天界分館のオープン
空中湯樋が完成してから数日後、やわらぎの谷では朝から妙に落ち着かない空気が流れていた。
原因は、谷の中央から天界門へと続く白銀の湯樋の前に集まった面々である。
ユウ、ダン、ドグラン、セラフィエルに加え、天界技師長のエルディオまで並び、その周囲では地上と天界の職人たちが慌ただしく最終確認を続けていた。
「温度、問題なし」
ドグランが計器を確認する。
「流量も安定している!」
エルディオも別の計器を見ながら大きく頷いた。
その直後、天界門の向こう側を確認していたセラフィエルが戻ってくる。
「天界側の浴槽も準備完了です。洗い場、休憩所、翼乾燥設備も稼働しています」
ダンがそこで首を傾げた。
「翼乾燥設備まで作ったのか?」
「必要でしょう」
「まあ必要なんだろうけど、対応早すぎねぇか」
「私の経験を反映しました」
セラフィエルが平然と言う。
ダンは少し黙ったあと、ぼそりと呟いた。
「濡れた経験な」
「余計なことを言わないでください」
そんなやり取りをしているところへ、カヤが大きな看板を抱えてやってきた。
そこには大きな文字で、
『やわらぎの湯・天界分館 本日開業』
と書かれている。
「できたよ!」
ダンが看板を見て目を見開いた。
「本当に分館になったのかよ!」
「だって温泉があって、浴場があって、休憩所もあるんでしょ?」
「そうだけど!」
「じゃあ分館じゃん」
「理屈は合ってるのが腹立つな……」
ユウは看板を見ながら少し笑った。
「いい名前だと思う」
「ユウまで!」
結局、正式名称はそのまま決まった。
やわらぎの湯・天界分館。
地上から天界へ温泉を送り、疲れた天使たちが身体と心を休めるためだけに作られた、おそらく天界史上初の温泉施設だった。
「では」
セラフィエルが白銀の湯樋を見る。
「流してください」
ドグランが大きな弁へ手をかけた。
「行くぞ」
重い金属音とともに弁が開き、ゴゴゴ、と低い音が湯樋の内部から響き始める。
谷の源泉から送られた湯が白銀の管へ流れ込み、途中に設置された加圧装置が作動すると、温度維持の術式も淡い光を放った。
やがて湯は空中湯樋を勢いよく駆け上がり、そのまま開かれた天界門の向こうへ吸い込まれていく。
全員が固唾を呑んで見守る中、少し遅れて門の向こうから大きな声が響いた。
「来たぞ!」
エルディオの部下の声だった。
「湯だ!」
「ちゃんと温かい!」
「浴槽へ流せ!」
その瞬間、地上側の工事現場からも一斉に歓声が上がった。
ドグランとエルディオは顔を見合わせ、同時に拳を上げる。
「成功だ!」
「やったぞ!」
そのまま二人は力強く握手を交わした。
ダンはその様子を眺めながら、深くため息を吐く。
「本当に天界まで温泉通しやがった……」
ユウは嬉しそうだった。
「よかった」
「感想それだけ?」
「ちゃんと届いたし」
「お前の基準ほんと変わらねぇな」
その日の昼、やわらぎの湯・天界分館は正式に開業した。
最初は混乱を避けるため、セラフィエルが選んだ数名だけが利用する予定だった。
長期間の結界維持任務を終えた天使、地上監視を何十年も続けていた天使、神託管理の職務でほとんど休めていなかった天使など、誰が見ても休息が必要そうな者たちばかりだった。
ところが本人たちは、揃って同じようなことを言っていた。
「別に疲れていない」
その話を聞いたダンは、嫌そうに眉を寄せる。
「天界、そういう奴ばっかりなのか?」
そして、その最初の利用者たちが実際に温泉へ入ってから十分ほど経った頃には、答えはすぐに出た。
「……何ですか、これは」
最初の一人が呆然と呟いた。
肩まで湯に沈み、白い翼を浴槽の縁へ広げたまま動かない。
「身体が……軽い」
別の天使も、自分の翼を確かめるようにゆっくり動かした。
「背中の重さが消えていく……」
三人目に至っては、すでに目を閉じていた。
「……ここから出たくない」
その様子を見ていたセラフィエルが、少し満足そうに頷く。
「やはり」
ダンが横から彼女を見る。
「なんで誇らしそうなんだよ」
「私が最初に効果を確認しましたから」
「つまり先輩風吹かせてんのか?」
「違います」
だが、本当の問題はその翌日から始まった。
天界分館の噂が、想像以上の速さで天界中へ広がっていったのである。
「肩が軽くなる湯がある」
「翼の付け根まで楽になる」
