リーダーの涙
「今日はいいんだよ。せっかくユウが休んでけって言ってくれたんだし、今日くらい本当に休もうぜ」
ガレスがそう言うと、セシルは小さく笑って「賛成」と答え、フィアも隣で頷いた。
三人はそのまま、しばらくぬるめの湯に肩まで浸かっていた。
長い依頼を終えたばかりの身体には、その温かさが驚くほど心地よかった。硬くなっていた肩や背中から少しずつ力が抜け、歩き続けて重くなっていた足も、ようやく休める場所を見つけたように軽くなっていく。
だが、身体が楽になればなるほど、ガレスの胸の奥に残っているものだけが、かえってはっきりしていった。
何も考えずに休めばいい。
つい先ほど、自分からそう言ったばかりだし、ユウも同じように疲れているなら休めと言ってくれた。
それなのに目を閉じると、これまでのことが次々と思い浮かんでくる。
依頼を受ける時も、危険な道を進む時も、魔物と戦う時も、誰かが傷ついた時も、最後に決めるのはいつも自分だった。
「ガレス?」
フィアに声をかけられ、ガレスは目を開ける。
「ん?」
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
考えるより先に、いつもの言葉が口から出た。
大丈夫だ。問題ない。俺に任せろ。
いつからだろう。
その言葉を何度使ったのか、自分でも分からなくなっていた。
フィアは少し心配そうにガレスを見ていたが、それ以上は何も聞かなかった。
やがてセシルが湯船から立ち上がる。
「私はそろそろ上がるわ。さすがに長く入りすぎたら逆に疲れそうだもの」
「私も上がろうかな」
フィアも続いて立ち上がった。
「ガレスは?」
「俺はもう少し入ってる」
「のぼせないようにね」
「ああ」
二人が浴場の外へ向かう。
フィアは途中で一度だけ振り返ったが、ガレスがいつものように手を振ったので、そのままセシルの後を追っていった。
二人の姿が見えなくなると、ガレスはゆっくり息を吐いた。
大浴場にはまだ他の客もいる。
離れた浴槽では冒険者たちが話をしているし、露天風呂の方からは時折笑い声も聞こえてくる。
それでも今いるぬる湯の浴槽には、ガレス一人しかいなかった。
「……何やってんだろうな、俺」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、ガレスは湯の中へ両腕を沈めた。
リーダー。
いつからか、それが自分の名前のようになっていた。
パーティーを組んだ時から、何かを決めるのはガレスの役目だった。どの依頼を受けるのか、どの道を進むのか、どこで野営をするのか。強敵と遭遇した時に戦うのか逃げるのか、それを決めるのも自分だった。
最初は嫌ではなかった。
むしろ頼られていることが嬉しかったし、自分が仲間を守るのだという気持ちも強かった。
けれど、依頼が難しくなり、危険な魔物と戦うことが増えるにつれて、その役目は少しずつ重くなっていった。
一度の判断を間違えれば、誰かが大怪我をするかもしれない。最悪の場合、仲間が死ぬかもしれない。
だから間違えてはいけない。
疲れたと言ってはいけないし、怖いなんて口にしてはいけない。
自分が不安そうにしていれば、セシルやフィアまで不安になる。
ずっと、そう思っていた。
そして、ユウをパーティーから外した時も同じだった。
「……俺が決めたんだよな」
あの頃、依頼の難度は上がり続けていた。
ユウは戦えない。
強い魔物が現れれば、自分たちが守らなければならない。
このまま一緒に危険な依頼を続ければ、いつかユウが死ぬかもしれない。
だから自分が決めなければならないと思ったし、リーダーなのだから、それが役目なのだと信じていた。
けれど、今日のユウを見てしまった。
人間や獣人だけではなく、魔族やドワーフまで当たり前のようにユウへ声をかけ、何かあれば頼り、笑い合っていた。
自分が「使えない」と判断した少年が、今ではこれほど多くの者に必要とされている。
「……使えない、か」
自分が口にした言葉を思い出し、ガレスは苦い顔をした。
本当にあれしか方法はなかったのだろうか。
もっと話し合えたのではないか。
危険な依頼を減らしてもよかったし、少し進む速度を落としてもよかった。
一度立ち止まることだってできたはずだ。
それなのに、あの頃の自分は止まることを考えもしなかった。
