天界への湯引き打診
休憩所では、すっかり気の抜けた空気が流れていた。
つい少し前まで谷そのものを浄化しようとしていた天使長セラフィエルは、今では長椅子へ深く腰を預け、その膝にグーちゃんの大きな頭を乗せている。
六枚の白い翼はほとんど乾き、ふわりと元の軽さを取り戻していたものの、本人には立ち上がろうという気配がまるでなかった。
「わふ……」
「……そこが気持ちいいのですか?」
セラフィエルがグーちゃんの耳の後ろを撫でる。
「わふぅ」
「なるほど」
「何を納得してんだよ」
少し離れた場所から見ていたダンが、呆れた声を上げた。
セラフィエルはゆっくり顔を上げる。
「何か問題がありますか?」
「いや、問題っていうか……お前、最初に来た時と別人みたいだな」
「失礼ですね」
「最初は空にでっかい神罰の輪出して、『この地を浄化する』とか言ってただろ」
「必要な審判でした」
「今は?」
ダンがグーちゃんを指差すと、セラフィエルは少しだけ黙ったあと、何事もなかったかのように毛を撫で直した。
「……地上生物の生態調査です」
「まだそれで押し通す気か!」
休憩所に笑い声が広がる。
ユウはその様子を眺めながら、セラフィエルの前へ冷たい水を置いた。
「湯上がりだから、水も飲んでね」
「ありがとうございます」
セラフィエルは素直に器を受け取り、一口飲んだ。
少し前の彼女なら「天使にその程度の配慮は不要です」とでも言っていただろうが、今ではもうそんなことは言わない。
むしろ、少し驚いたように器を見つめた。
「……おいしいですね」
「普通の水だよ」
「普通?」
その言葉を聞いたダンが、すぐに嫌そうな顔をする。
「ユウが言う普通は信用しない方がいいぞ」
「ひどいな」
「今まで何回、その『普通』で妙なこと起きたと思ってんだ」
セラフィエルは水の入った器をじっと見つめた。
「これも【水質変化】ですか?」
「少しだけ飲みやすくしてあるよ」
「やはり」
「だから分析始めるなって」
ダンが止めると、セラフィエルは器を置き、再びグーちゃんの頭を撫で始めた。
ただ、今度は少し表情が違っている。
先ほどまでのように力の抜けた顔ではなく、何かを真剣に考えている顔だった。
「ユウ」
「何?」
「一つ聞きたいのですが」
「うん」
「この温泉の湯は……他の場所へ運ぶことはできますか?」
ユウが少し首を傾げる。
「運ぶ?」
「はい」
ダンもそちらへ視線を向けた。
「急にどうした?」
セラフィエルは少し言いにくそうに視線を落とし、しばらくグーちゃんの毛を撫でてから口を開いた。
「天界にも、疲弊している天使がいます」
その言葉に、ユウの表情が少しだけ変わる。
「セラフィエルさんみたいに?」
「……私ほどではありません」
ダンが即座に口を挟んだ。
「お前、百年以上肩こり放置してた奴だぞ」
「それはもう言わなくていいでしょう!」
「事実だろ」
セラフィエルは一度咳払いし、無理やり話を戻した。
「天界には多くの役目があります。地上の監視、神託の伝達、結界の維持、魂の導き、異常魔力の観測……他にも細かな職務は数え切れません」
ユウが不思議そうに聞く。
「ずっと働いてるの?」
「職務によります。ただ、近年は地上での異変が増え、負担が大きくなっています」
「休めばいいじゃねぇか」
ダンが当然のように言った。
セラフィエルは少し困ったような顔になる。
「天界には、休むことそのものを目的とした場所がほとんどありません」
「ないの?」
今度はユウが驚く。
「静養所はあります。しかし、それは怪我や魔力消耗から回復するための場所であって、疲れたから休むという考え方は……あまり一般的ではありません」
ダンが露骨に顔をしかめる。
「嫌な職場だな」
「職場と呼ばないでください」
「でも似たようなもんだろ」
「否定しづらいのが腹立たしいですね……」
セラフィエルは小さく息を吐き、それから自分の肩へ手を当てた。
さっきまで石のように固かった場所が、今では驚くほど軽い。
それだけではなく、頭の奥へずっと溜まっていた重さも、胸の内側に残っていた苛立ちも、温泉へ入る前よりずっと薄くなっている。
「もし、この湯を天界へ引くことができれば」
セラフィエルはゆっくり口を開いた。
「多くの天使が救われるかもしれません」
一瞬、休憩所が静かになった。
ユウが聞き返す。
「天界に?」
「はい」
「温泉を?」
「はい」
「……天界まで?」
「はい」
ダンが両手で頭を抱えた。
「話の規模が急にでかくなったな!」
ユウは真面目な顔で少し考えたあと、別のことを聞いた。
「天界って、どこにあるの?」
セラフィエルが固まる。
「……そこからですか?」
「だって場所分からないと湯引けないし」
「もっとこう、天界へ温泉を引くこと自体に驚かないのですか?」
「できるかどうか考えないと」
「お前、本当にそこだけなんだな」
ダンが呆れた声を出す。
ちょうどそこへドグランが通りかかった。
「何の話だ?」
ダンが嫌そうな顔のまま答える。
「天界に温泉引けるかって話」
ドグランが足を止めた。
「天界?」
「そう」
「距離は?」
聞かれたセラフィエルは、少し考えながら説明する。
「物理的な距離という概念は少し異なります。地上と天界の間には位相の隔たりがあり、通常の道で繋がるものではありません」
ドグランは腕を組んだ。
「なら配管は無理だな」
「即答!」
ダンが叫ぶ。
「物理的に繋がってねぇなら仕方ねぇだろ」
「それはそうだけど!」
