重もの細かな文様が刻まれている。
ダンの声が低くなる。
「……何だ、あれ」
黒銀色の物体は、そのまま湯の中からゆっくりと浮かび上がってきた。
一メートル。
さらに二メートル。
さすがのユウも目を見開く。
「大きいね」
「感想それだけ!?」
やがて完全に姿を現したそれは、人間の背丈を軽く超えるほど巨大だった。
そして、その形を見た瞬間。
二人とも同じ結論に辿り着いた。
どう見ても、鍵だった。
長い柄の先には複雑に枝分かれした歯があり、その一つ一つに小さな幾何学模様が刻まれている。
持ち手にあたる部分は普通の輪ではなく、何重もの円環が重なった奇妙な形をしており、その中央には地下遺跡で見たものによく似た青白い光が灯っていた。
ダンはしばらく無言で見上げる。
「……鍵だよな」
「鍵だね」
「でかすぎねぇ?」
ユウは巨大な鍵を見上げたまま答える。
「大きい扉用なんじゃない?」
「そんな素直な話ならいいけどな!」
巨大な鍵は湯の上へ完全に浮かび上がると、そのままゆっくり源泉の縁へ移動してきた。
誰も触れていない。
それなのに、まるで意思を持っているかのように動きながら、ユウの前までやってくる。
ダンが引きつった顔になる。
「こっち来てるぞ」
「うん」
「なんでそんな落ち着いてんだよ!」
「慌てても変わらないし」
「お前のそういうところ、たまに怖ぇよ!」
やがて巨大な鍵は源泉脇の岩場へ音もなく横たわった。
湯に浸かっていたはずなのに表面はほとんど濡れておらず、刻まれた複雑な紋様だけが青白く明滅している。
そこへ、騒ぎに気づいたミナとリーフェがやってきた。
「音、聞こえた」
ミナは岩場に横たわる巨大な鍵を見て、しばらく黙る。
そして一言だけ。
「大きい」
ダンがすぐに指を差した。
「そう! 普通はまずそこだよな!」
一方のリーフェは、すでに鍵の文様へ目を向けていた。
「触らないで」
ユウが手を伸ばしかけたところで止められる。
「まだ触ってないよ」
「今、触ろうとしてたでしょう」
「ちょっとだけ」
「古代遺跡から出てきた正体不明の魔道具に、『ちょっとだけ』で触らないで」
ダンが強く頷く。
「今日はリーフェが正しい」
「今日もよ」
「そこはどうでもいい!」
ほどなくして、騒ぎを聞きつけたエルメリアもやってきた。
普段は落ち着いている彼女が珍しく早足で近づいてきたが、巨大な鍵を見た瞬間、その足がぴたりと止まる。
「……これは」
ユウが聞く。
「知ってる?」
エルメリアは近づきすぎない距離でしゃがみ込み、表面に刻まれた模様をじっと見つめる。
「昨日、地下遺跡で見た制御文様と同系統」
それを聞いた瞬間、ダンの顔が嫌そうになる。
「やっぱり昨日の続き?」
「おそらく」
リーフェも鍵の中央に灯る光を見つめながら考える。
「昨日、八十パーセントに達したから、何かの封印が解除された?」
「可能性は高い」
ダンは改めて巨大な鍵を見上げた。
「80%達成のお祝いに鍵が出てくる世界なんて、聞いたことねぇぞ」
ミナがぽつりと言う。
「景品?」
「絶対違うだろ!」
エルメリアはそんなやり取りを気にする様子もなく、持ち手部分の文様を読み取ろうとしていた。
しばらくして、その目がわずかに細くなる。
「待って。ここに文字がある」
ユウが近づく。
「読めるの?」
「一部だけ」
エルメリアは空中に指を動かしながら、刻まれた古代文字を一つずつ追っていく。
「『精神安定……第一段階……解放』」
ダンが固まった。
「第一段階?」
リーフェの表情も少し険しくなる。
「80%が、一つの条件だったってこと?」
「そう考えるのが自然ね」
ユウは巨大な鍵へ視線を戻した。
「じゃあ、これを使えば何か開くんだ」
「それは鍵なんだからそうだろ!」
ダンがすぐさま突っ込む。
ただし問題は、何を開くための鍵なのかということだった。
これだけ巨大な鍵なら、対応する扉も相当な大きさのはずだ。
しかも、古代遺跡と関係があり、この谷のどこかに存在していて、それでいて今まで誰も気づいていない扉。
ダンは腕を組む。
「地下遺跡のどっかに、まだ開いてない場所があるんじゃねぇの?」
エルメリアが頷く。
「可能性は高い」
リーフェも続けた。
「昨日の部屋よりさらに奥に、封鎖された区画があるのかもしれないわね」
ミナが巨大な鍵へ一歩近づく。
「これ、持っていく?」
その言葉で、全員の視線が鍵へ集まった。
長さは二メートルを超えている。
しかも材質も分からず、見た目からしてかなり重そうだった。
ダンがユウを見る。
「誰が持つ?」
ユウもダンを見る。
「ダン?」
「なんで俺!?」
「一番力ありそうだから」
「グーちゃん呼べよ!」
「運搬係みたいに使ったらかわいそうじゃない?」
「普段、木材運んでるだろ!」
そんなことを話していると。
巨大な鍵が、ふわりと浮いた。
全員が黙る。
鍵はそのままゆっくりとユウの横へ移動すると、まるで「ついてこい」とでも言うように、少し先へ進んだ。
ダンが呆然と口を開く。
「……自分で動けんじゃねぇか」
ユウは少し嬉しそうだった。
「便利だね」
「何で嬉しそうなんだよ!」
鍵はさらに数メートルほど進むと、地下遺跡へ続く方向を向いたまま止まった。
そして表面に刻まれた青白い紋様が、一度だけ強く輝く。
エルメリアが静かに言った。
「案内してる」
ユウが聞く。
「どこへ?」
エルメリアは地下遺跡のある方向を見る。
「おそらく、この鍵を使う場所へ」
ダンは頭を掻いた。
昨日、突然告げられた世界精神安定度八十パーセント。
そして今日、源泉から現れた巨大な古代の鍵。
どう考えても、偶然ではない。
それでもユウは、ふと源泉へ目を戻した。
少ししゃがみ込み、湯の流れをもう一度確認する。
「湯量は問題なさそう」
ダンが勢いよく振り返る。
「今それ確認してたの!?」
「だって源泉から出てきたし」
「謎の古代鍵より温泉の心配が先かよ!」
「温泉止まったら困るでしょ」
「それはそうだけど!」
横で聞いていたミナも小さく頷いた。
「大事」
「ミナまで!」
巨大な鍵は、そんなやり取りを急かすでもなく、静かに宙へ浮かんで待っていた。
この鍵が何を開くのか。
その先には何が眠っているのか。
今のところ、それを知る者は誰もいない。
ただ一つ確かなのは、やわらぎの谷の地下に眠る過去の勇者の秘密が、まだ終わっていなかったということだった。
世界精神安定度が80%へ到達したことで、長い間閉ざされていた何かが、今まさに動き始めようとしていた。
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