効かない神罰の光
空に浮かぶ巨大な光の輪から、白い輝きが谷全体へ降り注いでいた。
温泉街の建物も、大浴場から立ち上る湯気も、その光を浴びて白く染まり、普段なら賑やかな朝の景色が、今だけは別世界のように静まり返っている。
その中心で、セラフィエルは六枚の翼を大きく広げたまま、手にした剣を静かに掲げていた。
「最後にもう一度だけ告げます。この地を解散させなさい」
「嫌だよ」
ユウは迷うことなく即答した。
あまりにも間を置かない返事だったため、隣にいたダンが一瞬だけユウへ視線を向ける。
「もうちょっと考えるふりくらいしないのか?」
「考えても答えは変わらないし」
「まあ、そうだけどよ」
ダンは呆れたように息を吐くと、剣を構え直しながら空に浮かぶ巨大な光輪を見上げた。
あれが本当に落ちてくるのであれば、普通の攻撃で済むはずがない。
リーフェも同じ判断をしているらしく、すでに周囲へ魔力を集め始めており、少し離れた場所では四大古竜たちも完全に戦う態勢へ変わっていた。
先ほどまで温泉の湯加減について言い争っていた姿はどこにもなく、ヴァルガスの周囲では炎が揺らめき、セレナの足元からは白い霜が広がっている。レグルスの背後には星のような光が浮かび、ガルヴァーンに至っては、その場に立っているだけで足元の地面がかすかに震えていた。
そんな中、フェルザードが一歩前へ出てセラフィエルを見上げる。
「天使長よ、本当にやるつもりか?」
「これは天界の決定です」
「ならば天界は、我ら古竜まで敵に回すことになるぞ」
その言葉を受けて、セラフィエルの表情がわずかに険しくなった。
「古竜が人の営みに肩入れすること自体が、すでに異常なのです」
「肩入れ?」
ヴァルガスが鼻を鳴らす。
「我は温泉に入っていただけだぞ」
「私もよ」
セレナも当然のように続けた。
「同窓会をして、食事をして、湯に浸かった。それだけでしょう」
「その結果、なぜ世界を滅ぼす話になるのでしょうね」
レグルスが本気で理解できないといった様子で首を傾げる横で、ガルヴァーンだけは腕を組んだまま低い声を漏らした。
「風呂を壊すなら許さん」
「お前は一番理由が単純だな!」
思わずダンが振り返る。
しかしセラフィエルは、そのやり取りに反応することなく剣を下ろさなかった。
「理由が何であれ、世界の秩序を乱すものは取り除かなければなりません」
その言葉と同時に、空の光輪がさらに強く輝き始める。
白い光が一点へ集まり、その中心から凄まじい魔力が膨れ上がっていくのを感じ、リーフェが顔を強張らせた。
「来るわよ」
ダンもすぐに前へ出る。
「ユウ、下がれ」
「でも」
「いいから!」
強い声に押されるように、ユウが一歩下がった。
全員が来るべき一撃へ備える。
ところが、いつまで経っても光は落ちてこなかった。
「……?」
ダンが眉を寄せる。
セラフィエルは変わらず剣を掲げたままで、空の光輪も消えてはいない。それどころか、神聖な力は十分すぎるほど集まっているように見えた。
それなのに、攻撃だけが来ない。
「何してんだ?」
たまらずダンが尋ねると、セラフィエルは視線を向けないまま答えた。
「黙りなさい」
その声には、先ほどまでなかった苛立ちが混じっている。
セラフィエルは改めて剣へ力を込め、空の光を眩しいほど強く輝かせた。
だが、その直後だった。
集まっていた輝きが、ふっとわずかに弱くなる。
「……おかしい」
セラフィエルが小さく呟いた。
それを聞いたユウが不思議そうに首を傾げる。
「何か失敗した?」
「失敗などしていません!」
今度は即座に返事が飛んできた。
「この術は幾度も使用しています。天界の審判を拒む者へ、神罰を下すための術です」
「なら早く撃てばよいではないか」
ヴァルガスが当然のように言う。
「今やろうとしています!」
「先ほどから全然撃っておらんぞ」
「集中を乱さないでください!」
「我のせいなのか?」
