空から降り立った審判
古竜たちがすっかりやわらぎの谷の温泉を気に入り、ユウを半ば本気で「湯の神」と呼び始めてから、数日が経っていた。
谷は相変わらず賑やかで、朝になれば人間も獣人も魔族も温泉へ向かい、露店ではカヤの元気な声が響き、食堂ではレインが朝食の準備に追われている。
最近では古竜たちまで人型の姿で温泉街を歩くようになり、最初こそ遠巻きに眺めていた客たちも、少しずつその光景に慣れ始めていた。
もっとも、巨大な力を持つ古竜がごく普通に露店へ並び、真剣な顔で温泉まんじゅうを選んでいる光景まで「日常」と呼んでいいのかは、ダンにもよく分からない。
「……慣れって怖いな」
朝風呂を終えたダンが、露店の前でまんじゅうを選んでいる古竜の一人を眺めながら呟くと、隣にいたユウが不思議そうに首を傾げた。
「何が?」
「少し前まで、あいつらが来ただけで谷中が大騒ぎだっただろ。それが今じゃ、誰も逃げねぇ」
「いいことじゃない?」
「まあ、それはそうなんだけどな」
ダンが何とも言えない顔で答えた、その時だった。
谷の上空から、ごぉん、と低く響く音が聞こえてきた。
鐘の音にも似ているが、もっと重く、どこか遠くから大地そのものへ伝わってくるような響きだったため、温泉街を歩いていた者たちが一斉に足を止める。
カヤの猫耳がぴんと立ち、表情から笑みが消えた。
「……何、今の?」
その隣でミナも空を見上げる。
「上」
短く告げたミナにつられるように、ユウたちも視線を上へ向けると、晴れていた空の一点へ白い光が集まり始めていた。
最初は小さな点にしか見えなかった光は、見る間に大きくなり、やがて円を描くように周囲の雲を押し退けていく。
「また何か来るのか?」
ダンが露骨に嫌そうな顔をした。
「最近、空から来る奴まで増えてないか?」
「今日は誰だろうね」
「そういう問題じゃねぇよ」
そんなやり取りをしている間にも、光の中心から一つの人影がゆっくりと降りてくる。
白銀の鎧を身につけ、背には大きな六枚の翼を広げ、長い金色の髪を光の中で揺らしている。その手に握られているのは、装飾の少ない細身の長剣だった。
その姿を見たリーフェが、わずかに表情を強張らせる。
「……天使」
「天使?」
カヤが目を丸くすると、リーフェは降下してくる存在から目を離さないまま、小さく首を振った。
「しかも、ただの天使じゃないわ。あれは天使長級ね」
「普通の天使でも十分面倒そうなのに、なんで上の奴が来るんだよ」
ダンの顔が引きつる中、光に包まれた天使は温泉街の中央へ静かに降り立った。
足が地面へ触れた瞬間、周囲の空気が目に見えないほど大きく変わり、それまで騒がしかった露店街から声が消える。
人間も魔族も獣人も、誰もが息を呑んで相手を見つめていた。
天使はしばらく無言で周囲を見渡していたが、その目には怒りも驚きもなく、ただ何かを確認するような冷たい光だけが宿っている。
やがて、その口がゆっくりと開いた。
「この地を管理する者は誰だ」
低く澄んだ声が、不思議なほど遠くまで響いていく。
ユウは周囲を一度だけ見回してから、そのまま一歩前へ出た。
「僕だけで管理してるわけじゃないけど、話なら聞くよ」
すると隣にいたダンが、小声で呟く。
「相変わらずこういう時も軽いな、お前」
天使の視線がユウへ向けられ、しばらく何も言わずに彼を見つめたあと、静かに問いかけた。
「お前がユウか」
「そうだけど」
「人間でありながら魔族を受け入れ、獣人、精霊、古竜までも同じ地へ集めていると聞いた」
ユウはその言葉を聞くと、少しだけ首を傾げる。
