頼もしい看板娘
天界分館の開業記念で開かれた大宴会から数日が経ち、やわらぎの谷はようやく普段の賑わいを取り戻し始めていた。
とはいえ、あの宴会をきっかけに谷の噂はさらに広がったらしく、朝から宿の前には初めて訪れる客が絶えない。
「温泉はどこですか?」
「宿泊受付はこちらで合っていますか?」
「大浴場と露天風呂は別なんでしょうか?」
「食堂は先に席を取った方がいいのか?」
一度にいくつもの声が飛び交い、以前ならユウやダン、カヤが手分けして対応していたところだが、今はその前へ小さな影が一歩出た。
ミナだった。
「温泉は、この道まっすぐ」
まず一組目の冒険者へ道を示し、そのまま次の旅商人へ案内板を指差す。
「宿泊はここ。先に名前書く」
さらに別の客へ顔を向けると、迷うことなく続けた。
「大浴場と露天、つながってる。初めてなら主浴槽からがいい」
「食堂は?」
「今なら空いてる。でも昼前から混む」
返事が速く、無駄もないうえに全部合っている。
少し離れた場所でその様子を見ていたダンが、ぽかんと口を開けた。
「……ミナ、いつの間にあんな慣れたんだ?」
ユウも少し驚きながら答える。
「最近よく受付を手伝ってたからかな」
すると、隣で腕を組んでいたカヤが得意そうに胸を張った。
「私が教えた!」
ダンが振り返る。
「お前が?」
「なによ、その反応」
「もっと客に余計なもの売りつける方法でも教えてそうだと思って」
「失礼ね!」
カヤは頬を膨らませたあと、少しだけ声を落とした。
「……温泉まんじゅうの案内は教えたけど」
「やっぱりな!」
その声が聞こえたのか、ミナの耳がぴくりと動いたが、仕事の手は止まらない。
ちょうど入口へ、大きな荷物を背負った獣人の家族がやってきた。
母親の後ろには、小さな子供が隠れるように立っている。人の多さに圧倒されたのか、不安そうに辺りを見回していた。
ミナはその姿に気づくと、少しだけ声の調子を柔らかくした。
「初めて?」
母親が頷く。
「ええ。噂を聞いて来たんだけど、人が多くて……」
「大丈夫」
ミナは子供の目線に合わせるように少し屈んだ。
「怖い人、いない。温泉、あったかい」
子供が母親の後ろからちらりと顔を出す。
「ほんと?」
「うん」
「魔族もいる?」
「いる」
子供の表情が少し固くなる。
ミナはその変化を見ても、慌てることなく続けた。
「でも普通。ご飯食べて、温泉入るだけ」
それを聞いて、母親も安心したように笑った。
「じゃあお願いしようかしら」
「こっち」
ミナは迷いなく二人を宿泊受付へ案内していった。
その後ろ姿を見ながら、ダンが感心したように腕を組む。
「……普通に頼もしいな」
「うん」
ユウは嬉しそうに笑った。
最初にこの谷へ来た頃のミナは負傷していて、人への警戒心も強かった。必要以上に話すことはなく、自分から誰かへ近づくことも少なかった。
けれど今では、初めて来た客の顔を見れば困っていることを察し、迷っていれば先に声をかける。獣人の子供にはしゃがんで目線を合わせ、長い説明をしなくても、ミナなりの言葉でちゃんと安心させられるようになっていた。
その変化を一番よく見ているのは、やはり常連客たちだった。
「お、ミナちゃん!」
朝風呂帰りの冒険者が手を上げると、ミナも振り返る。
「おはよう」
「今日は受付か?」
「うん」
「じゃあ俺の温泉手形、あとで見てくれよ。なんか印の位置ずれててさ」
ミナは迷いなく答えた。
「それ、ドノバンに言った方がいい」
「やっぱり?」
「うん」
即答だった。
そこへ、今度は別の常連客が近づいてくる。
「ミナちゃん、今日の露天って混んでる?」
「朝は少し。昼前なら空く」
「さすが!」
「あとグーちゃんいる」
「じゃあ今行く!」
ダンが横から口を挟んだ。
「グーちゃん目的なのかよ!」
さらに今度は、ドワーフの常連がやってきた。
「嬢ちゃん、今日は熱めの湯どこだ?」
「奥の二区画。朝、ドグランが調整した」
「助かる!」
「でも長く入りすぎないで」
「分かった分かった!」
ミナはじっと相手を見る。
「前も長く入って、ふらふらしてた」
「覚えてたのか……」
「覚えてる」
ドワーフは少し気まずそうに笑いながら浴場へ向かっていった。
その背中を見送ったダンが目を細める。
「客の癖まで覚えてんのか」
カヤが頷いた。
「ミナ、そういうのすごく得意だよ。匂いとか声でも覚えるし」
