翼を休める提案
神罰の光が消えたあとも、セラフィエルはすぐには地上へ降りてこなかった。
六枚の翼を広げたまま谷の上空に留まり続けており、先ほどまで空に浮かんでいた巨大な光輪は完全に消え、谷を覆っていた張り詰めた空気も少しずつ薄れているというのに、天使長本人だけはどうにも納得していないらしい。
「……私は審判を下すために来たのです」
何度目か分からない言葉を口にするセラフィエルを見上げながら、ユウは素直に頷いた。
「うん。それは分かったよ」
「では、なぜ休めなどと言うのですか」
「疲れてるように見えるから」
「疲れていません」
「でも翼が下がってるよ」
そう言われたセラフィエルは、反射的に自分の翼へ視線を向けた。
先ほどまで威圧するように大きく広がっていた六枚の翼は、今では明らかに力が抜けている。
本人もそれに気づいたのか、慌てたように翼へ力を込めた。
ばさりと音を立てて一度は大きく広がったものの、数秒もしないうちに、また少しずつ下がっていく。
その様子を見ていたダンが、思わず呟いた。
「無理すんなよ」
「無理などしていません!」
「声だけは元気だな」
「黙りなさい!」
怒鳴るだけの元気は残っているらしいが、先ほどまで全身から放っていた神聖な威圧感は、すでにほとんど感じられなくなっていた。
それを面白そうに眺めていたヴァルガスが、腕を組んだまま問いかける。
「どうした天使長。神罰とやらを撃たぬのなら、いつまでそこに浮かんでいる?」
「あなた方を監視しています」
「我らはこれから風呂へ戻るぞ」
「……何?」
セラフィエルが思わず聞き返すと、ヴァルガスは当然のように大浴場の方を指差した。
「途中だったからな」
「せっかくちょうどいい温度にしてもらったのに、騒ぎで出ることになったもの」
セレナも同意するように頷く。
その隣では、レグルスが顎へ手を添えながら真剣に考え込んでいた。
「入浴中断による身体への影響についても調べたいところですね」
「お前は何でも調べるな」
フェルザードが呆れたように言う。
一方、ガルヴァーンはすでに話が終わったものと判断したらしく、大浴場へ向かって歩き始めていた。
「冷める」
「湯は冷めねぇよ!」
ダンが慌てて止める。
「なら問題ない」
「何の確認だったんだよ!」
古竜たちはすっかりいつもの調子へ戻っていた。
その様子を上空から見下ろしていたセラフィエルの表情が、さらに複雑なものへ変わっていく。
ほんの少し前まで、自分はこの谷へ神罰を落とし、すべてを浄化しようとしていたはずなのに、肝心の住人たちはすでにそのことを引きずる様子もなく、普通に風呂へ戻ろうとしている。
「……理解できません」
セラフィエルが思わず呟くと、ユウが顔を上げた。
「何が?」
「なぜ、あなた方はこれほど平然としているのです」
「平然?」
「私は、この地を消そうとしたのですよ」
「うん」
「あなたも狙われていたのですよ」
「そうだね」
「それなのに、なぜそんな普通に話しかけられるのです!」
少し苛立ちの混じった声に、ユウは困ったように頬を掻いた。
「でも、もう攻撃してこないでしょ?」
「それは……」
「なら、話せるかなって」
セラフィエルは何も答えられず、そのまま黙り込んだ。
そんなユウを横目で見ながら、ダンが呆れ半分に口を開く。
「お前、本当に切り替え早ぇよな」
「ずっと警戒してても疲れるだけだし」
「まあ、それはそうだけどよ」
しかし、セラフィエルにはその考え方そのものが理解できないようだった。
天界では、秩序を乱す者を裁き、命令に従わない者を排除する。それが当たり前であり、一度敵対した者は、その後も敵として扱われるのが当然だった。
だからこそ、自分が神罰を向けた相手から、ごく普通に「休め」と言われている今の状況が、どうしても理解できない。
その時、ユウの隣にいたミナがセラフィエルを見上げた。
「降りてくれば?」
「……あなたまで何を」
「ずっと飛んでるの、疲れそう」
「だから疲れてはいません」
ミナは少しだけ考えたあと、今度は別の質問を投げかけた。
「じゃあ、なんで降りないの?」
「……」
あまりにも単純な問いだったが、セラフィエルは答えることができなかった。
神罰を続けるつもりなら、すでにもう一度撃っているはずだ。
帰るつもりなら、このまま天界へ戻ればいい。
だというのに、自分はそのどちらもせず、こうして谷の上空へ留まり続けている。
なぜここに残っているのか、自分でも分からなくなっていた。
そんなセラフィエルの様子を見ながら、ユウは少し考え込み、ふと思いついたように口を開いた。
「まあ、立ち話も何ですし」
その言葉を聞いた瞬間、ダンの表情が変わる。
「おい」
「湯に浸かっていきませんか?」
一瞬、周囲が静まり返った。
セラフィエルが目を見開く。
「……何を言っているのです?」
「温泉」
「それは分かります!」
「ならいいじゃない」
「よくありません!」
今までで一番大きな声が谷へ響き、近くにいた者たちまで何事かと振り返った。
ダンは予想通りの展開になったと言わんばかりに額を押さえる。
「やっぱり言ったか」
「だって疲れてそうだし」
「相手、さっきお前を消そうとしてたんだぞ?」
「でも今はしてないよ」
「基準が軽すぎるんだよ!」
ダンが叫んでいる間も、セラフィエルは信じられないものを見るような顔でユウを見つめていた。
「私は天界の審判者です。あなた方を裁くために来たのですよ」
「それも聞いたよ」
「その私に、温泉へ入れと?」
「うん」
「なぜです!」
ユウは少し首を傾げた。
「疲れてる人がいたら温泉を勧めるの、そんなに変かな?」