「聞いたって、誰から?」
「答える必要はない」
「そう」
あっさり引き下がったユウに、ダンがすぐ横から口を挟んだ。
「そこ流すのかよ」
だが天使は、そんな二人のやり取りを気にした様子もなく続ける。
「私は天界より遣わされた審判の天使長、セラフィエル」
その名が告げられた瞬間、リーフェが息を呑んだ。
「セラフィエル……」
「知ってるの?」
ユウが振り返ると、リーフェは険しい表情のまま頷く。
「天界でもかなり上位の存在よ。世界の秩序が大きく乱れた時にしか、地上へ降りないと言われてるわ」
「で、その偉い天使長様が温泉に何の用だ?」
ダンが顔をしかめながら尋ねると、セラフィエルの視線がゆっくりと彼へ向いた。
「温泉に用はない」
「じゃあ帰ってくれ」
「ダン」
ユウが止めるように名前を呼ぶが、ダンは肩をすくめる。
「いや、嫌な予感しかしねぇだろ」
そして、その予感は外れなかった。
セラフィエルは長剣の切っ先を地面へ向けたまま、谷全体を見渡すように視線を巡らせる。
「この谷は、世界の理から外れ始めている」
その一言で、周囲の空気が一気に重くなった。
ユウの表情も、今度ばかりはわずかに変わる。
「どういう意味?」
「人は人の領域にあり、魔族は魔族の領域にあるべきもの。相反する種が無秩序に交われば、世界の均衡は崩れる」
ダンは眉を寄せた。
「無秩序って言うけど、ここじゃ普通に飯食って風呂入ってるだけだぞ」
「それこそが問題だ」
「何でだよ」
セラフィエルは答える代わりに、再び谷の中へ視線を向けた。
そこでは人間の商人と魔族の客が同じ露店を眺め、獣人の子供が精霊の隣を駆け抜け、その少し離れた温泉では古竜までもがのんびりと湯に浸かっている。
谷で暮らす者たちにとって、それはすでに珍しくもない日常の光景だった。
しかし、天使長にとっては違うらしい。
「敵対すべき種が境界を失い、互いを受け入れている。この状態が広がれば、本来保たれるべき秩序そのものが崩壊する」
「でも、仲良くしてるだけだよ?」
カヤが眉を寄せながら言うと、ミナも隣で小さく頷いた。
「そう。悪いことしてない」
二人の言葉を聞いても、セラフィエルの表情は変わらない。
「善悪の問題ではない」
「じゃあ何の問題なの?」
ユウが問いかけると、セラフィエルは迷うことなく答えた。
「理の問題だ」
その言葉に、少し離れた場所で話を聞いていた古竜たちが反応する。
人型の姿を取っていた一体が目を細めれば、別の古竜も腕を組んだ。
「ほう。面白いことを言う」
セラフィエルは古竜たちへ視線を向けたものの、怯む様子はない。
「古き竜まで人の営みに混ざるとは」
「温泉に入っているだけだが?」
「それが気に入らぬのか?」
「我らの湯浴みまで天界が決めるのか」
三体目まで口を挟み始めたところで、ダンが嫌そうに眉間へ皺を寄せる。
「この話、絶対ややこしくなるぞ」
「そうだね」
ユウも少し困ったように笑ったが、セラフィエルは古竜たちを無視するように、再び彼へ視線を戻した。
「ここを解散させろ」
それまでざわついていた谷へ、一瞬で沈黙が落ちる。
「人と魔族を分け、異なる種をそれぞれ本来あるべき場所へ戻せ。そうすれば浄化は行わない」
「浄化?」
ダンの声が低くなった。
セラフィエルは静かに剣を持ち上げる。
すると、その刃から白い光が溢れ始め、一瞬遅れて谷の上空に巨大な光の輪が現れた。
輪の中央へ無数の光が集まり始めた途端、周囲の魔力が激しく揺れ出す。
その異常な気配を感じ取ったリーフェが、はっきりと顔色を変えた。
