天界パイプライン構想
「天界へ温泉を引く」
その言葉が正式に決まった翌朝、やわらぎの谷の一角には、いつもの温泉街とは少し違う光景が広がっていた。
地面には何枚もの設計図が並べられ、その周囲をユウ、ドグラン、セラフィエル、レグルスが囲んでいる。
少し離れた場所では、ダンが腕を組みながら、すでに嫌そうな顔をしていた。
「なあ」
「何?」
ユウが顔を上げる。
「昨日までは『天界に湯を引けたらいいな』くらいの話だったよな?」
「うん」
「なんで一晩で工事始まるところまで来てんだよ」
「ドグランが設計してくれたから」
ダンがドグランを見る。
「早すぎねぇか?」
「思いついた時に形にした方がいい」
ドグランは当然のように答えた。
その手元にある設計図には、谷の源泉から伸びる一本の太い配管が描かれている。
そこから途中で複数の補助管へ分かれ、最終的には空中へ向かって真っ直ぐ伸びる構造になっていた。
ダンは設計図を覗き込む。
「これ、本気で空まで伸ばすのか?」
「正確には天界門までだ」
ドグランが言うと、セラフィエルも頷いた。
「天界門は地上に固定されているわけではありませんが、私が座標を指定すれば一定時間だけ開くことができます」
「便利だな」
「便利ではありません。通常は天界の正式な許可が必要です」
「今回は?」
そう聞かれたセラフィエルは、少しだけ目を逸らした。
「……調査です」
ダンが即座に反応する。
「またそれか!」
「何が悪いのです」
「温泉入る時もグーちゃん撫でる時も全部調査だったじゃねぇか!」
「必要な確認でした」
「今度は天界に配管通すのまで調査で押し通す気かよ!」
セラフィエルは軽く咳払いしてから、少しだけ言い方を変えた。
「天界の静養環境改善に関する事前検証です」
「言い方だけ立派になったな」
その横では、レグルスがすっかり研究者の顔になっていた。
「問題は、通常の配管では位相境界を越えられないことですね」
ユウが聞く。
「壊れる?」
「壊れるというより、向こう側へ届きません。天界門は物質を通過させられますが、門を閉じれば接続そのものが消えます」
「じゃあ門をずっと開けておけば?」
ユウがそう言うと、セラフィエルは即座に首を振った。
「それは無理です。天界門を常時開放すれば、地上と天界の魔力差で周囲が不安定になります」
ダンが改めて設計図を見る。
「もうこの時点で普通に無理そうなんだが」
「だから工夫する」
ドグランは落ち着いたままだった。
「門を通す部分だけ、固定された管じゃなく可動式にする」
「可動式?」
ドグランは図面の一部を指した。
そこには巨大な蛇腹のような構造が描かれている。
「天界門が開いた時だけ伸ばして接続する。閉じる時は地上側へ収納する」
ダンはしばらく黙り、もう一度じっくりと図面を見た。
「……何だこれ」
「空中温泉パイプライン」
ユウが答える。
「名前付いてんの!?」
「カヤが」
ダンが振り返ると、少し離れたところでカヤが看板を書いていた。
『天界直通! 空中温泉パイプライン計画!』
「看板作るな!」
「景気出るでしょ?」
「何の景気だよ!」
ミナも看板を見ながら首を傾げる。
「温泉、空飛ぶ?」
「飛ばないよ」
ユウが答える。
「たぶん管の中を通るだけ」
「でも空に行く」
「そうだね」
「じゃあ飛んでる」
「そういうことになるのかな」
「納得すんな!」
ダンの声が辺りに響く。
そんなやり取りをしている間にも、工事の準備は着々と進んでいた。
ドグランが集めた職人たちは、すでに源泉近くで地面を掘り始めている。
普通の鉄管では魔力の流れに耐えられないため、ドワーフ製の耐魔金属を使い、内部には温度を逃がしにくい鉱石を薄く貼るらしい。
ユウが用意されたパイプの内部を覗き込む。
「結構太いね」
「湯量を落とさないためだ」
ドグランが答える。
「それと、詰まった時に中へ入れる」
ダンが顔をしかめた。
「人が入れる太さなの?」
「大型種族でも通れる」
「温泉の配管にその規格いるか?」
「修理する時に必要だ」
「そう言われると何も言えねぇ」
もっとも、今回の工事で最大の問題になっているのは、配管そのものではなかった。
問題は、湯を高い場所まで運ぶ方法である。
普通なら水は高いところへ勝手に上がらないうえ、今回の目的地はただの高所ではなく、空のさらに上にある天界だった。
