みんなの家
夕方、一日の忙しさがようやく落ち着き始めた頃、ユウは宿の裏手にある縁側へ腰を下ろしていた。
目の前には、背中を向けて座っているミナがいる。
その尻尾はいつもより少し膨らみ、耳も気持ちよさそうに伏せられていた。
「今日はずいぶん絡まってるね」
「いっぱい走ったから」
ミナが答える。
「大浴場と食堂と露店、何往復した?」
「分からない」
「だろうね」
ユウは苦笑しながら、手に持っていたブラシをゆっくりと動かした。
さらさらと毛が整っていく。
ミナはこうしてブラッシングをしてもらう時間が好きだった。忙しい日は特にそうで、最初はきちんと座っていても、しばらくすると身体から力が抜けていき、最後にはユウへ背中を預けるくらいまで脱力する。
今日もすでに、その一歩手前だった。
「もう少し右」
「ここ?」
「そこ」
「はいはい」
ユウが尻尾の付け根に近いところを丁寧に梳くと、ミナの耳がぴくりと動く。
その様子を見ながら、ユウは少し笑った。
今日は朝からいろいろあった。
食堂では新しく入った従業員たちが、それぞれのやり方を覚えようと奮闘していた。
王都から来た料理人と魔族の料理人が火加減について言い合いになったかと思えば、最後には二人で新しい炒め物を作っていた。
大浴場では拡張後の設備にもだいぶ皆が慣れてきて、サウナも正式に使われるようになった。
最近では「湯に入る前にサウナへ行く派」と「最後に入る派」で、妙な議論まで起きている。
そして今日は、ガレスたちが谷の定期警護を引き受けることになった。
少し前までは考えもしなかったことだった。
「ガレスたち、もう行った?」
ミナが聞く。
「今日はまだ泊まっていくって」
「そうなんだ」
「明日から一度、谷の外周を確認するみたい」
「ダンも一緒?」
「最初はね。道とか危険な場所を教えるって言ってた」
ミナは小さく頷いた。
「なら安心」
「ダン、信用されてるね」
「うん」
「本人が聞いたら喜ぶかな」
「たぶん調子に乗る」
「それもそうか」
二人で笑う。
その時、食堂の方から大きな声が聞こえた。
「誰だ! また鍋を追加したのは!」
レインだった。
続いて、カヤの声が響く。
「お客さんです!」
「それは分かっている!」
「じゃあ作ってください!」
「作っている!」
ユウが思わず笑う。
「まだ忙しそうだな」
「レイン、最近楽しそう」
ミナが言った。
「うん。前よりずっとね」
味覚を取り戻してからのレインは、以前とは見違えるほど生き生きしていた。
新しい従業員が入ったことで教える仕事も増え、忙しさそのものはむしろ以前より増している。それでも、料理を作る姿は楽しそうだった。
少し離れた大浴場からも賑やかな声が聞こえてくる。
人間の冒険者たちの笑い声に、獣人の子供たちの声。
さらにその向こうから、
「熱いぞ!」
「だから水をかけすぎるなって言っただろ!」
ダンの声まで響いた。
どうやらサウナでまた何かあったらしい。
ユウがそちらを見る。
「見に行った方がいいかな」
「大丈夫」
ミナが動かずに答える。
「ダンいるから」
「信用されてるなあ」
「今日はブラッシング」
「分かったよ」
立ち上がりかけたユウは、もう一度座り直した。
そして少しずつ、ゆっくりとブラシを動かしながら、ミナの毛並みを整えていく。
夕方の風が谷を抜けていった。
温泉から立ち上る湯気が風に流され、建物の向こうへ消えていく。
露店街では店じまいを始める者もいれば、夕食時の客を狙ってまだ呼び込みを続けている者もいる。
その中を、人間と魔族が並んで歩いていた。
ドワーフは酒樽を転がし、エルフは薬草を抱えて食堂へ向かう。
獣人の子供たちは、温泉まんじゅうを分け合いながら走っていた。
「走っちゃ危ないよー!」
ユウが声をかける。
「はーい!」
返事だけは元気だったが、当然のように速度はほとんど変わらない。
「……聞いてないね」
ミナが言う。
「ミナも昔あんな感じだったよ」
「違う」
即答だった。
「そうかな?」
「違う」
「二回言った」
ミナの尻尾が少し動く。
ユウは笑いながら、その先端までブラシを通した。
「はい。こっちは終わり」
「もう一回」
「まだやるの?」
「反対側」
「はいはい」
ミナがくるりと向きを変える。
今度は尻尾の反対側だった。
ユウがブラシを動かし始めると、ミナはしばらく谷の景色を眺めていた。
「……最初」
「うん?」
「ここ、静かだった」
ユウの手が少しだけ止まる。