「まずいわ。あれ、本気よ」
カヤが息を呑み、ミナもユウの近くへ寄る。
温泉街にいた者たちも、ようやく目の前で起きていることの危険性を理解したのか、あちこちでざわめきが広がり始めていた。
ダンは腰の剣へ手をかけながら、セラフィエルを鋭く睨む。
「話し合いに来たんじゃなかったのか?」
「猶予は与えた」
「どこがだよ」
ダンの言葉を聞きながら、ユウは空に浮かぶ光の輪を見上げ、それから静かに谷の中へ視線を戻した。
温泉へ入っている者がいる。
露店で働いている者がいる。
食堂ではレインが料理を作り、少し離れた場所ではドグランたちが朝から建築作業を続けている。
ここへ来てから出会った者たちが、人間も魔族も獣人も精霊も関係なく、同じ場所でそれぞれの日常を過ごしていた。
それを、世界の理に反するから消す。
どう考えてみても、ユウにはその言葉が理解できない。
「セラフィエル」
ユウが静かに呼びかけると、天使長は視線だけを向けた。
「何だ」
「一つ聞いていい?」
「許可する」
「世界の理って、誰が決めたの?」
その問いを聞いた瞬間、セラフィエルの目がわずかに細くなる。
「天界の定めだ」
「じゃあ、ここにいる人たちは?」
「何?」
「この谷で暮らしてる人たちが、自分たちで一緒にいたいって決めたことは、理にはならないの?」
その問いに、セラフィエルは初めてすぐに答えなかった。
ダンが隣で小さく笑う。
「それ、いいな」
カヤもすぐに頷いた。
「うん。あたしたち、誰かに一緒にいろって言われてるわけじゃないもん」
リーフェも一歩前へ出て、まっすぐにセラフィエルを見つめる。
「少なくとも私は、自分でここにいることを選んでいるわ」
すると古竜たちも、それぞれ面白そうに笑った。
「我らも同じだ」
「湯が良いからいる」
「それを止める資格が天界にあるとは思えぬな」
「最後だけ理由が温泉じゃねぇか」
ダンがすぐさま突っ込んだが、今度ばかりは誰も笑わなかった。
セラフィエルはしばらく黙ったまま谷を見回していたが、やがて手にしていた剣を強く握り直す。
「ならば、判断は変わらない」
その言葉と同時に、上空の光が一段と強くなった。
「この地を浄化する」
その瞬間、古竜たちの顔から一斉に笑みが消え、リーフェはすぐさま魔力を集め始める。
ダンも剣を抜き、いつでも動けるように身構えた。
カヤとミナもユウの後ろへ隠れようとはせず、その場に立ったまま空を見上げている。
そんな中、ユウだけは動かず、静かに巨大な光の輪を見つめていた。
昨日まで、古竜たちが温泉の湯加減について本気で言い争っていた場所。
人間と魔族が同じ食堂で飯を食い、精霊がぬる湯でくつろぎ、獣人の子供たちが笑いながら走り回っている場所。
ユウにとっては、それが今のやわらぎの谷だった。
そんな場所を、世界の理に反するという理由だけで消すと言われても、納得できるはずがない。
「だったら」
ユウはゆっくりとセラフィエルへ視線を戻す。
「まず、話を聞いてもらうよ」
「拒むと言ったはずだ」
「それでもだよ」
ユウは迷うことなく一歩前へ出た。
「ここを消させるつもりはないから」
空から降り注ぐ白い光が谷全体を照らし、温泉から立ち上る湯気まで白く染め上げていく。
穏やかな朝だったはずの空には、今や巨大な審判の輪が浮かんでいた。
こうして、いつもと変わらない一日を迎えるはずだったやわらぎの谷に、天界から初めての審判が下されようとしていた。
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