「ポンプがいるな」
ドグランが設計図を見ながら言う。
ユウが首を傾げる。
「どのくらい強い?」
「普通のじゃ無理だ」
「ですよね」
「そこで」
ドグランはゆっくり横を見た。
その視線の先には、ヴァルガスが立っている。
「なぜ我を見る?」
「火力が必要だ」
「おお!」
ヴァルガスの顔が一気に明るくなる。
「ついに我の出番か!」
ダンが不安そうに聞いた。
「何する気だ?」
ドグランは簡潔に答える。
「蒸気圧」
その言葉を聞いた瞬間、ダンが黙った。
「待て」
「湯の一部を熱して圧を作る」
「待て待て待て」
「それで上へ押し上げる」
「絶対ろくなことにならねぇ!」
ヴァルガスはむしろ楽しそうだった。
「任せろ! 我なら一瞬で沸騰させられるぞ!」
「一瞬でやるな!」
そこへ、近くにいたセレナまで口を挟む。
「熱くしすぎたら私が冷やせばいいでしょう」
ダンがそちらを見る。
「古竜二人を温度調整装置に使うな!」
「合理的だと思うが」
レグルスが平然と言う。
「どこがだよ!」
さらに工事現場にはガルヴァーンまで来ていた。
「土台は俺が押さえる」
ダンが絶句する。
「古竜全員参加すんの?」
フェルザードが笑った。
「同窓会のついでだ」
「ついでの規模じゃねぇ!」
とはいえ、実際に古竜たちが協力し始めると、その力は工事で非常に役に立った。
ガルヴァーンが地面を固めれば、巨大な支柱を立ててもびくともせず、ヴァルガスは金属加工の加熱を手伝い、セレナは熱しすぎた部分を正確に冷却していく。
レグルスは天界門付近の魔力変化を計算し、フェルザードは高所作業に必要な資材をまとめて運んでいた。
ダンはそんな光景をしばらく眺めたあと、力なく呟く。
「国滅ぼせる奴らの使い方じゃねぇ……」
ユウは楽しそうだった。
「でも工事早いよ」
「そういう問題じゃねぇんだよなぁ……」
それでも工事の速度が上がったのは間違いなかった。
昼を過ぎる頃には、谷の中央に一本の巨大な支柱が立ち、その側面を太い温泉管が空へ向かって伸び始めている。
まだ完成には程遠い。
それでも、地上にあるはずの温泉が、本当に天界を目指して上へ伸びている光景は、それだけで十分に異様だった。
セラフィエルはその支柱を見上げながら、呆然と呟く。
「……本当に作っている」
「昨日頼んだんでしょ?」
ユウが聞く。
「そうですが」
「じゃあいいんじゃない?」
「普通はもう少し疑うものでは?」
「何を?」
「天界へ温泉を引くことそのものをです」
ユウは少し考えてから、いつもと変わらない調子で答えた。
「疲れてる人がいるんでしょ?」
「はい」
「なら、やる意味はあると思う」
セラフィエルはすぐには答えなかったが、やがてほんの少しだけ表情を緩めた。
「……ありがとうございます」
ユウも笑う。
「まだできてないよ」
「それでもです」
その時、上空から大きな声が響いた。
「おい! 次の資材はどこへ置けばいい!」
見上げると、フェルザードが巨大な金属管を抱えたまま飛んでいる。
ドグランがすぐに指を差した。
「そこだ!」
「分かった!」
フェルザードが降下を始める。
それを見た瞬間、ダンの顔色が変わった。
「待て! 静かに降りろよ!」
「分かっている!」
「お前の『分かってる』は信用できねぇ!」
次の瞬間、どぉん、と重い音が響き、谷全体が軽く揺れた。
ダンの怒鳴り声がすぐに飛ぶ。
「だから普通に降りろって言っただろ!」
「今のはかなり静かだったぞ!」
「どこがだよ!」
そのやり取りに職人たちが笑い、古竜たちまで楽しそうに笑う。
そして、その光景を見ていたセラフィエルの口元にも、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
こうして、地上と天界という本来なら簡単に交わるはずのない二つの場所を、一本の温泉管で繋ごうという前代未聞の工事が始まった。
その名も、空中温泉パイプライン。
果たして本当に天界まで湯が届くのかは、まだ誰にも分からない。
それでも、谷の中央から空へ向かって伸び始めた太い温泉管は、この無茶とも思える計画がすでに冗談ではなくなっていることを、はっきりと示していた。
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