「絶対違うだろ」
ダンが呆れた顔になる。
セラフィエルは一度深く息を吸い、古竜たちを無視するように改めて剣を構え直した。
今度こそ。
そう言わんばかりに、先ほど以上の力を集め始める。
しかし、やはり結果は同じだった。
一定のところまで高まった力が、途中からゆっくりと弱まってしまう。
「……なぜ?」
今度の声には、明らかな戸惑いが混じっていた。
その時、谷をゆるやかな風が吹き抜けた。
大浴場や露天風呂から立ち上っていた大量の湯気が、その風に乗って温泉街全体へ広がっていく。
温かな湿気がユウの頬を撫でると、すぐ近くにいたミナが目を細めた。
「気持ちいい」
「お前、この状況でよくそんな感想出るな」
ダンが横を見る。
「でも気持ちいい」
「まあ……そうだけど」
言われてみれば、確かにそうだった。
ダン自身も、さっきまで張り詰めていた身体から、少しずつ余計な力が抜けていることに気づく。
剣を握る手は緩めていないし、警戒を解いたわけでもない。それでも今すぐ誰かと殺し合おうという気持ちには、どうしてもなれなかった。
ユウも周囲へ視線を巡らせる。
大浴場を拡張してからというもの、谷には以前より多くの湯気が流れるようになっていた。
さらに最近の温泉には、疲労を和らげるだけではなく、気持ちを落ち着かせる作用も少しずつ強くなっている。
それは、人間と魔族が同じ湯へ浸かるようになってから、ユウが何度も調整を重ねてきた結果だった。
もちろん、喧嘩を無理やり止めたり、誰かの意志を奪ったりするような効果ではない。
ただ苛立っていた者が少しだけ冷静になり、張り詰めていた者が肩の力を抜ける程度のものだ。
レグルスが空気へ手を伸ばし、湯気に混じる魔力を静かに確かめる。
「なるほど」
「何か分かった?」
ユウが尋ねると、レグルスは感心したように周囲を見渡した。
「この谷全体に、温泉の効果がごく薄く拡散しています」
「谷全体?」
「はい。強いものではありませんが、精神を安定させ、過剰な敵意を抑える働きがあるようです」
その説明を聞いたダンが、すぐさまユウを見る。
「お前、いつの間にそんなことした?」
「いつの間にって言われても……温泉の調整はしてたけど」
ユウ自身も困ったように答える。
「本人が一番分かってねぇのかよ!」
そんな会話を聞いていたセラフィエルの表情が険しくなる。
「精神干渉……」
声まで低くなった。
「この程度の術で、天使長たる私の意志を曲げられると思っているのですか!」
「別に曲げようとはしてないよ」
ユウはいつもと変わらない口調で答える。
「みんなが少し落ち着けるようにしてるだけだから」
「同じことです!」
セラフィエルは強く言い返すと、再び剣を掲げた。
今度こそ本気なのだろう。
六枚の翼が大きく広がり、空に浮かんでいた光輪から一斉に光が集まっていく。
谷にいる者たちも再び身構えた。
ところが、まさに力を放とうとしたその時、セラフィエルの視線がふと温泉街へ向いた。
食堂の前では、レインたちが避難の準備を進めている。
露店ではカヤが子供たちを建物の陰へ移動させ、人間の冒険者が足の悪い魔族の老人へ肩を貸していた。
さらにその向こうでは、獣人が泣きそうになっている小さな子供を抱き上げ、安全な場所へ運んでいる。
そこには争いなどなかった。
誰かを傷つけようとしている者もいなければ、人間だから、魔族だからという理由で見捨てようとしている者もいない。
「……」
セラフィエルの剣が、ほんの少しだけ下がった。
それを見たフェルザードが静かに尋ねる。
「どうした?」
「黙っていなさい」
「まだ撃たぬのか?」
「撃ちます!」
セラフィエルは反射的に剣を上げ直した。
しかし今度は、術が失敗したわけではない。
セラフィエル自身が、途中でその手を止めた。
しばらく何も言わず谷を見つめていた彼女は、やがて理解できないものを見るような険しい表情を浮かべる。