「そうだね」
本当に、最初は何もなかった。
古い宿と小さな温泉があるだけで、誰も近づこうとしない谷だった。
聞こえるのは風の音くらいで、客が来ること自体が珍しかった。
それが今では、食堂があり、大浴場があり、露店街があり、あちこちから笑い声が聞こえてくる。
「人、増えた」
ミナが言う。
「増えたね」
「最初はダンたちが来た」
「うん」
「それから、カヤも、リーフェも」
「うん」
「グーちゃんも」
遠くから、
「わふ!」
呼ばれたと思ったのか、露天風呂の方から鳴き声が聞こえた。
ユウとミナが同時にそちらを見る。
「聞こえてるのかな」
「グーちゃんだから」
「理由になってるような、なってないような」
ミナは少し笑ったあと、また谷を見つめる。
「今はいっぱいいる」
「そうだね」
「人間もいる。獣人もいる。魔族もいる」
「ドワーフもエルフもいるね」
「氷精霊も」
「いるね」
「王様も来る」
「たまにこっそりね」
「魔王も」
「同じくこっそり」
二人で笑う。
少し前には、国王と魔王が同じサウナに入り、そのまま国境問題まで話し合っていた。
改めて考えると、とんでもないことだった。
けれど、この谷ではだんだんそれすら特別ではなくなってきている。
温泉に入り、同じものを食べ、疲れたら休む。
それだけで、立場も種族も関係なくなる。
ミナはしばらく黙っていた。
そしてブラシを受けながら、小さく呟いた。
「ここが、みんなの家になったね」
ユウの手が止まった。
「家?」
「うん」
ミナは振り返らず、ただ嬉しそうに尻尾を揺らした。
「帰ってくる人、いっぱいいる」
依頼を終えた冒険者。
仕事に疲れた商人。
王都から来た料理人。
魔族領から訪れる旅人。
そして、一度はユウと別れたガレスたちまで。
皆、ここへ戻ってくる。
「疲れたら帰ってきて、お風呂に入って、ご飯食べて、寝る」
「それは確かに家っぽいね」
「うん」
ミナは少し考えてから続けた。
「喧嘩しても、最後は帰ってくる」
「誰のこと?」
「いっぱい」
「そんなにいる?」
「ダンとカヤ」
「それは喧嘩というか……」
「レインと新人」
「料理の話になると熱いからね」
「国王と魔王」
「それは規模が違うなぁ」
ユウが笑う。
ミナも小さく笑った。
「でも、みんな帰ってくる」
その言葉を聞きながら、ユウは改めて谷を見渡した。
自分が最初から、こんな場所を作ろうと思っていたわけではない。
ただ温泉を見つけ、誰かが来て、疲れていたから入ってもらった。
お腹が空いていれば食事を出し、泊まる場所が必要なら部屋を用意した。
それを繰り返していただけだった。
それなのに気づけば、いつの間にかこんなに人が集まる場所になっていた。
「家か」
ユウが呟く。
悪くない。
むしろ、少し嬉しかった。
「じゃあ、ちゃんと守らないとね」
「うん」
「ガレスたちにも手伝ってもらうし」
「ダンもいる」
「ドグランもいるね」
「カヤも、リーフェも」
「レインも」
「グーちゃんも」
「グーちゃんは主に風呂入ってるけどね」
「守ってる時もある」
「確かに」
ユウが笑いながらブラシを動かしていると、その時だった。
「ユウー!」
食堂からカヤが顔を出した。
「お客さん増えたー! 席足りない!」
続いて、
「ユウ!」
今度はダンの声が飛んでくる。
「サウナの休憩椅子、また足りねぇぞ!」
さらに、
「ユウ殿!」
ドグランまで現れた。
「食堂をもう一段広げる話だが――」
「待て! 今それ以上広げんな!」
ダンが叫ぶ。
「必要だろう!」
「また工事始める気か!」
一気に周囲が騒がしくなった。
ユウは困ったように笑い、ミナはその賑やかさを楽しむように耳を動かした。
「……家、騒がしい」
「だね」
「でも」
ミナは振り返ると、嬉しそうに笑った。
「これくらいがいい」
ユウも頷く。
「うん。僕もそう思う」
夕暮れのやわらぎの谷には、今日も温泉の湯気がゆっくりと立ち上っていた。
食堂からは誰かの笑い声が聞こえ、大浴場からも賑やかな声が響いている。
ここへやって来る者もいれば、旅立っていく者もいる。
それでも疲れた時には、また帰ってくればいい。
そのたびに温かな湯が待っていて、食事があり、誰かが迎えてくれる。
そうして今日も、やわらぎの谷には誰かの「ただいま」と、誰かの「おかえり」が当たり前のように響いていた。
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