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異世界温泉宿 ~使えないスキルと言われた俺、秘境の谷で温泉を作ったら人も魔物も通う場所になった~  作者: 堺久遠


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濡れた白い羽根

「先に言っておきますが、これはあくまで調査です」


大浴場の入口で、セラフィエルは念を押すようにそう言った。


「分かったよ」


ユウが素直に頷くと、セラフィエルはさらに続ける。


「温泉を楽しむためではありません。この谷に満ちる特殊な作用、その発生源を確かめるためです」


「はいはい」


今度は横にいたダンが適当に返事をしたため、セラフィエルの眉がわずかに動いた。


「あなたには言っていません」


「もう三回くらい聞いたからな」


「必要な確認です」


「入りたいなら普通に入りたいって言えばいいのによ」


「違います!」


大浴場の前にセラフィエルの声が響き、近くにいた客たちが一斉に振り返る。


その視線に気づいたセラフィエルは、すぐに口を閉じた。


ついでに六枚の白い翼まで、どこか恥ずかしそうに少し縮こまる。


その様子を見上げていたミナが首を傾げた。


「恥ずかしい?」


「違います」


「顔、赤い」


「これは……気温のせいです」


ダンが周囲を見回してから口を開く。


「ここ、そんな暑くないけどな」


「黙ってください」


神罰を落とそうとしていた時の威厳は、すでにかなり薄れていた。


ユウはそんなやり取りを苦笑しながら眺めたあと、大浴場の奥を指差す。


「極楽の湯は向こうだよ。まず身体を洗ってから入ってね」


「……身体を?」


セラフィエルが怪訝そうな顔をした。


「温泉だから」


「私は常に浄化されていますが」


「それでも洗ってください」


「必要なのですか?」


「必要です」


今回ばかりはユウの返事も妙に強かった。


その会話を少し離れた場所で聞いていたヴァルガスが、豪快な笑い声を上げる。


「諦めろ、天使長! 我も最初に止められた!」


「あなたも?」


「湯へ直接入ろうとしたら、先に身体を洗えと言われたぞ!」


得意げに言うヴァルガスへ、セレナが呆れた視線を向ける。


「それを自慢することではないわ」


セラフィエルは何とも言えない表情になったものの、結局はユウの言う通りに洗い場へ向かった。


ところが、そこで新しい問題が発生した。


「……この翼はどうすればよいのです?」


六枚ある大きな白い翼は、人間には当然ないものであり、普段から広げているだけでもかなりの場所を取る。


洗い場の椅子へ座ってみると、しっかり畳んでいるつもりでも、後ろを通る客にぶつかりそうになっていた。


少し離れた場所からその様子を眺めていたダンが聞く。


「畳めないのか?」


「畳んでいます」


「それで?」


「六枚あるのです」


「大変だな、天使って」


「他人事のように言わないでください」


セラフィエルは苦労しながら翼を身体の後ろへ寄せ、どうにか洗い場の中へ収まる。


その横では、ミナが珍しいものを見るように翼を眺めていた。


「羽根、いっぱい」


「触らないでください」


「まだ触ってない」


「触りそうだったでしょう」


「ちょっとだけ」


「駄目です」


そんなやり取りを続けながら身体を洗い終えた頃には、セラフィエルの表情から、先ほどまであった険しさがかなり消えていた。


代わりに見えてきたのは、隠しきれない疲労だった。


六枚の翼を持ち続けているせいなのか、それとも天使長として長く気を張り続けてきたためなのか、肩にも背中にも力が入りっぱなしになっている。


ユウはそんなセラフィエルを極楽の湯まで案内した。


そこは大浴場の中でも、特に疲労回復と精神安定を強めるように調整した浴槽で、熱すぎず、かといってぬるすぎることもなく、長く浸かっていられる程度の温度に保たれている。