「入ったあと頭がすっきりする」
「休憩所で何もしなくていい」
中でも最後の一つは、天使たちにとって特に衝撃的だったらしい。
普段から常に何かしらの役目を持ち、何もしない時間そのものに慣れていない彼らにとって、ただ座っていても責められず、休むことだけを目的にしていい場所は、それだけで十分に珍しかった。
開業三日目になると、セラフィエルが少し難しい顔をして谷へ降りてきた。
「ユウ」
「どうしたの?」
「相談があります」
その声を聞いた瞬間、ダンが嫌な予感を覚える。
「今度は何だ?」
「天界分館の利用者を増やしたいのですが」
「どれくらい?」
「現在の三倍ほど」
ダンの眉がぴくりと動く。
「開業三日目だよな?」
「はい」
「もう足りねぇの!?」
セラフィエルが少し目を逸らした。
「予約が増えました」
「予約制になったの?」
ユウが聞く。
「混乱を避けるためです」
「どのくらい待ってる?」
「現状では……二百八十三名ほど」
ダンが固まった。
「多っ!」
「天界全体から見れば一部です」
「そういう問題じゃねぇ!」
さらに五日目になると、今度はカヤが天界門の近くへ出張していた。
「温泉まんじゅう、天界でも売れるかな?」
嫌な予感しかしないダンが、すぐに止めに入る。
「待て待て待て」
「何?」
「もう商売始める気か?」
「温泉といえば温泉まんじゅうでしょ」
「天界だぞ?」
「天使も甘いもの食べるんじゃない?」
すると、近くにいたセラフィエルが平然と答えた。
「食べます」
「ほら!」
「ほらじゃねぇ!」
ところが試しに、温泉水を使ったやわらぎの温泉まんじゅうを天界分館へ持ち込んでみると、これが普通に大人気になった。
「湯上がりに甘いものが合う」
「地上の菓子は興味深い」
「もう一つください」
そんな声が次々と上がり、カヤはものすごくいい笑顔をしていた。
「天界支店いける」
「やめろ!」
ダンの叫びは、残念ながら届かなかった。
その頃になると、天使たち独自の温泉文化まで生まれ始めていた。
翼を湯へ浸ける者もいれば、浴槽の外へ広げておく者もいる。
先に身体だけを温め、最後に翼をゆっくり浸ける者もいて、早くもそれぞれの入り方にこだわりが生まれていた。
そして六枚翼以上の天使が増えてくると、別の問題も発生した。
単純に、場所を取るのである。
ほどなくして、天界分館から新しい要望書が届いた。
『大型翼専用浴槽の増設希望』
紙を読んだダンが顔をしかめる。
「大型種用みたいな扱いになってんぞ」
ドグランはいたって真剣だった。
「必要だな」
「作る気?」
「翼同士がぶつかると危ない」
「まあ……そうなんだけど」
そのうえ、エルディオまで天界側から新しい図面を送ってきた。
そこには大きく、
『十二枚翼対応区画案』
と書かれている。
ダンはしばらく図面を見たあと、遠い目になった。
「拡張の仕方までこっちと同じになってきた……」
ユウは楽しそうに図面を眺めていた。
「人気なんだね」
「人気どころじゃねぇだろ」
そんな日々が続いていたある日、セラフィエルが久しぶりに地上の本館へやってきた。
目的は、極楽の湯へ入るためだった。
「天界にもあるだろ?」
ダンが聞く。
セラフィエルは平然と答える。
「こちらの方が落ち着きます」
「もう完全に常連じゃねぇか」
「調査です」
「まだ言うの!?」
その足元には、いつの間にかグーちゃんが来ていた。
「わふ」
声に気づいたセラフィエルが少しだけ笑う。
「久しぶりですね」
そう言って、当然のようにグーちゃんの頭を撫で始めた。
ダンがその様子を見ながら呟く。
「天界分館できても、結局こっち来るんだな」
ユウが笑った。
「気に入ってくれたならいいんじゃない?」
「まあな」
天界の天使たちを長い間疲弊させてきた任務も、終わることのない責任も、常に正しくあることを求められる日々も、温泉ができたからといってすぐに消えるわけではない。
けれど、疲れた時に湯へ浸かり、翼を休め、何もしない時間を過ごせる場所くらいはあってもいい。
天界の天使たちは、少しずつそれを覚え始めていた。
そして、やわらぎの湯・天界分館は開業からわずか数日で、天界でもっとも予約の取れない、大人気の休息場所になっていた。
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