「……なぜなのです」
「何が?」
ユウが聞き返す。
「なぜ、これほど敵意がないのです」
「みんな温泉入りに来てるからじゃない?」
「そういう意味ではありません!」
思わずセラフィエルの声が大きくなる。
「人間と魔族です。本来なら互いに警戒し、争い、境界を守るはずでしょう」
するとダンが肩をすくめた。
「最初はそうだったぞ」
「ならば、なぜ今はこうなっているのです?」
「温泉入って、飯食ってたらこうなった」
「そんな理由で?」
「俺に言うなよ」
ダンも自分で言いながら、説明になっているのか分からないという顔をしている。
その時、ミナがセラフィエルを見上げた。
「一緒にいる方が楽しいから」
「……」
「それじゃ駄目?」
あまりにも真っ直ぐな問いに、セラフィエルはすぐには答えられなかった。
空の光輪はまだ残っていたものの、その輝きは先ほどまでとは比べものにならないほど弱くなっている。
その様子を眺めていたセレナが、静かな声で言った。
「あなた、自分でも撃つ理由が分からなくなっているのでしょう?」
「違います」
「なら撃てばいいわ」
「……」
セラフィエルは答えず、当然ながら光も落ちてこない。
その様子を見たヴァルガスが腕を組んだまま笑った。
「分かりやすいな」
「黙りなさい!」
「怒る元気はあるようだ」
「十分じゃねぇか」
ダンまで笑い始めたことで、セラフィエルの頬がわずかに赤くなった。
それでも今度は言い返さず、しばらく黙ったまま空を見上げている。
やがて、そこに浮かんでいた巨大な光輪がゆっくりと薄れ始めた。
白い光は少しずつ空へ溶け、最後には何事もなかったかのように消えていく。
神罰の光が完全に消えた瞬間、谷のあちこちから一斉に安堵の息が漏れた。
ユウも空を見上げたあと、改めてセラフィエルへ視線を戻す。
「もう撃たない?」
「……まだ判断したわけではありません」
「でも疲れてるでしょ」
「疲れてなどいません」
「翼、ちょっと下がってるよ」
「これは……」
指摘されて、セラフィエルが思わず自分の翼を見る。
確かに、最初に空から降りてきた時には威圧するように大きく広がっていた六枚の翼が、今では少し力なく垂れ気味になっていた。
それを見たミナも真剣な顔で頷く。
「疲れてる」
「私は天使長です」
「天使長でも疲れるんじゃない?」
ユウにそう言われても、セラフィエルはすぐには答えなかった。
その姿を見ながら、ダンはようやく剣を鞘へ戻す。
「もう神罰って雰囲気じゃねぇな」
「そうだね」
「で、どうすんだ?」
尋ねられたユウは少しだけ考え、それからまだ宙に浮かんでいるセラフィエルへ声をかけた。
「とりあえず降りてきませんか?」
「……何?」
「ずっとそこに浮いてるのも大変でしょう」
セラフィエルは信じられないものを見るようにユウを見た。
「私はあなた方を裁きに来たのですよ?」
「それは聞いたよ」
「ならば、なぜそのようなことを言えるのです」
ユウは少し不思議そうに首を傾げる。
「だって、疲れてる人をそのままにするのも変だし」
その答えを聞いて、セラフィエルが言葉を失った。
フェルザードは口元を押さえて笑いを堪え、ダンに至ってはユウが次に何を言うのか分かったらしく、すでに額へ手を当てている。
そんな周囲の反応など気にせず、ユウはいつもの調子で続けた。
「立ったままじゃ話しにくいし、少し休んでから話しましょう」
セラフィエルは何も答えず、しばらくユウを見つめ続けた。
つい先ほどまで神罰を落として消し去ろうとしていた相手から、今度は休めと言われている。
普通ならば、あり得ない状況だった。
それでも谷を漂う温かな湯気に包まれ、目の前に広がる穏やかな光景を見ているうちに、セラフィエル自身も、なぜかその提案を強く拒む気にはなれなくなっていた。
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