湯の神へ
大浴場は、先ほどまでの騒ぎが嘘のように静かになっていた。
炎天竜ヴァルガスは自分好みの熱い湯へ肩まで浸かり、氷海竜セレナは少し温度を下げた場所で気持ちよさそうに目を閉じている。冥星竜レグルスも分析を忘れたように浴槽の縁へ身体を預け、地殻竜ガルヴァーンは大型種用の深い浴槽へ巨体を沈めたまま、まるで岩山のように動かなくなっていた。
フェルザードだけは、そんな仲間たちを見ながら満足そうに笑っている。
「だから言っただろう。ここの湯は格別だと」
「温泉そのものもそうだが……」
ヴァルガスが目を開け、湯の中で片腕を持ち上げた。
「この温度は見事だ」
少し離れた場所からダンが聞く。
「まだ熱くないのか?」
「ちょうどいい」
「俺なら三秒で出るぞ」
「鍛え方が足りん」
「温泉に入るために何を鍛えろってんだよ」
いつものように返したダンだったが、ヴァルガスはもう聞いていなかった。
彼の視線は浴槽の反対側へ向けられている。
そこではセレナが、ヴァルガスのいる場所とはまるで違う温度の湯へ浸かっていた。
同じ大浴場の中だというのに、こちらは彼女に合わせてかなり低めに調整されている。
「それにしても妙ね」
セレナが静かに口を開いた。
「何がだ?」
フェルザードが聞く。
「同じ源泉を使っているのでしょう?」
「そうだよ」
近くにいたユウが答える。
「それなのに、ここまで自然に温度を分けられるものなの?」
「流れ方と湯の性質を少し変えてるんだ」
「少し?」
セレナの目がユウへ向く。
その視線は先ほどまでよりも明らかに真剣だった。
レグルスも興味を取り戻したらしく、浴槽の中で姿勢を直した。
「私もそこが気になっていました。同じ水系の中で局所的な温度差を作るだけなら方法はいくつかありますが、これほど安定させるとなると話は別です」
ダンが嫌そうな顔をする。
「始まったぞ」
「何が?」
ユウが聞く。
「レグルスの分析」
「今度はちゃんと最後まで聞いてみたいな」
「お前が乗ると長くなるからやめろ」
しかし、レグルスはすでに完全に研究者の顔になっていた。
「温度だけではありません。湯そのものの魔力密度も場所によってわずかに違う。ヴァルガス殿のいる場所は熱を保持しやすく、セレナ殿の周囲では逆に過剰な熱が自然に逃げるよう調整されている」
ヴァルガスが感心したようにユウを見る。
「つまり、ただ湯を熱したり冷ましたりしたわけではないのか?」
「うん。その方が安定するから」
ユウは当然のことのように答えた。
「湯の性質を変えて、それぞれちょうどいい状態を保ちやすくしただけだよ」
「……だけ?」
今度はレグルスが聞き返した。
ダンが額を押さえる。
「その『だけ』に引っかかる気持ちは分かる」
セレナも湯船の中からユウを見つめている。
「あなた、人間なのよね?」
「そうだけど」
「本当に?」
「そこ疑う?」
ユウが困ったように笑う。
すると、それまで黙っていたガルヴァーンがゆっくり目を開けた。
大型種用の浴槽へ巨体を沈めたまま、低い声で言う。
「妙だ」
「ガルヴァーンさんまで?」
「この湯に入ってから、古傷の違和感が消えた」
その言葉にフェルザードが反応する。
「古傷?」
「千年ほど前についたものだ」
ダンが一瞬黙ったあと、呆れた顔になる。
「古傷の基準まで古竜なんだよな……」
ガルヴァーンは気にせず続ける。
「普段は問題ないが、長く人型を取っていると肩に重さが残る。それがない」
ユウが少し考える。
「大型種用の湯は、筋肉の疲れが取れやすいように調整してあるから、その影響かもしれない」
「そうか」
ガルヴァーンはそれだけ答えると、再び目を閉じた。
だが、周囲の古竜たちはそれで話を終わらせなかった。
ヴァルガスが湯船から身を起こす。
「待て。湯の温度を我ら一人ひとりへ合わせ、古傷にまで作用する湯を作り、しかもそれを普通のことのように言うのか?」
「普通というか……必要だったから」
「必要ならできるものではない!」
ヴァルガスの声が大浴場へ響く。
周囲の客たちが驚いて振り返るが、当の本人に怒っている様子はない。
むしろ妙に興奮していた。
レグルスも深く頷く。