「それ受付に向いてるな」
「でしょ?」
実際、その言葉どおりだった。
「あ、ミナちゃん。今日の焼き魚ある?」
「昼から」
「温泉まんじゅうの新しいやつは?」
「カヤが朝から売ってる」
「効能特化湯ってどこ?」
「右の建物。魔力回復は青い暖簾」
「グーちゃん見なかった?」
「露天」
「ありがとう!」
次から次へと常連客が声をかけ、そのたびにミナは短い言葉で的確に返していく。
ダンはしばらくその様子を眺めたあと、ぽつりと呟いた。
「……人気者だな」
「そう?」
ユウが聞くと、ダンは受付横に置かれた案内板を指した。
「そうだろ。みんなミナに聞きに来てるじゃねぇか」
確かにそうだった。
受付には分かりやすい案内板もあれば、温泉街の地図も置かれている。それでも常連客たちは、わざわざミナへ声をかけに来る。
理由はきっと単純で、ミナと少し話したいのだ。
少し無愛想に見えても、聞けばちゃんと答えてくれる。以前話したことを意外なほど覚えていて、無理をしていればさりげなく注意もしてくれる。
そして、褒めると耳が動く。
「ミナちゃん、今日も頑張ってるな」
人間の商人がそう言うと、ミナは普通に頷いた。
「うん」
「偉いな」
ぴくり。
耳が動いた。
商人が笑う。
「今、耳動いたぞ」
「動いてない」
「動いたって」
「動いてない」
「尻尾も」
「見ないで」
その瞬間、近くにいた常連客たちから笑いが起こり、ミナの頬が少しだけ赤くなる。
ダンも堪えきれず吹き出した。
「完全に看板娘だな」
その言葉に、カヤがすぐ反応する。
「待って。看板娘は私じゃないの?」
「お前は看板娘っていうか営業担当だろ」
「ひどくない!?」
「朝から客に饅頭勧めてた奴が何言ってんだ」
「売りつけてない! おすすめしてるだけ!」
二人のやり取りを聞いていたミナが、不思議そうに首を傾げる。
「看板娘?」
ユウが少し考えてから説明した。
「お店の顔みたいな人かな」
「顔?」
「その人を見ると、ここに来たなって思ってもらえるような人」
するとミナは少し考え、すぐにユウを見る。
「ユウじゃないの?」
「僕?」
「やわらぎの湯、ユウのところ」
ダンが笑う。
「まあ、それはそうなんだけどな」
カヤはミナの肩へ手を置くと、楽しそうに言った。
「でもね、ミナももう十分この宿の顔だよ。常連さん、みんなミナのこと知ってるし」
「そう?」
ミナは少しだけ周囲を見る。
ちょうどその時、先ほど案内した獣人の子供が、温泉から戻ってきたところだった。
頬は湯上がりで赤くなり、来た時とは違って表情もすっかり明るい。
ミナを見つけると、小さく手を振った。
「お姉ちゃん!」
ミナの耳が立つ。
「温泉、あったかかった!」
「よかった」
「また来る!」
「うん」
「次も案内してね!」
ミナはほんの少しだけ間を置いてから、小さく笑った。
「する」
子供は嬉しそうに母親と一緒に食堂へ走っていった。
その姿を見送ったあと、ユウが横から聞く。
「どう?」
「何が?」
「看板娘」
ミナは少し考えた。
昔なら、人前に立つ役目など嫌がったかもしれない。
けれど今は、誰かが迷っていれば声をかけられる。疲れている客を見れば温泉を勧められるし、初めて来た子供には、ここは怖い場所ではないと自分の言葉で伝えられる。
それが、少しだけ嬉しかった。
「悪くない」
そう答えると、カヤがぱっと笑った。
「じゃあ今日から正式に看板娘ね!」
「待て」
ダンがすぐに止める。
「お前はどうなるんだよ」
「私は先輩看板娘!」
「いつ先輩になった!」
「今!」
「勝手に制度作るな!」
ミナは二人のやり取りを見ながら、楽しそうに尻尾を揺らした。
するとその直後、入口からまた新しい客がやってくる。
「すみません、初めて来たんですが」
その声にミナの耳が動いた。
今度は誰かに言われるよりも先に、一歩前へ出る。
そして、少しだけ自然になった声で言った。
「いらっしゃい」
短い言葉だったが、それで十分だった。
その日から、やわらぎの湯を訪れる常連客の間では、銀髪と灰銀の尻尾を揺らしながら迷った客を手際よく案内してくれる少女のことを、親しみを込めてこう呼ぶ者がますます増えていった。
――やわらぎの湯の看板娘、と。
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