「変です!」
即答だった。
そのやり取りを聞いていたカヤが、ついに堪えきれず笑い出す。
「ユウには普通なんだよ」
リーフェも苦笑しながら頷いた。
「もう諦めた方がいいと思うわ。ユウは相手が誰でもだいたい同じだから」
「私が誰なのか理解しているのですか?」
セラフィエルが確認するように尋ねると、ユウは素直に答えた。
「天使長のセラフィエルさん」
「……理解しているのですね」
「うん」
「それでも誘うのですか」
「天使長でも疲れるでしょ?」
その言葉を聞いたセラフィエルは、また何も言えなくなった。
天使長でも疲れる。
考えてみれば、これまでそんなことを言われた記憶は一度もなかった。
天使長なのだから常に正しく、常に強く、天界の命に従いながら世界の秩序を監視し続ける。それが当然であり、疲れていても、休みたいと思っても、そんなことを口にする必要などないと考えてきた。
いや、必要がないというより、口にしてはいけないと思っていたのかもしれない。
「……疲労など」
セラフィエルが小さく呟く。
「職務には関係ありません」
するとユウがすぐに聞き返した。
「でも疲れてるんだ?」
「……」
今度は、否定の言葉が返ってこなかった。
その反応を見たダンが眉を上げる。
「これ、結構効いてるな」
「何が?」
「お前の無自覚な押しの強さだよ」
ユウはよく分からないという顔をしている。
そこへフェルザードが笑いながら口を挟んだ。
「天使長よ、一度入ってみればよいではないか」
「古竜が私に勧めるのですか」
「我らも最初は半信半疑だった」
ヴァルガスが大きく頷く。
「だが入れば分かる!」
「少なくとも、今のあなたには必要そうね」
セレナまで珍しく同意すると、セラフィエルが不満そうに眉を寄せた。
「何を根拠に」
「顔」
「……」
あまりにも迷いのない答えに、セラフィエルが言葉を詰まらせる。
さらにレグルスまで、いつもの観察癖を発揮し始めた。
「確かに、肩周辺の筋肉に強い緊張が見られますね」
「見るな!」
「翼の付け根もかなり硬そうです」
「分析しないでください!」
「あと目の下も少し――」
「黙りなさい!」
セラフィエルの顔が赤くなる。
その様子を見て、ダンが思わず笑った。
「天使長って大変なんだな」
「笑わないでください!」
すでに、最初に谷へ降りてきた時の威厳はかなり危ういものになっていた。
そんなセラフィエルへ、ユウはもう一度穏やかに声をかける。
「嫌なら無理には言わないよ」
セラフィエルがユウを見る。
「でも、極楽の湯っていう疲れが取れやすい温泉があるんだ。肩とか身体の疲れには結構いいと思う」
「極楽……」
その名前を聞いた瞬間、セラフィエルの眉がぴくりと動いた。
「天界の者に向かって、その名の湯を勧めるのですか」
「名前、変だった?」
「そういう問題では……」
そこまで言って、また言葉が止まる。
極楽の湯。
名前だけでも妙に気になるうえ、谷にはまだ温泉から立ち上る湯気が漂っており、先ほどから鼻先へ届く温かな空気は、不思議と気持ちを落ち着かせていた。
気づけばセラフィエルの視線は、大浴場の方へ向いている。
そこから立ち上る白い湯気の向こうでは、古竜たちが楽しそうに戻っていき、さらに遠くからは、すでに湯へ戻った客たちの気持ちよさそうな声まで聞こえてきた。
しばらくその光景を眺めていたセラフィエルが、やがて小さく口を開く。
「……一つだけ」
ユウが顔を上げる。
「何?」
「確認するだけです」
「何を?」
「その温泉が、この谷の異常性を生み出している可能性があります」
突然もっともらしい理由が出てきた。
ダンが目を細める。
「つまり?」
「調査です」
「入りたいだけじゃねぇの?」
「違います!」
セラフィエルは強く否定した。
しかし、その背中にある六枚の翼は、ほんの少しだけ嬉しそうに持ち上がっている。
それを見逃さなかったミナが、小さな声で呟いた。
「入りたいんだ」
「違います!」
「じゃあ入らない?」
「……調査します」
その答えを聞いた瞬間、ダンが吹き出した。
「結局入るんじゃねぇか!」
ユウはそんなやり取りを気にする様子もなく笑う。
「じゃあ案内するよ」
セラフィエルは少しだけ迷ったものの、やがて観念したように六枚の翼を畳み始めた。
そして、天界の審判者としてやわらぎの谷へ降り立って以来、初めて完全に地面へ足をつける。
「勘違いしないでください」
歩き出す前に、セラフィエルが念を押すように言った。
「うん?」
「私はこの谷を認めたわけではありません」
「分かってるよ」
「これはあくまで調査です」
「うん」
「温泉を楽しむつもりなどありません」
「はいはい」
横から適当に返事をしたダンへ、セラフィエルが勢いよく振り向く。
「あなたに返事を求めていません!」
そんな調子で大浴場へ向かいながらも、セラフィエルはまだ必死に自分へ言い聞かせるように言い訳を続けていた。
その少し後ろを歩きながら、ミナがユウを見上げる。
「極楽の湯、気に入るかな」
「どうだろう」
ユウは少しだけ笑った。
「でも、一回ちゃんと休んだ方がいいと思う」
その言葉を聞いていたダンも、今度は何も否定しなかった。
こうして、神罰を落とすためにやってきた審判の天使長は、自分でもどうしてこうなったのかよく分からないまま、やわらぎの湯の暖簾をくぐることになった。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークやページ下部の☆を押して評価をお願い致します!
作者の励みになります!




