モフモフの聖域
極楽の湯から上がったセラフィエルは、休憩用の長椅子に腰を下ろしていた。
六枚の白い翼は、さすがに濡れたままでは重いらしく、今は獣人用の乾燥設備を借りて、弱めの温風を当てながら少しずつ乾かしている。
少し離れたところからその様子を眺めていたダンが、何とも言えない顔で呟いた。
「……まさか天使の翼までここで乾かすことになるとはな」
ユウは特に気にした様子もなく、乾燥用の温風が強すぎないかを確かめている。
「毛を乾かすのとそんなに変わらないと思うけど」
「本人に聞こえるところで毛と一緒にするなよ」
「聞こえています」
セラフィエルが静かに返した。
声にはまだ少し不満が混じっているものの、温泉へ入る前にあった刺すような鋭さはもうない。
むしろ今はすっかり力の抜けた表情で椅子に座り、ときどき肩を回しては、そのたびに驚いたように翼の付け根へ手を当てていた。
「……軽い」
「肩?」
ユウが尋ねる。
「はい。こんな感覚は久しぶりです」
「百年以上放ってたんだから、そりゃそうだろ」
ダンが呆れたように言うと、セラフィエルは何か言い返そうとしたものの、結局は何も言わずに小さく息を吐いた。
自分でも、さすがに長く無理をしすぎていたことは認め始めているらしい。
その横では、ミナが乾いていく白い翼をじっと見つめていた。
「ふわふわ」
「触ってはいけませんよ」
「まだ触ってない」
「さっきも同じことを言っていましたね」
「今度も触ってない」
「今度は、とは何ですか」
セラフィエルが少しだけ警戒した顔をすると、ミナは素直に手を引っ込め、そのままユウの隣へ戻った。
そんなやり取りをしていた時、大浴場の奥から、のそのそと大きな影が現れる。
「ん?」
ダンが振り返った。
現れたのは、巨大なグレートヘルウルフのグーちゃんだった。
ただでさえ大型の魔物であるうえ、グーちゃんはその中でもかなり立派な体格をしている。立っているだけでも相当な圧迫感があり、初めて見る者なら反射的に武器へ手を伸ばしてもおかしくない。
もっとも、やわらぎの谷ではすっかり見慣れた存在だった。
どうやら露天風呂から上がってきたばかりらしく、全身の毛はまだ少し湿っている。
「グーちゃん」
ミナが呼ぶ。
「わふ」
グーちゃんは一度だけ返事をすると、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
その姿を見たダンの顔が、途端に嫌そうなものへ変わる。
「待てよ」
グーちゃんは止まらない。
「おい、まさかここで身体振るんじゃねぇだろうな」
「わふ?」
「その顔やめろ! この前それで全員びしょ濡れになったからな!」
グーちゃんは少しだけ首を傾げたものの、今日は身体を振らなかった。
それを確認したダンが、ほっと息を吐く。
「……学習したか」
「たぶん」
ユウも頷いた。
ところが、グーちゃんはそのまま通り過ぎることなく、セラフィエルの前まで歩いていった。
セラフィエルが顔を上げる。
「……何ですか、この魔獣は」
「グーちゃん」
ミナがすぐに答えた。
「名前ではなく種族を聞いています」
「グレートヘルウルフ」
「グレートヘルウルフ?」
その言葉を聞いた瞬間、セラフィエルの表情がはっきり変わった。
ただのヘルウルフではない。その上位種であり、単独でも十分に危険度の高い大型魔獣である。
しかも目の前にいるグーちゃんは、体格を見ただけでも並の個体ではないと分かる。
セラフィエルは反射的に姿勢を正した。
「なぜ、グレートヘルウルフが温泉施設の中を普通に歩いているのですか」
「いつもいるから」
ユウが答える。
「説明になっていません」
「ここでは普通だぞ」
ダンまで当然のように言う。
セラフィエルは信じられないという顔をしたが、当のグーちゃんには彼女を警戒する様子がまるでなかった。
むしろ、何か気になるものでも見つけたように、じっとセラフィエルを見つめている。
「……何です?」
セラフィエルも見返す。
「わふ」
グーちゃんが一歩近づいた。
「近いです」
さらに一歩。
「ちょっと待ちなさい」
それでもグーちゃんは止まらず、セラフィエルが思わず少し身を引いた。
「ユウ」
「何?」
「このグレートヘルウルフを止めてください」
「たぶん何もしないよ」
「たぶんでは困ります」
グーちゃんはとうとうセラフィエルのすぐ前まで来ると、しばらく彼女の顔を見つめた。
そして何を思ったのか、前脚を長椅子へ乗せる。
「……え?」
セラフィエルの声がわずかに裏返った。
その次の瞬間、どすん、と大きな音が響く。
「っ!?」
グーちゃんの大きな頭と上半身が、そのままセラフィエルの膝の上へ乗った。
あまりの重量に長椅子がぎしりと鳴る。
「待ちなさい! 重いです!」
「グーちゃん」
ユウが声をかける。
「全部乗ると潰れちゃうよ」
「そこを心配するのですか!?」
セラフィエルが思わず叫んだ。
グーちゃんは少しだけ身体をずらし、全体重をかけるのはやめたらしい。
それでも大きな頭は、セラフィエルの膝から腰の辺りにしっかり置かれたままだった。
「わふ……」
満足そうに目を閉じるグーちゃんを見て、ダンが口元を押さえる。
「完全にくつろいでるな」
「笑わないでください」
「まだ笑ってねぇ」
「顔が笑っています!」
セラフィエルは困ったようにグーちゃんを見下ろした。
「これをどうすればいいのです?」
ミナがすぐに答える。
「撫でる」
「なぜ?」
「喜ぶ」
「そういう問題ですか?」
「うん」
あまりにも当然のように返され、セラフィエルは言葉に詰まった。