浴槽の前まで来たセラフィエルは、そこで一度足を止めた。


「これが……極楽の湯?」


「そうだよ」


「見た目は普通ですね」


「温泉だからね」


「もっとこう……神聖な光が出ているとか」


「出ないよ」


その会話を聞いたダンが吹き出す。


「天使の期待する極楽と違ったらしいぞ」


「別に期待していません!」


そう言い返しながらも、セラフィエルはしばらく湯面を見つめていた。


白い湯気がゆっくりと立ち上り、その向こうでは何人かの客が気持ちよさそうに肩まで湯へ浸かっている。


人間もいれば獣人もいて、少し離れた場所には魔族の姿まである。


それでも誰一人として、セラフィエルを追い出そうとはしなかった。


むしろ、近くにいた人間の老人がセラフィエルへ気づくと、少しだけ横へ詰めた。


「空いてますよ」


セラフィエルは驚いたように老人を見る。


「私が誰か知っているのですか?」


「天使様なんでしょう?」


「天使長です」


「それは失礼」


老人は気にした様子もなく笑った。


「まあ、せっかく来たんだから入った方がいいですよ。ここの湯はいい」


それだけ言うと、老人はまた気持ちよさそうに目を閉じる。


セラフィエルはしばらく、その横顔を黙って見つめていた。


ほんの少し前まで、自分はこの場所を消し去ろうとしていた。


谷中の者があの神罰を見ていた以上、この老人もそれを知らないわけではないだろう。


それなのに、責められるどころか、ごく普通に場所を空けられた。


「……理解できません」


思わず小さく呟くと、隣にいたユウが聞き返す。


「何が?」


「何でもありません」


セラフィエルはそれ以上説明せず、少し迷ってからようやく片足を湯へ入れた。


「……っ」


ぴくりと肩が動く。


「熱い?」


ユウが心配そうに尋ねたが、セラフィエルはすぐに小さく首を振った。


「いえ」


そう答えてもう片方の足も湯へ入れ、膝、腰と少しずつ身体を沈めていく。


やがて肩まで浸かったものの、六枚の翼だけは完全に沈めることができず、浴槽の外側へ広げるような格好になった。


最初のうちは背筋を伸ばし、いかにも「調査しています」と言わんばかりの顔をしていた。


しかし十秒、二十秒、三十秒と時間が過ぎても、セラフィエルは何も言わない。


少し離れたところから様子を見ていたダンが、小声で問いかける。


「どうなんだ?」


返事はなかった。


セラフィエルは湯の中で目を見開いたまま、じっと動かなくなっていた。


ユウが首を傾げる。


「セラフィエルさん?」


しばらくして、ようやく口が動いた。


「……何ですか」


「うん?」


「何ですか、この温もりは……」


その声には、先ほどまでの張りがほとんど残っていなかった。


ユウは少し考えてから答える。


「温泉だけど」


「それは分かっています」


「じゃあ何だろう」


「あなたが分からないのですか?」


「気持ちいいならいいんじゃない?」


「またそれですか……」


いつものように反論しようとしたセラフィエルだったが、その声にも力が入らない。


温かな湯に包まれているうちに、ずっと強張っていた肩が少しずつ下がり始め、首や背中、それに翼の付け根に残っていた張りまで、ゆっくりとほどけていく。


セラフィエルはやがて目を閉じた。


天界の審判者として常に姿勢を正し、命令を受け、地上を監視し、異変があれば降り、必要であれば裁きを下す。


そんな日々を何年、何十年、あるいは何百年続けてきたのか、本人ですらもう正確には覚えていなかった。


休むという行為を必要だと思ったこともなかった。


天使にはそんなものは必要ない。


これまでずっと、そう考えてきた。


「……あ」


小さな声が漏れた。


いつの間にか翼の付け根からも力が抜けており、浴槽の縁へかけていた六枚の翼が、ばさりと音を立てて滑り落ちた。


その先端が一斉に湯へ沈む。


「あ」


ダンも思わず声を上げた。


セラフィエルが目を開け、自分の翼を見る。


白く美しかった羽根は、見事なまでに湯へ浸かっていた。


「濡れた」


ミナがそのまま事実を口にする。


「……濡れました」


セラフィエルの声は呆然としていた。


「大丈夫?」


ユウが聞くと、セラフィエルはしばらく翼を見つめたあと答えた。


「天使の翼は、水で傷んだりはしません」


「ならよかった」


「ただ……」


セラフィエルは濡れた翼を湯から持ち上げようとした。


ところが、水を吸った羽根は思っていた以上に重かったらしく、少し持ち上がったところで力が抜ける。


ばしゃりと音を立て、翼はまた湯へ落ちた。


それを見たダンが口元を押さえる。


「笑うなら笑いなさい」


「まだ何も言ってねぇよ」


「顔が笑っています」


「だってよ……さっきまで神罰落とそうとしてた天使長が、今は羽根濡らして困ってるんだぞ」


「誰のせいですか!」


「自分で落としたんだろ!」


セラフィエルはさらに言い返そうとしたものの、温泉の中にいるせいなのか、怒りも長くは続かなかった。


結局、翼を持ち上げることを諦め、そのまま湯の上へ浮かべることにしたらしい。


六枚の白い羽根が、水面の上をゆらゆらと漂っていく。


その光景を見たミナが、目を輝かせた。


「きれい」


「……そうですか?」


「うん」


セラフィエルは少しだけ戸惑ったような顔をする。


翼そのものを褒められることは、これまでにも珍しくなかったのだろう。


けれど湯へ濡れて浮かんでいる翼を見て、こんなに素直な言葉を向けられたのは初めてだったのかもしれない。


「羽根、乾かす場所もあるよ」


ユウが言うと、セラフィエルがそちらを見る。


「そんなものまで?」


「獣人の人たちが毛を乾かす場所があるから、使えると思う」


ダンが楽しそうに笑った。


「天使と獣人で共用か」


「何か問題ある?」


ユウが聞く。


「いや。もうこの谷なら何でもありだと思ってる」


その会話を聞きながら、セラフィエルはもう一度ゆっくりと湯船へ身体を預けた。


今度は先ほどよりも深く肩を沈め、首元近くまで温泉に浸かる。


目を閉じると、長い金色の髪が湯気の湿気を含み、頬へ少しだけ張り付いた。


もう、谷へ降り立った時の審判の天使長には見えなかった。


そこにいるのは、長い間ずっと気を張り続け、ようやく休むことを許された一人の女性のようだった。


しばらく誰も声をかけずにいると、やがてセラフィエルの方から静かに口を開いた。


「ユウ」


「何?」


セラフィエルは目を閉じたまま尋ねる。


「これは……どれくらい入っていてもいいのですか?」


その言葉に、ダンが思わず振り返った。


ユウは少しだけ笑いながら答える。


「のぼせない程度なら」


「そうですか」


「もう出る?」


少しだけ間が空いた。


「……まだ調査が終わっていません」


「そっか」


「勘違いしないでください」


「うん」


「これは調査です」


「分かったよ」


「……本当に分かっていますか?」


そのやり取りを聞いていたダンが吹き出す。


セラフィエルは彼を睨んだものの、今度はもう怒鳴ることはなかった。


極楽の湯の上では、濡れた六枚の白い羽根が温かな湯に揺られながら、いつまでもゆっくりと浮かんでいた。

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