「同感です。水質そのものへ直接干渉しているのでしょうが、その精度が異常です」
「異常って言われても」
ユウが困る。
「褒めています」
「そうなの?」
「かなり」
ダンが横から答えた。
セレナも湯の中で腕を組む。
「フェルザード」
「なんだ?」
「あなた、この人間についてどこまで知っているの?」
「ユウか?」
フェルザードは少し考えた。
「温泉を作るのがうまい」
「それだけ?」
「飯もうまい場所を作った」
「あなたに聞いた私が間違いだったわ」
「何だと?」
二人が言い合い始める。
その様子を見ながらカヤが笑っていたが、レグルスはまだユウを観察していた。
「水を操る術者は珍しくありません。氷や熱へ変換する者もいます。しかし、この方が行っているのはもっと根本的なものに見えます」
ユウが首を傾げる。
「【水質変化】だよ」
「名前は聞いています」
「名前だけなら地味よね」
セレナが言う。
ダンが大きく頷く。
「そこは俺も最初そう思った」
ユウがダンを見る。
「最初?」
「今はもう何が起きても驚かなくなった」
「それはそれでどうなの?」
そのやり取りを聞いたヴァルガスが突然笑い出した。
「ははははは!」
大浴場中に響く豪快な笑いだった。
「面白い!」
「何が?」
ユウが聞く。
「これほどのことをしておきながら、自分が何をしているのか分かっていないところだ!」
「いや、分かってるよ。温泉の調整だけど」
「ほらな!」
ヴァルガスがレグルスを見る。
「確かに重症ですね」
「何が!?」
今度はユウが少し焦る。
セレナはそんなユウをしばらく見つめたあと、静かに言った。
「湯の神」
「……え?」
大浴場が一瞬静かになる。
ダンがゆっくりセレナを見る。
「今、何て?」
「湯の神よ」
セレナは真面目だった。
「これほど自在に湯を操り、古竜すら満足させるのなら、その呼び名でもおかしくないでしょう」
「おかしいだろ!」
ダンが即座に突っ込んだ。
しかし、ヴァルガスは腕を組み、妙に納得した顔をしている。
「悪くないな」
「乗るな!」
「我ら四大古竜の好みを一度に満たしたのだぞ。そこらの人間にできることではない」
レグルスも考え込む。
「神格を持つ存在かどうかは別として、称号としては興味深いですね」
「分析すんな!」
ガルヴァーンまで目を開ける。
「湯の神」
「ガルヴァーンさんまで!?」
ユウが珍しく慌てた。
ガルヴァーンはしばらくユウを見たあと、重々しく頷いた。
「分かりやすい」
「分かりやすさで決めないで!」
フェルザードは腹を抱えて笑っていた。
「ははは! 良いではないか、ユウ。古竜に神と呼ばれる人間など滅多にいないぞ」
「滅多にというか、普通はいないと思う」
「ならば誇れ!」
「嫌だよ!」
ダンが思わず吹き出す。
「そこは嫌なんだな」
「だって僕、温泉を管理してるだけだよ?」
「その『だけ』で古竜四人が納得してねぇんだよ」
周囲にいた客たちも、次第に笑い始めた。
世界を滅ぼしかねない四大古竜たちが、一人の青年を真剣な顔で「湯の神」と呼んでいる。
普通なら神話か伝説の一場面になりそうな光景なのに、当の本人だけが心底困っていた。
その時、ミナがユウの隣へやってきた。
「ユウ」
「ミナまで変なこと言わないでね」
「湯の神」
「言った!」
ミナは少し考えたあと、首を傾げる。
「でも、ユウはユウ」
「……うん。それでお願い」
「分かった」
ユウはほっと息を吐いた。
ところが、その直後にヴァルガスが再び声を上げる。
「湯の神よ!」
「もう定着してる!」
「湯をもう少し熱くできるか!」
「注文する時だけ神扱いするのやめて!」
大浴場に笑い声が広がった。
こうして世界でも指折りの力を持つ四大古竜たちは、完璧に調整された湯へ浸かりながら、一つの結論へたどり着いた。
この人間は只者ではない。
少なくとも温泉に関してだけは、自分たちの常識すら簡単に超えてくる。
その結果、本人の意思とはまったく関係なく、この日から古竜たちの間でユウは「湯の神」と呼ばれるようになった。
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