天使長の重荷
極楽の湯に入ってから、セラフィエルはすっかり静かになっていた。
つい先ほどまで「これは調査です」と何度も念を押していたはずなのに、今では目を閉じたまま肩まで湯に沈み、六枚の白い翼も水面へゆったりと浮かべている。長い金髪は湯気に濡れ、頬へ少し張りついていた。
少し離れたところからその様子を眺めていたダンが、呆れたように呟く。
「……もう完全に客だな」
「調査中らしいよ」
ユウが答えると、ダンは肩をすくめた。
「その設定、まだ続いてんのか」
浴槽の縁にいたミナも、セラフィエルの様子をじっと見つめている。
「寝そう」
「さすがに寝ないだろ」
ダンがそう言った直後、セラフィエルの頭がほんの少し前へ傾いた。
「寝てる?」
ユウが尋ねる。
「寝ていません」
目を閉じたまま返事が返ってきたため、ダンが吹き出した。
「意地でも認めねぇな」
「天使長には休息など必要ありません」
「その台詞、今の姿で言っても説得力ねぇぞ」
セラフィエルは睨もうと目を開いたものの、その視線にはすでにほとんど力がなかった。
むしろ、長い間ずっと緊張し続けていた者が、ようやく少しだけ気を抜いた時のような、ひどく疲れた顔をしている。
そんなセラフィエルを見ながら、ユウは少し前から気になっていたことを思い出した。
「セラフィエルさん」
「何ですか」
「肩、痛くない?」
その一言に、セラフィエルの動きがわずかに止まる。
ダンもそちらへ視線を向けた。
「なんで急に肩?」
「さっきからずっと気にしてるから」
よく見ると、セラフィエルは時々右肩をわずかに動かしており、翼の付け根を伸ばそうとしているようにも見えた。
「別に痛くはありません」
「じゃあ、重い?」
「……少し違和感があるだけです」
「それ肩こりじゃねぇの?」
ダンが何気なく言うと、セラフィエルが聞き慣れない言葉でも聞いたように眉を寄せた。
「肩こり?」
「肩が重かったり、首が硬かったりするやつだよ」
「その程度の不調なら、天使の自己浄化で――」
そう言いながら肩を回した、その時だった。
ごきっ、とかなり大きな音が響いた。
大浴場が一瞬だけ静かになる。
ダンが目を丸くした。
「今、すげぇ音したぞ」
「……問題ありません」
「絶対あるだろ」
ミナまで真剣な顔でセラフィエルを見る。
「肩、固そう」
「見れば分かるのですか?」
「なんとなく」
ユウは浴槽の近くへ寄り、少しだけ様子を確認する。
「翼って、やっぱり重い?」
「天使にとっては身体の一部ですから、普段は重さなど意識しません」
「普段は?」
そこでまた、セラフィエルが黙った。
ダンの口元が少し緩む。
「そこ引っかかったな」
「余計なことを言わないでください」
「で、最近は重いんだろ?」
「……最近というほどではありません」
「じゃあいつから?」
「覚えていません」
今度はユウとダンが顔を見合わせた。
「それ、結構前からじゃない?」
ユウが聞いても、セラフィエルはすぐには答えず、しばらく湯の中へ視線を落としていた。
やがて、ぽつりと口を開く。
「天界では、秩序の乱れが発生すれば審判を行います」
「うん」
「地上で大規模な争いが起きた時、禁じられた術が使われた時、世界の均衡へ大きな影響を与える存在が現れた時。そうした事案の確認と判断を行うのが、私の役目です」
ダンが露骨に嫌そうな顔をした。
「それ全部お前がやってんの?」
「すべてではありません。しかし、天使長級の判断が必要な案件は私が担当することが多いですね」
「多いってどのくらい?」
「時期によります」
「最近は?」
セラフィエルは少し考えてから答えた。
「地上の争いが増えていましたから、ほぼ休みなく」
その言葉に、ダンの眉が上がる。
「ほぼ休みなく?」
「問題がありますか?」
「あるだろ!」
思った以上に大きな声が出たらしく、セラフィエルが少し驚いた顔をする。
ダンはそんなことを気にせず、指を折りながら続けた。
「地上に降りる。調査する。場合によっちゃ神罰を撃つ。天界に戻る。また次の案件。ずっとそれ繰り返してんだろ?」
「概ねその通りです」
「休みは?」
「必要ありません」
「だから、それを聞いてんじゃねぇんだよ!」
ユウも少し困った顔になる。
「寝たりしないの?」
「天使に人間ほどの睡眠は必要ありません」
「じゃあ休憩は?」
「職務の合間にあります」
「どれくらい?」
「移動中など」
「それ休憩って言わねぇぞ」
ダンの突っ込みがすぐに飛んだ。
セラフィエルは何か言い返そうとしたものの、今度はうまく言葉が出てこなかった。
その間にも、極楽の湯は張り詰めていた身体をじわじわとほぐしていたらしく、セラフィエルが無意識に肩を回す。
すると、先ほどよりも少しだけ滑らかに動いた。
「……軽い」
本人が一番驚いたような声だった。
ユウが聞く。
「肩?」
「はい」
セラフィエルは翼も少し動かしてみる。
湯に浸かっていた白い羽根が静かに揺れた。
「こんなに動いたのは……」
そこまで言って、セラフィエルは口を閉じた。
近くの浴槽からその様子を見ていたレグルスが、興味深そうに目を細める。
「筋肉だけの問題ではなさそうですね」
「また分析するのか」
ダンが言う。
「興味深い状態ですから」
セラフィエルが少し警戒した表情を見せた。
「何が分かるのです?」
