人型になった超存在
四大古竜がやわらぎの谷へ降り立ってから、しばらくの間、谷全体には妙な緊張感が漂っていた。
理由は単純だった。
怖いのだ。
炎天竜ヴァルガス、氷海竜セレナ、冥星竜レグルス、地殻竜ガルヴァーン。
そこへ竜眠山脈の守護竜であるフェルザードまで加われば、今この谷には一国どころか、世界そのものを揺るがしかねない存在が五人も集まっている。
しかも本人たちは、人の姿になって食堂で飯を食べているだけだった。
「肉を追加してくれ!」
ヴァルガスの声が食堂に響く。
「さっき十人前食っただろ!」
離れた場所からダンが叫んだ。
「まだ腹六分目だ!」
「古竜の腹具合なんか知るか!」
厨房ではレインが次々と料理を仕上げ、新しく入った従業員たちが必死になって運んでいる。
王都から来た料理人の一人は、最初こそ古竜たちを見て顔を青くしていたが、注文が増えるにつれて恐怖より忙しさの方が勝ったらしい。
「肉料理、追加五皿!」
「野菜も持っていけ!」
「鍋が空きました!」
「次を入れろ!」
食堂だけを見れば、少し大食いの客が来ただけのようにも見える。
しかし、事情を知っている客たちはそうはいかなかった。
冒険者の一人が小声で仲間へ尋ねる。
「あの赤髪の人、本当に火山作ったのか?」
「らしいぞ」
「隣の女の人は?」
「怒ったら海が凍る」
「帰ろうかな」
「俺もそう思ってた」
「でも飯注文したばっかりなんだよな」
「じゃあ食ってからにするか」
結局、帰らない。
それがこの谷だった。
やがて食事を終えたフェルザードが、満足そうに腹をさする。
「さて、次は本命だな」
「温泉?」
ユウが聞く。
「そのためにここまで来たのだ」
「同窓会じゃなかったのかよ」
ダンが横から突っ込む。
「同窓会で温泉へ入って何が悪い」
「いや、悪くはないけどよ」
ヴァルガスも勢いよく立ち上がった。
「フェルザードがそこまで褒める湯だ。どれほどのものか確かめてやろう!」
セレナはそんな彼を横目で見る。
「あなたは何と張り合っているの?」
「温泉だ!」
「意味が分からないわ」
レグルスはすでに興味津々だった。
「温泉に含まれる魔力と古竜の肉体との相互作用については非常に興味があります。可能であれば入浴前後で魔力循環を測定したいのですが」
「風呂くらい普通に入れ」
ガルヴァーンが一言で切り捨てる。
「あなたに言われるとは思いませんでした」
そんな会話をしながら五人が大浴場へ向かうと、それまで普通に入浴していた客たちの間に一瞬で緊張が走った。
「来たぞ」
「古竜だ」
「どうする?」
「どうするって……風呂だろ?」
「一緒に入るの?」
「たぶん」
露天風呂にいた冒険者たちまで妙に姿勢を正している。
ミナはその様子を見ながら首を傾げた。
「みんな、固い」
「緊張してるんだと思う」
ユウが答える。
「どうして?」
「古竜だからじゃない?」
「フェルザードも古竜」
「そうだね」
「フェルザードには慣れてる」
すぐ近くで聞いていたダンがため息を吐く。
「慣れって怖ぇな」
当の古竜たちは、周囲の緊張など気にしていなかった。
人型になっているため、拡張された大浴場なら十分余裕がある。
最初に主浴槽へ向かったのはヴァルガスだった。
「これが温泉か」
足を入れようとする。
「待って」
ユウが止めた。
ヴァルガスが振り向く。
「なんだ?」
「先に身体を洗ってください」
一瞬、大浴場が静かになった。
世界を滅ぼしかねない炎天竜へ、普通に注意するユウ。
ダンが額を押さえる。
だが、ヴァルガスは怒ることもなく洗い場を見る。
「あれか?」
「そこです」
「分かった」
「素直なんだ……」
カヤが小声で呟いた。
フェルザードは慣れた様子で身体を洗い、セレナとレグルスもユウに使い方を聞いている。
問題はガルヴァーンだった。
小さな椅子をじっと見つめている。
「どうしました?」
ユウが尋ねる。
「小さい」
人型とはいえ、ガルヴァーンはかなり大柄だった。
座ると椅子が完全に身体の下へ隠れてしまう。
ダンが心配そうに見る。
「それ壊れねぇだろうな」
ぎしっ、と嫌な音が鳴る。
「今鳴ったぞ!」
ガルヴァーンがゆっくり立ち上がる。
「弱い」
「古竜基準で言うな!」
結局、大型種用の頑丈な椅子を持ってくることで解決した。
全員が身体を洗い終えると、今度こそ湯船へ向かう。
最初に入ったのはヴァルガスだった。
「ぬお……」
一歩、さらに一歩と進み、そのまま肩まで湯に沈む。
「……」
先ほどまで騒がしかった男が、急に黙った。
フェルザードが笑う。