前へ進むことだけが正しいと思い込んでいた。
「何がリーダーだよ……」
口にした瞬間、ぽつりと湯面が揺れた。
ガレスは最初、それが何なのか分からなかった。
もう一滴、さらに一滴と、頬を伝ったものが湯の中へ落ちていく。
「……あれ?」
手で顔を拭う。
目元が濡れている。
湯気のせいではなかった。
「なんだよ、これ……」
笑って誤魔化そうとしたが、うまく笑えない。
それどころか、一度こぼれ始めた涙は止まらなかった。
「……くそ」
もう一度拭う。
それでも次から次へと溢れてくる。
「俺だって……怖かったんだよ」
声にした途端、胸の奥で何かが崩れた。
魔物と戦う時も怖かった。
仲間が傷ついた時も、自分の判断が間違っていたのではないかと何度も思った。
依頼を受けるたび、この選択でいいのかと迷っていたし、本当は誰かに聞きたかった。
これでいいのか。
自分は間違っていないのか。
けれど、それを口にすることはできなかった。
「俺が決めなきゃって……俺がしっかりしてなきゃって……」
声が震える。
ガレスは両手で顔を覆った。
「誰かに、間違ってないって言ってほしかっただけなのに……」
自分でも驚くほど弱い声だった。
こんなことを誰かに言ったことは一度もない。
リーダーだから強くなければならないと思っていた。
仲間の前では余裕があるふりをして、怖くても笑い、疲れていても次の依頼を探した。
立ち止まれば、自分が弱い人間だと分かってしまいそうだったから、ずっと走り続けた。
そしてユウを外した判断についても、間違っていなかったと思い続けるしかなかった。
もしあれが間違いだったと認めれば、自分は大事な仲間を傷つけたリーダーになってしまう。
それが怖かった。
「……疲れた」
ぽつりと漏れた言葉に、自分自身が一番驚いた。
「もう、ずっと疲れてたんだな……」
依頼を終えても休まず、次の仕事を受けた。
少し有名になれば、さらに難しい仕事を選んだ。
失敗すれば自分の責任で、仲間が傷つけば自分の判断が悪かった。
そうやって何もかも背負い込んでいた。
「ごめん……」
誰に向けて言ったのか、自分でも分からなかった。
ユウなのか。
セシルやフィアなのか。
それとも、ずっと無理をしていた自分自身なのか。
一度口にすると、もう止まらなかった。
「ごめん……ごめんな……」
大柄な戦士が、湯船の中で顔を覆いながら泣いていた。
声を押し殺すこともできず、子供のように涙を流した。
けれど、不思議と恥ずかしいとは思わなかった。
涙が落ちるたび、胸の奥に溜まっていたものまで一緒に流れていくような気がした。
どれくらいそうしていたのかは分からない。
やがて涙が止まる頃には、ガレスは力の抜けた顔で湯船の縁に寄りかかっていた。
「……ひでぇ顔してるんだろうな」
自分で言って、少し笑った。
それは最近よくしていた、仲間を安心させるための笑いではなかった。
誰かに強く見せるためでもなく、ただ自然に出た笑いだった。
「リーダーだからって、何でも一人で背負わなくてもいいのか」
口にしてみると、あまりにも当たり前のことに思えた。
失敗することだってある。
怖い時もある。
疲れた時は休めばいいし、助けてほしいならそう言えばいい。
リーダーである前に、自分もただの一人の人間なのだから。
ガレスはゆっくりと立ち上がった。
身体はずいぶん軽くなっていた。
もちろん、何もかも解決したわけではない。
ユウに言わなければならないことも残っているし、これから自分たちがどうするのかも考えなければならない。
それでも今なら、以前とは違う気持ちで向き合えるような気がした。
浴槽から出ようとしたところで、少し離れた場所からダンの声が飛んできた。
「おい! さっきからずっと入ってるけど大丈夫か? のぼせるぞ!」
ガレスは一瞬驚いたあと、思わず笑った。
「分かってるよ! 今上がる!」
返した声は、自分でも驚くほど軽かった。
ガレスはもう一度だけ湯船を振り返る。
焦りも、意地も、重圧も、ここですべて消えたわけではない。
それでも、一人で抱え込まなくていいのだと、ようやく思えるようになった。
大きく息を吐いたガレスは、今度こそ浴槽から上がる。
そして久しぶりに、誰かを率いるリーダーではなく、ただのガレスとして、セシルとフィアの待つ場所へ歩いていった。