「翼の付け根、肩、首周辺に過度の緊張があります。それに魔力循環にもわずかな滞りが見られる。長期間、緊張状態を維持し続けた結果でしょう」
「つまり?」
ユウが尋ねると、レグルスは少し考えてから答えた。
「人間の言葉で言えば、重度の肩こりですね」
一瞬、沈黙が落ちた。
その直後、ダンが堪えきれず吹き出す。
「天使長が肩こり!」
「笑わないでください!」
「いや、だって神罰撃ちすぎて肩こりって!」
「そのような言い方をしないでください!」
近くにいたカヤまで笑いを堪えている。
「剣ずっと持ってるからじゃない?」
「翼も六枚あるしね」
リーフェも冷静に付け加える。
セラフィエルの顔が少し赤くなった。
「私は長年、問題なく職務を遂行してきました」
「問題あったから肩鳴ったんだろ」
「それは……」
言葉に詰まったセラフィエルへ、今度はユウが静かに声をかけた。
「しかも、身体だけじゃないと思う」
セラフィエルがユウを見る。
「どういう意味ですか?」
「さっき神罰を撃とうとした時、途中で何度も止まってたでしょ」
「それは、この谷の作用が……」
「それもあると思う。でも、ずっと疲れてたからじゃない?」
セラフィエルは反射的に否定しようと口を開いた。
しかし、今度は言葉が出てこなかった。
疲れている。
そんなことを考えたことはなかった。
いや、正確には、考えないようにしてきたのかもしれない。
世界の秩序を守ることが自分の役目であり、判断を誤れば多くの命が失われるかもしれない。甘い判断をすれば、より大きな災厄につながる可能性だってある。
だから常に正しくなければならず、迷ってはいけないし、弱ってもいけない。
それが天使長なのだと、ずっと思ってきた。
「……私は」
セラフィエルが小さく口を開く。
「間違えることを許されません」
誰もすぐには返事をしなかった。
セラフィエルは湯面を見つめたまま、静かに続ける。
「審判を下す者が迷えば、裁かれる側はさらに混乱します。だから私は、常に正しい判断をしなければならないのです」
ダンが眉を寄せた。
「そんなの無理だろ」
「何ですって?」
「何百年生きてるか知らねぇけど、何でも一人で正解出せる奴なんかいるわけねぇ」
「しかし――」
「古竜ですら風呂の温度で揉めてたぞ」
「なぜそこで我らを出す!」
少し離れた浴槽からヴァルガスの声が飛んでくる。
ダンがそちらを振り返った。
「分かりやすい例だったから!」
セレナは特に否定する様子もなく、静かに頷いた。
「まあ、間違ってはいないわね」
「お前まで!」
そのやり取りに、大浴場のあちこちから小さな笑い声が起きる。
そんな笑い声を聞きながら、セラフィエルは少しだけ目を伏せた。
ユウが静かに言う。
「疲れてたら、判断もしにくくなると思うよ」
「……」
「だから、休むのも仕事なんじゃないかな」
「休むのも……仕事」
セラフィエルは、その言葉を確かめるようにゆっくり繰り返した。
これまで、そんなふうに考えたことは一度もなかった。
休むことは役目を放棄することだと思っていたし、自分が立ち止まっている間にも、どこかで何かが起こるかもしれないと考えていた。
けれど、身体は思っていた以上に正直だった。
肩は重く、翼の付け根は固く、気づけば頭の奥までずっと張り詰めていた。
そして今、ただ温かな湯へ浸かっただけで、これほど身体が楽になっている。
「……いつからでしょう」
セラフィエルが小さく呟く。
「何が?」
「肩が重かったのか」
少し考えたあと、セラフィエルは遠い記憶を探るように目を細めた。
「百年……いえ、もっと前かもしれません」
ダンの動きが止まった。
「百年単位で肩こり放置してたの!?」
「気にする必要がないと思っていました」
「気にしろよ!」
ユウもさすがに驚いた顔をしていたが、すぐに少し笑う。
「じゃあ、もう少し入ってた方がいいね」
「……よいのですか?」
「もちろん」
「私は、この谷を消そうとしたのですよ?」
また同じ言葉だった。
けれどユウは、少しも迷わずに答えた。
「でも今は、温泉に入ってるお客さんでしょ」
セラフィエルはしばらくユウを見つめていた。
やがて、その表情がほんの少しだけ緩む。
「……あなたは、本当に変な人間ですね」
「よく言われる」
「俺は言ってる」
ダンがすぐに答える。
「ダンは言いすぎ」
「事実だろ」
二人のやり取りを聞きながら、セラフィエルの口元がわずかに動いた。
それが笑ったのか、それとも呆れただけなのかは、本人にもよく分からなかった。
ただ、もう少しだけここにいたい。
そんな気持ちが、自分の中にあることだけは分かった。
セラフィエルは浴槽の縁へゆっくりと背中を預け、六枚の翼から完全に力を抜いた。
白い羽根が湯面へふわりと広がる。
肩から、背中から、そして長い年月の間ずっと張り詰め続けていた心から、少しずつ余計な力が抜けていった。
「……もう少しだけ、調査を続けます」
その言葉に、ダンが笑う。
「まだ調査って言い張るのかよ」
「何か問題でも?」
「いや、好きなだけ調査してくれ」
今度はセラフィエルも反論しなかった。
神罰を下すために地上へ降りてきた審判の天使長は、どうやら誰よりも先に、自分自身を休ませる必要があったらしい。
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