「どうだ?」
「……待て」
「何をだ?」
「今、話しかけるな」
ヴァルガスは目を閉じた。
そして数秒後、大きく息を吐きながら湯船の縁へ背中を預ける。
「ふぁぁぁ……」
さっきまで火山を生み出した古竜とは思えないほど、顔が緩んでいた。
「おい」
ダンが目を丸くする。
「もう駄目になってないか?」
続いてセレナが静かに湯へ入る。
「少し熱いわね」
「そっちにぬるめの湯もありますよ」
ユウが案内する。
「では、そちらを」
セレナがぬる湯へ移動し、ゆっくり肩まで浸かる。
しばらく目を閉じているうちに、こちらも少しずつ肩から力が抜けていった。
「これは……」
「どう?」
フェルザードが聞く。
「悪くないわ」
「顔はかなり良さそうだけどな」
ダンが言う。
「黙りなさい」
言葉は冷たいのに、声にはまったく力がない。
レグルスは湯へ入りながらも分析しようとしていた。
「なるほど。温泉成分だけではなく、地脈を通じて供給される魔力が肉体の緊張を――」
肩まで沈んだところで、説明が止まった。
ユウが少し待ってから尋ねる。
「どうしました?」
「……後にしましょう」
「分析は?」
「明日でもできます」
ダンが目を見開く。
「研究より風呂が勝った!」
最後のガルヴァーンも深い浴槽へ入った。
大柄な身体がゆっくりと沈んでいく。
最初は腕を組み、難しい顔をしていたものの、一分も経たないうちに腕がほどけ、浴槽の縁へ頭を預けた。
「……良い」
それだけ言って目を閉じる。
フェルザードはそんな四人を見ながら、得意そうに笑った。
「言っただろう。この湯は格別だと」
「お前も入らないの?」
ユウが聞く。
「無論、入る」
フェルザードも湯へ身体を沈める。
「……はぁぁ」
そして、やはり同じように顔が緩んだ。
ダンは湯船に並ぶ五人を見た。
世界を震撼させる古竜たち。
一体が怒れば国が滅びかねず、五人が本気で争えば大陸の形すら変わるかもしれない。
そんな超越的な存在が今は、同じ湯船の中で揃って力を抜いていた。
「……動きたくない」
ヴァルガスが呟く。
「同感ね」
セレナが目を閉じたまま答える。
レグルスは浴槽の縁へ頬杖をついていた。
「人間は興味深いものを作りますね」
「眠い」
ガルヴァーンは完全に脱力している。
フェルザードに至っては、
「酒があれば完璧だな」
などと言い出した。
「風呂で飲むな」
ダンが即座に止める。
周囲で緊張していた客たちも、徐々にその光景を見て力が抜けていった。
「……怖がって損したな」
誰かが呟く。
「普通のおっさんたちに見えてきた」
「聞こえているぞ」
ヴァルガスが片目を開く。
「すみません!」
冒険者が慌てて頭を下げる。
だが、ヴァルガスは怒らなかった。
「今は怒る気にならん」
そう言って再び目を閉じる。
ダンが笑う。
「温泉の勝ちだな」
ユウは首を傾げた。
「何と戦ってるの?」
「知らねぇよ。俺も言ってから思った」
ミナも浴槽の縁から五人を眺めていた。
「古竜も、温泉入ると同じ」
「同じ?」
「みんな、ふにゃふにゃ」
確かにその通りだった。
世界を滅ぼしかねない四大古竜も、竜眠山脈の守護竜も、湯船の中ではただの温泉好きな客にしか見えない。
しばらくすると、ヴァルガスが口を開いた。
「フェルザード」
「なんだ?」
「三百年も黙っていたことは許さん」
「何の話だ?」
「こんな場所を知っていたなら、もっと早く呼べ!」
セレナまで静かに頷く。
「それには同意するわ」
「私もです」
レグルスが続く。
ガルヴァーンも目を閉じたまま一言だけ言った。
「遅い」
「お前たち、我に会いに来たのではないのか?」
フェルザードが呆れた顔をする。
「温泉のついでだ!」
「逆だろう!」
古竜たちの言い争いが始まる。
しかし、誰一人として湯船から出ようとはしない。
ダンはその光景を眺めながら、小さくため息を吐いた。
「世界を滅ぼせる連中でも、風呂に入ればこうなるのかよ」
ユウは楽しそうに笑った。
「気に入ってもらえて良かった」
「お前は相変わらずそれだけだな」
やがて、谷に漂っていた緊張感はいつの間にか完全に消えていた。
人間も、魔族も、獣人も、そして世界最古の古竜たちも、同じ湯気に包まれながら、同じように肩の力を抜いている。
やわらぎの湯では、どれだけ強大な存在であっても関係ない。
ひとたび湯船へ浸かってしまえば、結局はみんな同じ、ただの客なのであった。
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