ユウも少し考え込み、やがて顔を上げた。
「でも、入口みたいなのはあるんでしょ?」
「天界門があります」
「そこを通せないかな」
「湯を?」
「うん」
セラフィエルは思わず想像した。
神聖な天界門を通って流れ込んでくる大量の温泉。
これまでの天界では、まず考えられなかった光景だった。
「……前例はありません」
「そりゃないだろ」
ダンがすぐに言う。
「天界に温泉引こうとした奴が何人いるんだよ」
「少なくとも私は知りません」
「だろうな」
そんな話をしていると、いつの間にかレグルスまで近くへ来ていた。
「面白いですね」
ダンが嫌そうにそちらを見る。
「お前まで来たか」
「位相を跨いだ液体輸送ですか。理論上は非常に興味深い」
「風呂の話を急に研究案件にするな」
「しかし、実現すれば画期的ですよ」
セラフィエルも少し身を乗り出した。
「可能なのですか?」
「まだ何とも言えません。ただ、門が安定して開けるなら――」
「ちょっと待て!」
ダンが慌てて手を上げたため、全員の視線が集まった。
「話進むの早すぎねぇか?」
「そう?」
ユウが聞き返す。
「さっきまでこいつ、谷を消そうとしてたんだぞ!」
言われたセラフィエルが、少し気まずそうな顔をする。
「それについては……」
「それが今じゃ、天界に温泉引いてくれって!」
「状況が変わったのです」
「変わりすぎだろ!」
近くにいたカヤが楽しそうに笑う。
「温泉入ったからね」
ミナも小さく頷いた。
「モフモフもした」
「それで天界の方針まで変わるのかよ!」
セラフィエルが少しむっとした。
「天界の方針を変えるとは言っていません」
「じゃあ何なんだ?」
「疲弊した天使たちのために、この湯を利用できないか検討したいのです」
そう答えたセラフィエルの声は、そこで少しだけ柔らかくなった。
「私だけが楽になるのは……何か違う気がします」
ユウは何も言わず、セラフィエルを見る。
彼女は膝の上にいるグーちゃんを撫でながら、静かに続けた。
「私より長く結界維持を続けている者もいます。地上監視から何十年も離れていない者もいる。神託を受け持つ者の中には、一度の失敗を恐れて、常に緊張したまま職務を続けている者も……」
「セラフィエルさんと同じだね」
ユウが言う。
セラフィエルは少しだけ目を伏せた。
「……そうかもしれません」
これまでは、それを当然のことだと思っていた。
自分も皆も、それぞれに役目があるから働く。疲れていても続ける。それこそが天使なのだと、疑うことすらなかった。
けれど、実際に温泉へ入り、長い間感じていた肩の重さが消え、グーちゃんの柔らかな毛を撫でながら何もしない時間を過ごしてみて、ようやく気づいてしまった。
自分だけではない。
天界で働き続けている仲間たちも、同じように疲れているのかもしれない。
「あの者たちも……疲れているのかもしれません」
その言葉には、審判者としての威圧感はなかった。
ただ仲間を心配する、一人の天使としての気持ちだけが込められている。
ユウは少し考えたあと、いつものように笑った。
「じゃあ試してみようか」
「……え?」
セラフィエルが顔を上げる。
「天界まで湯を引けるか」
「そんな簡単に決めてよいのですか?」
「疲れてる人がいるんでしょ?」
「はい」
「だったら、温泉あった方がいいと思う」
ダンが額を押さえた。
「本当にお前は、それで全部決めるんだな……」
その横では、ドグランがすでに職人の顔へ戻っている。
「天界門とやらの構造を見ねぇと何とも言えん。湯量も必要だし、向こう側に浴槽を作る場所はあるのか?」
「あります」
セラフィエルが即答した。
「答え早っ!」
ダンが振り返る。
セラフィエルは少しだけ視線を逸らした。
「……先ほどから考えていました」
「入る気満々だったんじゃねぇか!」
「違います!」
「何が違うんだよ!」
「これは天界全体の福利――」
そこまで言ってから、セラフィエルは少し考え込んだ。
聞き慣れない言葉を、この場にいる者たちにも分かるように言い換える。
「……静養環境の改善です」
「急に偉そうに言い換えたな」
ダンの突っ込みを気にせず、レグルスが頷く。
「ではまず、天界門の調査からですね」
ドグランも続ける。
「門を通せるなら、向こう側の浴場建設も必要になる」
その話を聞いたカヤが目を輝かせた。
「天界支店?」
「作らねぇからな!」
ダンがすぐに叫ぶ。
「まだ湯が通るかも分かってねぇんだぞ!」
「でも天界限定温泉まんじゅうとか売れそう」
「商売始めるな!」
ミナも少し考えてから、膝の上にいるグーちゃんを見た。
「グーちゃんも行く?」
その言葉に、セラフィエルの手が止まる。
そして膝へ頭を預けた大きなグレートヘルウルフを見下ろした。
「……この子も?」
「わふ」
グーちゃんが返事をした。
セラフィエルはその顔を見つめ、ほんの少しだけ笑った。
「もし許されるなら……悪くありませんね」
その表情を見たダンは、深くため息を吐く。
「完全に骨抜きじゃねぇか」
今度は、否定の言葉も返ってこなかった。
こうして、やわらぎの谷を浄化するためにやってきた天使長の口から次に出た要求は、撤去命令でも新たな審判でもなかった。
「天界にも、この温泉を引けませんか?」
それは、やわらぎの谷が始まって以来、間違いなく最も高い場所への湯引き相談だった。
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