ユウも笑いながら口を挟む。
「嫌ならどいてもらうけど」
そう言われたセラフィエルは、膝の上に頭を預けているグーちゃんを改めて見た。
危険なグレートヘルウルフとは思えないほど安心しきった顔で、完全に目を閉じている。
しばらく迷った末、セラフィエルは小さく答えた。
「……別に、この程度なら問題ありません」
「じゃあ撫でてみれば?」
「なぜ私が」
そう言いながらも、セラフィエルの手は少しだけ動いた。
恐る恐るグーちゃんの頭へ触れる。
「……」
想像していたよりも、ずっと柔らかかった。
指を沈めると、厚くふかふかな毛が手のひらを包み込み、グレートヘルウルフという恐ろしい名前からは到底想像できない感触が返ってくる。
セラフィエルの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……これは」
ミナがすぐに反応する。
「気持ちいい?」
「私はまだ何も言っていません」
「顔」
「顔?」
「緩んでる」
セラフィエルは慌てて表情を戻そうとしたが、その間にも手は止まっていなかった。
一度撫で、もう一度撫でる。
今度は耳の後ろへ指を滑らせると、グーちゃんがさらに気持ちよさそうに目を細めた。
「わふぅ……」
その反応を見たセラフィエルの手つきが、少しだけ丁寧になる。
「……ここですか?」
「わふ」
「そうですか」
ダンが目を丸くした。
「会話始まったぞ」
ユウも楽しそうに笑う。
「グーちゃん、気に入ったんじゃないかな」
「誰を?」
「セラフィエルさん」
「なぜです!」
「疲れてる人に寄っていくことあるから」
その言葉を聞いた瞬間、セラフィエルの手が止まった。
「……私が疲れているから?」
「たぶん」
「このような上位魔獣にまで分かるのですか」
ミナが小さく頷く。
「グーちゃん、そういうの分かる」
セラフィエルは返事をせず、しばらくグーちゃんを見つめていた。
やがて、もう一度その頭を撫でる。
今度は先ほどよりもずっと自然な手つきだった。
温泉で肩から力が抜け、今度は膝の上にある柔らかな毛を静かに撫でている。
考えてみれば、不思議な状況だった。
セラフィエルは審判を下すために地上へ来たはずなのに、今は剣も持っていない。
神罰の光も消え、六枚の翼はすぐ隣で乾燥中。そのうえ膝にはグレートヘルウルフが頭を預けている。
自分でも、どうしてこうなったのか分からない。
「……天界では」
セラフィエルがぽつりと口を開いた。
ユウがそちらを見る。
「何?」
「こういうことはありません」
「グレートヘルウルフ?」
「それもですが……」
セラフィエルは少し考えてから、グーちゃんの毛へ視線を落とした。
「何もせずに座っていることが、ほとんどありません」
「そうなの?」
「仕事がありますから」
「今は?」
ユウにそう聞かれたセラフィエルは、答えようとして口を閉じた。
今は何もしていない。
誰かを裁いているわけでも、地上の異変を調査しているわけでもなく、ただ長椅子に座って休んでいるだけだった。
それなのに、誰にも責められていない。
むしろ周囲の者たちは、それが当然であるかのように接している。
「……変な感じです」
「嫌?」
ユウが尋ねると、セラフィエルは少しだけ間を置いた。
「……いいえ」
その返事は、とても小さかった。
グーちゃんがさらに身体を寄せてくる。
「重いです」
そう言いながらも、セラフィエルは押し返そうとはしなかった。
むしろ、またゆっくりと頭を撫でている。
それを見たミナが嬉しそうに言った。
「モフモフ、効いてる」
ダンが吹き出す。
「何だよ、モフモフが効くって」
「効いてる」
「まあ……否定できねぇけど」
セラフィエルが二人へ視線を向ける。
「聞こえていますよ」
「でも手止まってないぞ」
ダンが指摘すると、セラフィエルは一瞬言葉に詰まった。
「これは……」
何とか理由を探していたものの、やがて少しだけ視線を逸らす。
「調査です」
一瞬、周囲が静かになった。
その次の瞬間、ダンが盛大に笑い出す。
「まだそれ使うのかよ!」
「何が悪いのです!」
「温泉の次はグレートヘルウルフまで調査対象か!」
「地上の生態を知ることも天使長の務めです!」
「絶対今考えただろ!」
セラフィエルの顔が赤くなった。
それでも、グーちゃんを撫でる手だけはやはり止まらない。
しばらくそんなやり取りを続けているうちに、セラフィエルが小さく息を吐いた。
「……ふぅ」
極楽の湯へ入った時よりも、さらに深く身体から力が抜けていく。
背中を長椅子へ預け、そのまま目を閉じる。
膝にはグーちゃんの大きな頭があり、手のひらには柔らかな毛の感触がある。
温泉上がりの身体を穏やかな風が撫で、乾燥設備から流れてくる温かな風が六枚の翼を優しく揺らしていた。
そんなセラフィエルを眺めながら、ユウが小さく笑う。
「少し楽になった?」
セラフィエルは目を閉じたまま答えた。
「……少しだけです」
「だいぶだろ」
ダンが横から言う。
「少しです」
「はいはい」
今度は、セラフィエルも怒らなかった。
天界の審判者という肩書きも、世界の秩序を守らなければならないという重責も、今だけはどこか遠いところへ置いてきたようだった。
やわらぎの湯の休憩所では、温泉で身体を温め、グレートヘルウルフのモフモフへ身を預けた一人の天使長が、長い年月の中でも滅多になかった穏やかな時間を静かに過ごしていた。
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